Ep.114 因縁の地

 本降りとなってきた雨に真犯人の痕跡が掻き消されぬうち、急ぎ林道を駆け抜ける。甘雨の恵みに歓喜する草木の狂騒と、水を吸って粘土質になった地面の泥濘に足を取られ、何度も転びそうになりながらも歩を進めること暫くが経過した時だった。不安定な足場と車を降りて逃走中の男が残した足跡に夢中になって下を向いていたため気にも留めなかったが、長い林道を抜け、道標代わりの足跡が途切れた先の景色を目の当たりにした俺と心美は、その意外な終着点に驚愕することとなる。


「ここは、プルンバゴ邸……!?」


「まさか戻ってくることになるとは……。」


 そう。息急き切って足を動かした俺たちの行く手に立ち塞がったのは、先代当主・ウィリアムの殺害現場にして、俺と心美が数日間にわたって軟禁された洋館──プルンバゴ邸だった。単なる偶然か、はたまた明確な意図があってのことか、泥に塗れた真犯人の足跡は無理やりに抉じ開けられたと見られる邸館の正面、格子状の門扉を越え、大輪の花を咲かせた瑠璃茉莉が彩る広大な庭先へと続いていた。


「な、なんだこれは……。」


 杉本の不在時、正面玄関の警備に当たっていたと思しき黒服の従者らが、先刻のノア同様、眉間に大きな風穴を開けられてその場に斃れ伏していた。敵の接近すら察知できなかったようで、正確無比に撃ち抜かれた傷口からは赤黒い脳漿のうしょうが飛び散って、翠雨に濡れた瑠璃茉莉の葉をまだらに染め上げていた。


「銃声は聞こえなかった。多分、真犯人の男はプルンバゴ邸に残った従者たちを全員始末する勢いで乗り込んだに違いないわ……。」


「おのれ……。ウィリアム氏と奥様に飽き足らず、この期に及んでまだプルンバゴ家に仇成すつもりですか……!」


「待て、落ち着くんだ杉本さん!」


 恩人を死に至らしめた怨敵によって作り上げられた、あまりに悲惨な光景に激昂した杉本は、我を忘れて単身プルンバゴ邸へと突撃しようとする。だが、冷静さを欠いた単独行動を許してしまえば、中で追手を警戒しながら銃を構えているであろう真犯人の思う壺だ。


「止めないでください! もう何年もこの時が訪れるのを願っては諦めてきました! ですが、ウィリアム氏を殺し、オリヴィア様から笑顔を奪った憎き犯人が目と鼻の先に居るんです!」


「ああ、だからこそ一致団結して、今度こそ真犯人を正しい法の裁きに掛けてオリヴィアの手を復讐の血に染めないよう、ここまで努力してきたんだろうが!」


 暴れる杉本を羽交い絞めにしながら試みた俺の説得は功を奏したようで、彼女の腕からすっと力が抜けるのを確認するや、大人しくそのまま拘束を解いた。


「すみません、取り乱しました……。」


「気にしないで。どんな結末が待ち受けているにせよ、今こそプルンバゴ家を翻弄した因縁に決着を付ける時よ。さあ、行きましょう。」


 正直なところ、長きにわたって盗聴・盗撮の被害に遭い、最終的に、理不尽にも遠路はるばる北欧の地へと連れ去られた挙句、誘拐犯本人から未解決事件の調査を依頼されるなどとは想像だにせず、今ここで命を賭してでも依頼を完遂すべき道理があるかと問われれば、素直に首を縦に振ることはできない。


 しかし、どれだけ縁遠い存在だったとしても、心美と同年代の少女だったオリヴィアが味わってきた苦痛は察するにあまりある。それに、杉本の涙に突き動かされるままここまで肩入れしてしまったからには、今更身を引こうというには遅過ぎるだろう。確固たる覚悟を感じさせる雨に濡れた心美の後ろ姿から、彼女もまた俺と同じことを考えているのだろうというのが、言葉を交わさずともしっかりと伝わってきた。



 §



 銃の脅威に対する戒心は怠らず、できるだけ音を立てないように両開きの玄関扉を片方だけ開くと、程なくして視界は闇に包まれた。停電を疑うほどに暗い屋内の様子はほとんど分からないので、邸館の間取りを把握している杉本が自然と率先して前を歩いた。


