Ep.103 罠師の謀略

 親切な罠師の男から、夜道を照らすランタンと年季の入った大きな鍋を手渡された俺たちは、夜明け前の空が東雲色に染まらないうちに十分な量の枯れ枝を掻き集め、湖で鍋にたっぷりの水を汲んでログハウスへと戻った。その間、慣れた所作で鹿の解体を済ませていた男は、早速肉の調理に取り掛かっていた。木造の小屋を突き抜けて周囲に充満する肉の焼けた香ばしい匂いは、暫くまともな食べ物にありつけていなかった胃袋を刺激し、冷静な思考力を急激に奪い取っていった。


"Go wash your hands. Time for Breakfast."

(手え洗ってきな。ができたぞ。)


 狩人の装備を外し、身軽になっても尚のこと逞しい巨躯に抱えられた鍋は、より小さく見える錯覚を起こす。木製テーブルの中央へと置かれ、蓋が開かれた鍋の中身は、豪快にもぶつ切りにされた鹿肉が山菜やきのこと一緒に煮込まれたと思しき乳白色の液体──日本で言うところのシチューのようだった。


 暖炉にべられた薪がぱちぱちと音を立て、次第に室温が上がっていくログハウス内に漂っていくシチューの香りが鼻腔を突き抜けた時、空腹はいよいよ限界に達した。俺たちは初対面の外国人の前で、礼儀作法もそこそこに久方振りの食事に夢中となった。


"You don't have to be in such a hurry, the venison won't run away again."

(そんなに急がなくても、肉になっちまった鹿は逃げたりしないさ。)


 食欲の赴くままにスプーンを動かし、未知なる異国の料理の味わいを堪能する余裕もないままに飲み下す俺たちの様子を見て愉快そうに笑う男は、結んでいた黒い長髪を下ろして、大きな音を立てて栓が抜かれた瓶の中身を一気に飲み干す。


"It's all thanks to you. We can’t thank you enough──"

(お陰様で命拾いしました。何とお礼を言ったら良いか──)


"Nah, it’s nothing. I have a son about the same age as yours. Besides, As a person who lives off the lives of animals, I couldn't just leave those who are in trouble."

(なに、気にしないでくれ。俺にも君たちと同じ年頃の息子が居る。それに、動物の命を頂いて生きる者として、困っている人を見捨てることができない性分というだけだ。)


"Even so, you are a lifesaver for us. May I ask your name?"

(それでも、あなたは私たちにとって命の恩人です。お名前を伺っても?)


"Adolf. But really, don't worry about it."

(アドルフだ。いやしかし、本当に気にしないでくれ。)


 その言葉とは裏腹に、テーブルの端に置かれたランタンと、煌々と燃え盛る暖炉の火によってのみ照らされる男の表情は決して明るくなく、焦点の合わない彼の瞳には何故か、温かな食べ物に恵まれたことに歓喜する俺たちを憐れむような色が滲んでいた。


 少しずつ空っぽだった腹が満たされ、冷静な思考が働き始めた丁度その頃だった。遥か遠くから、車輪が地面を削って走る時のような乗り物の音がゆっくりと近づいてくるのに驚き、俺と心美は思わず目を見合わせる。


「彼の猟師仲間かしら。この拠点に複数人分の椅子があるってことは、彼だけで猟をしにきたという訳でもなさそうだし……。」


「そうだ。この人もまさかここまで歩いてきた訳じゃないだろうし、何かしらの乗り物を持ってるはずだろ。図々しいことこの上ないが、せめて近くの街まで送ってもらえないか頼めないかな……。」


 短く言葉を交わした後、言語が分からないため首を傾げてこちらを見つめている男へと、意を決して心美が交渉を始める。


"I’m afraid that I’m asking too much, but we need your help."

(厚かましいお願いだというのは百も承知ですが、どうか私たちを助けてほしいんです。)


"We can't give you the details of the situation, we just want to go home......"

(詳しい事情はお伝えできかねますが、私たちはただ家に帰りたくて……。)


"If you don't mind, please take us to the nearest town somewhere."

(差し支えなければ、私たちをどこか近くの街まで連れていってもらえませんか。)


 すると、懸命に協力を懇願する心美の流暢な英語に、腕組みしながら黙って耳を傾けていた男は不意にテーブルへ手を突いて立ち上がり、そのまま背を向けて歩き出したかと思えば、出入口のドアに手を掛けた。


「ま、待ってくれ──」


 訳も分からず、俺は咄嗟に男を追うべく椅子から立ち上がろうとするも、何故か全身にうまく力が伝わらず、足をもつれさせて勢い良く床にうつぶせてしまう。


"No hard feelings."

