Ep.115 復讐の炎

 オリヴィアとの押し問答に囚われて視野が狭まっていた俺と心美は、忽然と闇の中に姿を消した未解決事件の黒幕・アドルフの気配に感覚を研ぎ澄ませた。


 ──パリン。


 程なくして、まるでビール瓶を床に落としたかのような破砕音に背筋が凍り、ほぼ反射的に後ろを振り向いた直後、眼前に広がる光景には思わず目を疑った。


 なぜなら、彼の足元のカーペットには、煌々と光り揺らめく炎の海が全てを呑み込まんとする勢いで、床に散乱した本や木製の家具を瞬く間に侵食していたからだ。


"You let your guard down. No matter how you try to stand your ground, the flames will burn away all the evidence with your corpses."

(油断したな。どう足掻こうとも、炎はお前らの死体と共に全ての証拠を焼き尽くすだろう。)


「くそっ、アドルフ!!」


 憤怒の咆哮と同時に長銃を乱射するオリヴィアだが、彼女の華奢な腕には制御が利かず、不規則にばら撒かれた銃弾は全て炎の壁に吸収され、その奥へと姿を消したアドルフを仕留めるには至らない。程なくして弾が切れた銃を投げ捨て、我を忘れてアドルフの後を追うべく突進するオリヴィアの前に立ち開かったのは、心美だった。


「待ちなさい! こんな時こそウィリアムさんを思い出して、冷静に物事を俯瞰するのよ!」


「黙れ! 両親を殺し、プルンバゴ家に仕えた従者たちを殺し、挙句の果てには皆との思い出の結晶だった邸館に火を放つだなんて、もう奴をこの手で殺すことでしか気が済まない!」


「今すぐ扉の奥にあるウィリアムさんの意思を継げば、まだアドルフを法によって裁くチャンスはある! けれど、ここで私たちが争って共倒れになったら奴の思い通りにしかならないのよ! 銃には貴方の指紋も付着してしまったでしょうし、ここで奴の犯罪に繋がる証拠をみすみす失えば、貴方の立場も──」


「五月蠅い! 邪魔立てするなら、まずは貴方から殺してやるわよ!」


 心美とオリヴィア、見目形は合わせ鏡のように似通ったふたりだが、相反する思想により明確に敵対してしまう。俺は憎悪の炎に身を焦がすオリヴィアを止めるべく、間に割って入ろうとした瞬間、燃え盛る火の弾ける音に紛れて微かに耳へ届いた呻き声に振り返った。


「杉本さん!?」


「すみません、やられてしまいました……。」


 脇腹を押さえてうずくまる杉本の頭を抱えて上体を起こすと、傷口からは蛇口を捻ったようにどくどくと血が流れる。


「オリヴィア様の流れ弾が、不運にも当たってしまったようです……。」


「喋らなくて良い! すぐに外へ──」


「いけません! わ、私のことは構わず、お嬢様を止めるべく茉莉花様に加勢を……!」


 青褪めた杉本の顔色と夥しい出血量から察するに、決して長くはもたないだろうことは、素人の俺よりも医の道を知る彼女の方が良く理解しているだろう。それでも自分の命を省みることなく、オリヴィアのことを第一に考える彼女の意思は決して無下にはできなかった。


 だが、杉本の容態を心配するあまり、心美とオリヴィアのせめぎ合いから目を離してしまった間、ふたりは部屋の隠し扉の鍵であるライターを巡って、迫り来る火の手など構うことなく戦闘を繰り広げていた。


「そのライターを寄越しなさい! アドルフに法の裁きなど甘過ぎる! プルンバゴの名に懸けて天誅を下さなくては気が済まないのよ!」


「絶対にダメよ! もしアドルフの犯罪を立証する物的証拠が焼失すれば、今度こそ未解決事件は永久に迷宮入りよ! それが探偵として活躍したウィリアムさんの名誉に泥を塗る愚行であることすら、理解が及ばないのかしら!?」


 何という運命の悪戯か、杉本の好意によって今朝方着替えた心美の服装はオリヴィアのものと全く一緒だった。それどころか、空手を得意とする心美と同じ構えで拳を交えるオリヴィアもまた相当な実力者のようで、一見してどちらが味方すべき相棒なのか分からない。