 雨風凌げる屋根の下にもかかわらず、湿り気を帯びた赤いカーペットに足を置く度に響く水音。辺りに転がった黒服の死屍累々。その全てが、鎌首をもたげた真犯人の殺意を雄弁に物語っていた。その凄惨な光景に、胃の底から迫り上がってくる吐き気を抑えながら強烈な鉄の錆びたような異臭に鼻を摘まむ。


「くそっ。奴は何が狙いでプルンバゴ邸に押し入ってこんなことを……。」


「分からない。けれど、明確な目的があることは間違いないわ。でないと、ここまで躊躇ためらいなく人を殺したりなんかしないでしょう。」


 緊張感から額に滲む汗を袖口で拭い、足音すら殺して大量殺人鬼の気配に耳を澄ませた刹那、広間全体に轟く雷鳴とほぼ同時に大窓から稲光が差す。そして、一瞬にも満たない間、思わず目を背けたくなるほどに残酷な現実を覆い隠す闇が晴れた。


「っ、見ましたか。床に染みた泥と血痕から、男は上の階に進んでいったようです。」


「ええ。物音を立てないように注意して、慎重に跡を辿っていきましょう。」


 真犯人によって汚されたカーペットの濡れた先を目印に、抜き足差し足で螺旋階段を上っては高鳴る鼓動を鎮めるべく胸を押さえる。それを何度か繰り返した後、雷の轟音に紛れつつ中央の廊下を突き進み、行き当たったのは、今朝方訪れたオリヴィアの部屋だった。


「この部屋に、ノアを利用して、ウィリアムさんが殺されるように仕向けた張本人が潜んでるのか。」


「もう逃げ場はないわ。袋の鼠よ。」


「窮鼠猫を嚙むとも言います。銃を持っている以上は侮れません。ご用心を。」


 銘々心の準備を済ませ、暗闇の中を手探りで、重たい扉をひと思いに開け放つ。挨拶代わりの鉄砲弾が飛んでくることを承知の上で身を屈めてはいたものの、待てど暮らせど覚悟していた轟音は響かない。その代わり、機嫌を損ねた天の咆哮が邸館全体を包み、蒼白い閃光が部屋の全貌を白日の下に晒した。


「意外と遅かったじゃない。留守番もまともにできず不審者の侵入を許すだなんて、当主失格ね。」


「お前は──」


 年季の入った長銃を両手に構え、清々しい表情で不敵な笑みを浮かべてみせたのは、信じられないことに、茉莉花心美を騙って両親の殺害に関与した黒幕を追って邸館を飛び出したオリヴィア・プルンバゴその人だった。しかし、驚くべきはそれだけに止まらない。


「これで私の復讐は達成される。邪魔立ては無用よ。」


「そいつ、あの時の……。」


 オリヴィアの持つ銃口の向いた先に視線を動かすと、床にひざまずき、両手を首の後ろに当てている老年の大男が身を震わせていた。その正体とは、俺と心美が誘拐犯の魔の手から逃れようと躍起になって平野を彷徨っていた際に出会った罠師だった。


「この男の名はアドルフ・コーネル。西海岸の港湾都市・ヨーテボリに影響力を有する公爵家の前当主よ。」


「なに……!?」


 オリヴィアの口から語られた男の素性は、その野性味溢れる屈強な風貌とも相俟って非常に信じ難いものだった。


「実を言うとね、私はノアから直接話を聞くまでもなく、スウェーデン国内の公爵家が衰退する貴族社会における確固たる地位を取り戻さんと、他の貴族家を排斥するような動きを見せていたことは何となく察していた。次期当主の殺人疑惑により信用が失墜したルンドストロム家、名探偵として名を馳せた我が父の死により凋落ちょうらくしたプルンバゴ家、知っての通り、両家は各地方での影響力を急激に失うこととなったわ。」


「だったら、どうして私を誘拐して茉莉花心美に成り代わった挙句、警察に捜査協力を求めようとしたのよ。真犯人にある程度心当たりがあったのなら、わざわざそんな回りくどいことする必要はなかったでしょうに。」


「プルンバゴ家現当主ともあろう者が、全国行脚して各地の貴族家へ『私の父を殺しましたか』と聞いて回れと言いたいのかしら。馬鹿馬鹿しい。私はね、もっと簡単に黒幕を炙り出す方法を思い付いたのよ。」


