Ep.102 弱肉強食の宣教師

 人はおろか、警戒していた危険な野生動物の気配もなく、昨晩と同じような昆虫たちのか細い輪唱がむなしく響くのみである平野にて、夜の帳にぽっかりと穴を空ける怪しげな光の源を追う。するとその先には、静かな湖畔こはんにひっそりと大きなログハウスが佇んでいた。


「こんなところに、家が?」


「人が住んでいる感じはしないわね……。」


 円柱形の丸太が幾重にも積み上がってできている丸みを帯びた外壁に備えられた、シンプルな長方形の窓ガラスから中の様子を覗き見た心美は、困惑と共にそう告げた。確かに、目印となった灯りの正体は玄関扉の近くに放置された壁掛けのランタンだった模様で、屋内は暗闇に包まれている。


「何にせよ、そろそろ体力の限界も近い。今日はこの平屋に世話になることにしよう。」


「そうね。そろそろ空も白み始めてきたみたいだし、これ以上の移動は危険だわ。」


 あまりにも突然に異国の地へと強制連行されたことで、時差により体内時計の感覚は麻痺し、今現在の正確な時間など知る由もない。だが、どうやら北欧の日の出は日本と比べて相当に早いようで、いつまた同じように安全な中間拠点を見つけられるかも分からない不案内な土地では、非常識を承知の上でも所有者も分からない眼前のログハウスへと転がり込む他なかった。


「し、失礼しまーす。」


 中に人が居ないことは確認済みなのにもかかわらず、仮に誰かが居たとして、外国では伝わるはずもない日本語で形ばかりの挨拶を済ませる。やはり、これだけ辺鄙な土地では電気すら通っていないらしく、屋内には部屋全体を照らすための照明器具はおろか、文化的な生活を送る上での必需品とも言うべき電化製品のひとつも置かれていない殺風景が、そこには広がっていた。


「動かなくなると、急に寒気が襲ってくるわね……。」


「そうだな……。でも、朝日が昇るまでの辛抱だ。」


 当然ながら、部屋には暖房器具も見当たらないため、体感気温は屋外と大差ない。むしろ、家に帰りたい一心で足を動かし続けていたことで上がっていた心拍数も次第に落ち着き、不法侵入とはいえ、四方を壁に囲まれた安全な場所へと身を置いた安堵感に包まれた今の方が、より強く身体が冷えていくのを実感する。


「やっぱり、生活感の欠片もない家ね。一応、かまどみたいな調理場とか暖炉もあるみたいだけど、埃被っちゃってる。」


「勝手に泊めてもらうのも忍びないし、掃除くらいしておこうか。」


 そう呟き、壁際に立て掛けられていたほうきを無造作に手に取った時だった。


 ──Vem är du!?

(誰だお前ら!?)


 れ鐘を突くような声に驚いて振り返れば、驚くべきことに玄関扉の先には、月光の下、顔が見えなくとも分かる立派な顎鬚を蓄えた老年の大男が、長銃をこちらに向けて構えていた。


 聞き慣れない発音で放たれた謎の言葉が意味するところは十分に推察できるものの、俺には目の前の大男へと申し開きするだけの言語能力はない。せめて俺にできることは、心美に危険が及ばないよう、銃の射線上で立ち塞がり、ゆっくりと後退ることだけだった。


「ちょ、心美……!?」


「堅慎、ここは任せて。」


 しかし、心美は俺の意に反して堂々と大男のもとまで近づいていき、何やら小声でひそひそと対話し始めた。問答無用に発砲されてしまったらどうするのだという俺の心配を余所に、大男は心美と言葉を交わす毎にゆっくりと銃を下ろし、遂にはそれを床へと手放したかと思えば、再び屋外へと消えていった。


「お、おい心美。大丈夫か?」


「問題ないわよ。彼はこのログハウスの持ち主みたい。こちら側の事情を説明したら、今晩は遠慮なく泊って良いと言ってくれたわ。」


「ど、どうやってそんな。」


「あら。スウェーデンは日本とは比較にならないほど──というか、世界的に有名な語学教育先進国だから、第二言語として英語が通じる人も珍しくない。彼とも普通にコミュニケーションが取れたわよ。」


 自慢気に微笑む心美によれば、あの大男は毎年夏から冬にかけて、この平野一帯で狩猟をしている罠師だという。ログハウスはハンターの拠点として男がこの時期にのみ利用しているもので、厳密には家ではないらしい。


 そうして俺たちは、野生動物が寝静まった夜のうちに罠を仕掛け終え、拠点へと帰ってきた男と出会でくわしたという訳だ。向こうの立場からしてみれば、一仕事終えて疲労困憊といった時に不審な外国人が空き巣に入ったと考えてもおかしくない。それでも好意的に歓迎してくれた男へ、どう礼を言ったものかと逡巡していると、山のように屈強な体躯で何かを背負った男が息を弾ませて戻ってきた。


「今日獲れたばかりの獲物だそうよ。予想外の大物でとても1人では食べ切れないから、丁度良かったって。」


「ほ、本当か……。」


 床に膝を突いた男の肩から力なく音を立てて転がったのは、首元の頸動脈をひと突きにされて手際良く放血がなされている、大型の鹿だった。だらりと垂れ下がる四肢と、その虚ろな瞳からは既に生気は感じられず、弱肉強食の恐ろしさに身の毛がよだつのとは裏腹に、栄養失調気味となっていた身体はあくまで正直に空腹を訴えた。


「鹿の解体は彼に任せて、私たちはたきぎを拾い集めてきましょう。飲み水も近くの湖から汲んで煮沸消毒するしかないみたいだし、料理をするにも火が要るから。」


「ああ、確かに。部屋ももう少し明るい方が良いだろうし、手っ取り早く暖を取るにも燃料がないとな。」


 なるほど、一宿一飯の恩義に報いるためには、それくらい造作もないことだ。俺たちは弱り切った身体をもう一度奮い立たせ、罠師の男と入れ替わるようにして、太陽がすぐそこまで迫ってきている暁の空へと急いだ。

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