「ふたりとも、そこまでだ!」


 そこで、俺はオリヴィアのデスクに仕舞われている護身用の拳銃を取り出し、雷鼓を凌ぐほどの声量で彼女たちの注意を惹いた。取っ組み合いになって隠し扉の鍵を奪い合っていた彼女たちの手から、ライターは呆気なく床に落下し、一瞬にも満たない静寂が訪れた。


「もう時間が無い。悪いが、オリヴィアには暫く動けなくなる程度の怪我を覚悟してもらう。」


 俺の脅し文句には、流石の彼女たちも激しく狼狽して動きを止め、銃口を向けた俺の方へと向き直り釈明を始める。


「堅慎、落ち着いて! 私が茉莉花心美よ!」


「違う、騙されないで! 彼女はオリヴィアよ!」


 ただでさえ似通った声質のふたりだが、燃え盛る炎と立ち昇る煙に喉を焼かれ、嗄れ声で必死になって俺の名を叫ぶ彼女らの正体を判別するのは至難の業だ。身体的特徴は全く以て当てにならない。信じられるのは、己が心美を想う気持ちだけだ。


「何か質問を考えて頂戴! 茉莉花心美だけが知っていて、オリヴィア・プルンバゴが知り得ない何かを問い掛けるの!」


「っ、そうか。」


 俺はこの世の何よりも大切に想っている女性に、疑いの目と同時に害意の矛先を向けることを心の中で何度も詫び、胸が張り裂けそうになるのを必死に我慢して、拳銃を構えて片方ずつ質問に答えるよう促す。


「両親の名は?」


「父は大善。母は、心寧よ。」


 足元に銃口を向けられてなお、詰まることなく名前を出した彼女は、質問の相手が変わったことに安堵の溜息を吐いた。


「普段俺が淹れているジャスミン、茶葉の量は?」


「5グラムよ。80℃の熱湯で抽出した後は蓋をして60秒間蒸らす、でしょ。」


 わざわざ口にした記憶もない日常のノウハウすら言い当てた彼女の方は、どこか余裕すら感じさせる表情で俺の目を真っ直ぐに見つめて答えた。その反応を横目に観察していたもう片方は、面に焦りの色を浮かべた。


「そんなことまで……。」


「堅慎、早くしないと火が回るわよ!」


 決断を急かそうとする一方の言葉に、もう一方は落ち着きを取り戻すように口元を袖で覆って深呼吸し、理路整然と反論する。


「堅慎、忘れていないでしょうね。盗聴・盗撮の被害に遭ってきた過去1年間の私たちに関連する出来事では、オリヴィアが把握していてもおかしくない。それよりも、私と堅慎を除いて知りようがないことについて質問するのよ……!」


「そうだな……。」


 彼女の主張は尤もな話だが、改めて質問を考えろと言われてもそれはそれで難しい。というのも、俺と心美は自宅で昔話に花を咲かせたり、事務所を訪問した依頼人との会話を通じて過去の事件に言及したりなど、その内容に時間的な区分はないため、オリヴィアが盗聴・盗撮を通じて自分たちの事情にどこまで精通しているのかといったことは未知数だ。


 となれば、ここは逆転の発想だ。過去の話をしてもオリヴィアに答えられてしまう可能性があるというのなら、スウェーデンで杉本と行動を共にした僅かな期間、ごく最近の出来事に関する質問をするのが最適だろう。


「だったら、これはどうだ。家族を亡くしたと雖も、故郷は日本にある杉本さんが、何故ウィリアムさんの没後もこうしてプルンバゴ家に留まっているのか。それが分かるか?」


「そんなの、ウィリアムさんから受けた大恩を返すために決まってるじゃない。」


「いいえ、それは違うわ。」


 先手を取り、堂々と断言した片方の言い分を否定した彼女は、横槍を入れられる前に矢継ぎ早に言葉を繋ぐ。


「恩を忘れていないからこそ、ウィリアムさん亡き後も、こうして彼の一人娘であるオリヴィアを傍で見守っている。確かに、そういう側面もあるでしょう。けれど、幼い頃から妹のように大切に接してきた貴方が両親を同時に失い、荒んでいく姿は見るに堪えなかったはずよ。」


「茉莉花様、もう結構です……。」


 床を這い蹲りながら、弱々しい声で止めに入った杉本の目には、もうどちらがオリヴィア・プルンバゴ本人であるかは見分けがついているようだった。斯く言う俺も、最早どちらが大切な我が相棒なのかについては一目瞭然だ。