「茉莉花心美として未解決事件の話題を蒸し返し、自らその調査に乗り出すことで、それまで鳴りを潜めていた真犯人に証拠隠滅の必要を迫ろうっていう寸法ね。」


 オリヴィアによれば、ノアを罠に嵌めてルンドストロム家を陥れ、ウィリアム夫妻を殺害するように先の事件の遺族を操ってプルンバゴ家を衰退させた犯人が他の貴族家であることは明白であったものの、決定打に欠けていた。そこで、日本からやってきた名探偵と警察当局が協力して未解決事件の調査を敢行するという一大事を拡散し、真犯人を特定しようという目論見があったという。


「ノアが恐怖の殺人犯として逮捕されるよう彼の身辺で何の関係もない少女を殺害後、その裁判に関わった全ての人間を買収し、後から登場した名探偵を悪者にしてウィリアムさんに復讐の刃を向けるよう遺族をそそのかし、対抗勢力を軒並み弱体化させた後に貴族社会における実権を掌握する。それが黒幕の動機だった訳ね。」


「蓋を開けてみれば、釣り出されたのは大都市の公爵・コーネル家よ。まあ、今なら合点が行くわ。ヨーテボリは貿易や海運が盛んで、工業の中心地として知られているからね。造船業のマルメ、鉄鋼業のキルナで幅を利かせる貴族家を排除することができれば、独占的に強大な経済力を発揮して、スウェーデン国内で比肩する者はいないほどの権力を手にすることも叶うかもしれない。」


 オリヴィアの推理が図星を突いているのは、膝を折って項垂れるアドルフの反応を見れば自明だった。


「アドルフがここキルナで罠師として活動していたのは、おそらく私が父の殺害を裏で画策していた黒幕の存在を疑い、こうして真犯人捜しを始めないようにと監視する意味合いもあったんでしょう。そして、万が一事件の真相が明るみに出ないようにと、ノアの口封じを始め、いつでも証拠隠滅ができるようにと準備していた。ヨーテボリの方は、現当主を務めている一人息子に任せてね。」


「杉本さん、貴方もプルンバゴ家に仕える人間として、黒幕の正体に心当たりはなかったの?」


「私も所詮は人生の大半をおふたりと同じ国で過ごした日本人です。スウェーデンの貴族社会にまつわる情勢には決して明るくなく、一介の使用人に過ぎない私にとって、今ここでオリヴィア様が話したことは全て初耳でした……。」


 申し訳なさそうに首を振って答えた杉本に、今度はオリヴィアが恨み節を吐いた。


「杉本、まさか貴方に裏切られることになろうとはね。貴方がしっかりと茉莉花を見張ってプルンバゴ邸に滞在していれば、誰もアドルフに殺されることなく済んだはず。そして、滞りなく父の仇を討つことができたはずなのに……。父から受けた恩を忘れたっていうのかしら。」


「違う! 杉本さんはウィリアムさんのことを片時も忘れたことなんてない!」


「そうよ! ウィリアムさんの探偵としての矜持を覚えていたからこそ、血で血を洗う無意味な復讐を止めようと貴方のもとまでやってきたのよ!」


 忠誠を誓ったプルンバゴ家の現当主の命に背くことになろうとも、オリヴィアの手を血で汚さないようにと奔走してきた杉本を庇った心美の言葉だが、それは彼女の逆鱗に触れた。


「無意味ですって……?」


 その時、床の一点を見つめて硬直するアドルフに向いていたオリヴィアの銃口が心美の方へと移動する。


「何の関係もない余所の貴族家の利己的な権力欲で、理不尽に家族を奪われた私の気持ちが貴方に分かるとでも!?」


「いいえ。でも、少なくとも貴方の両親は復讐なんて望んでいない。」


「痴れ事を……! 私の両親に会ったこともないくせに!」


 感情的になるオリヴィアを諭す心美、ふたりの会話は平行線を辿るばかり。すると、心美はふと何かを思い出したかのように壁際の本棚へと歩み寄り、所狭しと押し込められている数冊の本を取り出して床に置いた。


「動かないで! 妙な真似をしたら、本当に撃つわよ!?」


「オリヴィア、貴方はこの絡繰りを知っていたかしら。」


 そう言うと心美は、丁度彼女の目線の高さに現れた、本棚の奥のハンドルを力の限り回した。長らく操作されていなかったであろうハンドルは甲高い悲鳴を上げて回転し、その後は半自動的に本棚全体が横方向にスライドしていき、奥側に存在した謎の空間から上品な部屋の雰囲気に全くそぐわない異質な金属扉が現れた。