(悪く思うなよ。)


 溜息と共に首を横に振り、そう言い残した男はこちらを振り返ることなくログハウスから姿を消した。ぼんやりとかすむ視界の端で最後に捉えたのは、テーブルに突っ伏して既に意識を飛ばしていた心美の姿だった。俺は彼女の方へと駆け寄るべく己を奮い立たせようと試みるも、襲い来る凄まじい睡魔には抗う術もなく、重くなった瞼を持ち上げていることができなかった。



 §



「──んとに使えないわね! 2人を取り逃したことに飽き足らず、捜索に丸1日を要するなんて!」


「お嬢様、大変申し訳ございません!」


 尋常ならざる何者かの喧噪に叩き起こされ、俺は再び目を覚ました。今まで自分が眠ってしまっていた理由も分からないままだが、現況を把握するまでにそれほど時間を要さなかったのは、この状況が二度目だからというだけではない。聞き覚えのある声、薄暗い部屋、椅子に縛られた手足、その全てが、俺たちは罠師の男にのだということを雄弁に物語っていた。


「もう結構。がお目覚めになったみたいだからね。」


 碌に光の当たらない、じめじめとした部屋の奥から姿を現した声の主──それは、俺たちをここスウェーデンに拉致した張本人にして騒動の元凶でもある、我が相棒そっくりの偽物本人だった。俺は隣で同様に拘束され、恐怖に顔を歪ませている心美と眼前の憎きドッペルゲンガーを見比べて、改めてその異様な光景に身を震わせる。


 すると、偽物の女は両手を広げ、見るからに高級そうな衣服の裾を翻しながら、わざとらしく身を屈めてかしこまった挨拶をして、声高に言い放った。


「ようこそ、プルンバゴ邸へ。私はこの館の当主、オリヴィア・プルンバゴと申します。以後お見知りおきを。」


 ついに自らの名を明かした偽物だが、ただでさえ知り合いの少ない俺たちの交友関係にそのような外国人の名前はない。


「貴方、私たちをどうするつもり……?」


 端から殺しが目的ならば、ここまで回りくどい手口で誘拐に及ぶはずもない。その目的を問うた心美に対し、オリヴィアと名乗る女は淡々と返す。


「安心して。命を奪うつもりはないわ。無論、自由を与えるつもりもないけれど。」


「だから! こんなことをするお前の目的が何なのかってことを聞いてるんだよ!」


「ああ、怖い。慌てずとも、じきに分かるわよ。そもそも、貴方に用はないの。。」


 煮え切らない態度で誤魔化そうとするオリヴィアの腹を読むべく、縄で括られた状態にもかかわらず椅子ごと立ち上がらんばかりの勢いで凄むも、女はまるで余裕を崩さない。挑発的な心美の顔で名前に「くん」を付けて呼ばれた俺は、その気色悪い違和感にそれ以上何も言い返す気が起きなかった。


「それにしても、列車を切り離して脱走を企てるとは、やはり世界に名声を轟かせた天才の看板は伊達ではなかった訳ね。日本での侮辱は撤回するわ。茉莉花心美──もとい、これからはこのプルンバゴ家の次期当主よ。」


「なんですって……?」


「それより、もう二度と逃げ出してやろうなどと愚かな考えは持たないことね。何よりも追手を警戒していたであろう貴方たちが、何故いとも容易く捕らえられることになったか。その絡繰りが分からないかしら。」


 オリヴィアは俺たちの返事も待たず、鼻高々に続けた。


「我がプルンバゴの血統は、先祖代々、ここスウェーデン北部を領地とする公爵デュークの爵位を授与された由緒ある貴族の家系よ。これが何を意味しているのか、貴方なら分かるでしょう。」


「まさか、あの罠師の男は──」


「彼だけではない。かつて我が先祖が暮らしていた時代のような威光は失われ、貴族社会全体の影響力が衰退しているとはいえ、我が領地に住まう全ての国民はプルンバゴの血統に忠誠を誓っている。貴方たちのような異国の鼠の一匹や二匹を炙り出すなど、造作もないわ。」


 オリヴィアの口から語られる真相は常識の範疇を遥かに越えており、数多く奇怪な事件に巻き込まれてきた俺でさえ理解が及ばなかった。


「とはいえ、そう何度も脱走を許しては我が家名に傷がついてしまうからね。この邸宅に閉じ込めておく間、貴方たちには監視役を付けさせてもらうわ。」


 そう言ってオリヴィアが手を叩くと、闇の中から別の人物が姿を見せる。


「お嬢様の命により、今日から貴方たちと生活を共にすることとなりました。よろしくお願いします……。」


「お、お前は。」


 不服を訴えるような声色で呟くのは、痛々しく腫れている右の頬を隠すように髪を下している長身の女──杉本柴麗だった。屈辱を耐え忍ぶように歯軋りする杉本は、多くを語ることなくオリヴィアの傍について成り行きを見守っていた。


「お喋りは終わり。これから貴方にはプルンバゴ家当主として、私の代役を務めてもらうわ。」


「ちょっと! 人を誘拐しておいて、今度は見ず知らずの家に監禁だなんて、私は認めないわよ! 何をさせるつもりか知らないけど、私は貴方の言いなりには絶対ならない!」


「貴方に選択肢なんて残されていないわ。どうしても従わないというのなら、貴方の見ている前で大切な恋人をじわじわと拷問したって構わない。口には気を付けることね。」


「っ、だったら貴方はどうするの!? 名家の当主としての身分を棄てて、あまつさえ赤の他人である私に押し付けるだなんて、どういうつもりなのよ!?」


 解消できないまま次々に浮かび上がってくる俺たちの疑問に答える気など毛頭ないと言わんばかりに、早々に話を切り上げようと背中を向けて離れていくオリヴィアを逃がすまいと、躍起になって問い詰める心美の叫びに、女は鰾膠にべもなく返した。


「言ったでしょう。これから私は、私こそが茉莉花心美となるのよ。」


 最後に不敵な笑みを浮かべてみせたオリヴィアは、二度と振り返ることなく暗闇の中へと消え、蝶番ちょうつがいの軋む音と共に邸館を後にした。俺と心美、そして杉本だけを残した異質な空間には、永遠のような静寂だけが残された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る