「それはただの同情なんかじゃない。貴方がウィリアムさんの娘であろうとなかろうと、杉本さんと過ごしていく中で育んできた親愛の情は本物よ。このまま言い争いを続けて、杉本さんが死んでしまっても貴方はそれで良いの!?」


 粘り強い心美の説教が効いたのか、オリヴィアは複雑な感情の増幅に歔欷きょきしながら、瀕死の杉本のもとへ駆け寄った。その姿にはもう復讐に囚われた鬼の面影はなく、継戦の意思も感じられなかった。


「お願い! 私はどうなっても良いから、杉本を助けてあげて! 彼女は貴族家のしがらみとは何の関係もない、父の恩義には今まで十分に報いてくれたわ!」


「分かってる! 堅慎は隠し扉の中身を窓から外に放り投げて!」


 心美からの指示により、炎に包まれた床を走り抜けて金属扉の窪みにライターを嵌め、見るからに重たそうな扉の大きな取っ手部分に触れるも、長時間にわたって熱気に晒されていた金属は既に相当な高温で、思わず腕を引っ込める。


「あっつ……!」


 とはいえ、これ以上の猶予はない。俺は着ていたシャツを脱いで掌を覆い、全体重を掛けて扉を引っ張ると、隠し部屋の大きさには不釣り合いのこじんまりとした棚があった。念のため早急に中を確認すると、写真を含む外国語の文字列で綴られたレポートやUSBなどが厳重に保管されていた。


 その内容には、ノアが誤認逮捕されるきっかけとなった殺人事件の発生した民宿に設置されていたと思われる監視カメラの映像に始まり、関係者の目撃証言、容疑者として考えられる貴族家のリストと犯行時刻におけるアリバイの有無から、コーネル家の前当主・アドルフを最重要容疑者とする旨の記述があった。間違いなく、これが真犯人を追い詰めるための最後のピースとなるだろう。そう考えた俺は、証拠品が入った小さな棚ごと隠し部屋から運び出し、最上階のオリヴィアの部屋、その窓から外へと投げ捨てた。


「後はプルンバゴ邸を脱出するだけだ。どうする……?」


 その問いに即答できるものは居ない。それもそのはず、恐るべき火柱は唯一の退路である部屋の扉を覆い、じわじわとその境界線を侵食し始めていたからだ。


「窓から飛び降りるのは無謀にも程がある……。かと言って、手負いの杉本さんを連れて正面から強行突破するのも──」


「皆様、どうか私のことはここへ置いていってください……。」


 伝播する絶望感を察知したのか、杉本が到底受け入れ難い提案をする。


「何をふざけた事言ってるのよ! 皆でここを出ないと、もうこれ以上、アドルフの思い通りにさせてなるもんですか!」


「お嬢様。恐れながら、今まで貴方の従者として忠実にお仕えしてきた私の、最初で最期のお願いです。貴方まで犠牲になってしまえば、私はあの世で父君に合わせる顔がありません。茉莉花様、聡明な貴方であれば、もうこれしか取り得る手段がないことくらいお分かりですね。」


 刻一刻と迫る炎の激浪と際限なく上昇する室温は、残された時間がごく僅かであることを非情に告げる。もはや杉本の言う通りにするしかないことなど、誰もが心の奥底で直感的に理解していた。


「っ、行きましょう……。」


「ありがとうございます、茉莉花様。」


 断腸の思いで決断を下したのは、他でもない心美だった。その言葉に同意を示すが如く、罪悪感を取り除くように微笑みを返す杉本の揺るぎない決意が滲んだ瞳に敬意を表し、その場を動こうとしないオリヴィアを無理やり抱きかかえた。


「離して! 私は杉本も一緒じゃないと嫌よ! こんな結末、絶対に認めない!」


「オリヴィア様を、よろしくお願いします……。今度こそ本当に独りきりとなってしまうお嬢様を、救ってあげてください。かつての茉莉花様のように。」


 杉本の遺言に、俺は涙声を悟られぬように無言で頷き返す。俺の返事を受けた彼女は、満足そうに口角を上げて安らかな表情のまま地に伏せた。去り際、部屋には猛き炎の唸り声と啼泣するオリヴィアの叫び声が歪な鎮魂歌を奏で続けていた。

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