「ここはプルンバゴ邸の最奥部、当主の部屋よ。となれば当然、生前のウィリアムさんが使っていた部屋でもある。そうよね。」


「だったら何だって言うの。」


「これは私の推測になるけど、天才探偵と持て囃されたウィリアムさんが何の確証もなく殺人事件の被告人として指名されたノアを助け、真犯人を捜そうとしていた訳ではなかったはず。この扉の向こう側には、私たちがこれまで積み重ねてきた推理をある程度裏打ちすることのできる証拠となるものが保管されているに違いないわ。」


「どうしてそう思うの!? 真犯人に繋がる証拠がないから私の父は志半ばで殺された、その話を忘れたかしら!?」


 激昂するオリヴィアに気圧されることもなく、至って冷静に心美は答える。


「ひとつは、証拠隠滅に動いていたアドルフがわざわざこのプルンバゴ邸まで足を運んだこと。それは、自分こそが一連の未解決事件における真犯人だと知られかねない重大な証拠が、この邸館にまだ眠っていることの暗示でもある。ただ、私が確信を得たのはそこじゃない。」


 厳重に施錠された、金属扉の中央部にある鍵穴と思しき窪みを指差しながら、心美は堂々と主張した。


「ここにアドルフの大犯罪を証明する何かがあると踏んだのは、この鍵穴の形状が理由よ。」


「鍵穴の形状ですって……?」


「この小さな長方形、覚えはないかしら。」


「まさか──」


 心美の真意をいの一番に見抜いたのは、杉本だった。そして、彼女の反応を見て、俺もまたその鍵穴にぴったりと当て嵌まる鍵を自分が持っていることに気付く。


「杉本さんから預かっていたこのライター、もしかしてこれが扉の鍵なのか?」


「鍵穴に彫られたプルンバゴの家紋である瑠璃茉莉の絵柄、そしてこの特殊な形状から察するに、それ以外考えられないわ。そして、当主の部屋に存在した隠し扉の鍵となるライターを、何故ウィリアムさんが一人娘であり、自身の死後、次期当主となるオリヴィアではなく、杉本さんへと託したのか。もう言わなくても分かるわよね。」


 かつて、絶望の淵に立たされた杉本を救い、探偵としての雄姿を娘に背中で語り続けたウィリアムの最期のメッセージ──それは、復讐によって我を忘れ、自らの手を汚すことすら厭わない娘の暴走を止めてほしいという、杉本への遺言だったのかもしれない。


「隠し扉の存在、さらにその鍵となるのは私が持っていたライター……。そんなこと、全く思いも寄りませんでした。」


「でも、本当に扉の向こうへ真犯人がアドルフだと証明できる何かがあるとするのなら、父は自分が死ぬ前に何かアクションを起こせたはずでしょう……!?」


「これも推測だけれど、アドルフのような大貴族に犯罪の嫌疑を掛け、その名誉を著しく汚すに足りるだけの証拠はまだ出揃っていなかったんじゃないかしら。狡猾で用意周到な真犯人に言い逃れの余地を与えてはならない。そう考えたウィリアムさんは、機が完全に熟するのを待っていたのよ。」


「奇しくも証拠隠滅に走った結果、ノアを始め、プルンバゴの使用人を大量虐殺したことでアドルフの犯罪も確定的になったと……。」


 途方もなく非道で許し難い事件の真相を知り、長年にわたって法の裁きを逃れ続け、保身のために幾人もを殺してきた憎きアドルフの方を振り返ろうとした時だった。先程まで何もかもを観念したように、銃を奪ったオリヴィアに刃向かう様子もなかったアドルフの姿がなかった。


「なっ、アドルフが居ない!?」


 一寸先すら見通せない闇に覆われた空間で、オリヴィアとの諍いに気を取られていたあまり大男を見失ってしまったことで、この場に居る全員の額に汗が滲む。ただ、目立った物音もなかったことから、誰も部屋を出ていないというのは明らかだ。


 ──パリン。


 極限まで集中力を研ぎ澄ませ、大量殺人鬼による最後の悪足掻きに備えていたまさにその時。背後から雨音に紛れて訪れた、ガラスの砕けるような乾いた音に振り返る。すると、何とそこには、今まで朧気にしか見えていなかったアドルフの岩のように剛健なシルエットがくっきりと浮かび上がっていた。

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