Ep.107 杉本柴麗の告白
張り詰めた空気に臆することなく、正々堂々、杉本と正面から相対した心美は今し方掴んだオリヴィアの秘密を解き明かさんと口火を切った。
「このだだっ広い部屋の壁際を埋め尽くす大きな本棚──ここに並べられている書籍はどれも、国内外で発生した未解決事件に関する
心美によると、本棚には世界各国で社会問題として大きな話題を呼んだ未解決事件を中心に、様々な犯罪事件に関するノンフィクションの文献が意図的に収集されていたらしい。中には、かつて心美が探偵業を通じて俺と一緒に解決へと導いた未解決事件に関する書籍も含まれていたらしく、その共通点に気付いたのだという。
「そして、中でもつい最近までオリヴィアが読み漁っていたと思しき本が積み重なって乱雑に床へ放置されていた。その内容に目を通すまでもなく分かったのは、彼女があるひとつの未解決事件に固執しているということ。堅慎が見つけてくれた新聞記事の切り抜きから、私も漸く確信したわ。」
「この記事か……?」
デスクの引き出しを調べてからずっと片手に持っていた古い新聞記事の切り抜きを心美へと手渡すと、彼女は杉本に対して記事の一文を指差しながら突き付けて見せた。
「ここに記載されたプルンバゴの姓。でも記事にはオリヴィアに関することが書かれている訳ではない。それは記事の日付からも一目瞭然よ。」
「あ、本当だ……。」
心美に指摘されたことで初めて気付いたが、記事の欄外に刻まれていた新聞の発行年と思しき数字は、掠れて読めなくなっている末尾を除いて"19"と書かれており、それが明らかに今世紀の情勢に関するものでないことは俺にも分かった。当時はきっと、オリヴィアもまだこの世に生を受けていない時代だろう。
「この記事の裏面を見て。」
「これは──」
ひらりと切り抜きを裏返して紙面を強調するように掲げた心美の手元に視線を移せば、大きな活字でのヘッドライン、そしてどこか見覚えのあるモノクローム写真が表紙一面に張り出されていた。
──Sveriges stolta detektivgeni, William Plumbago, löser ett kallt fall i Japan!
(スウェーデンが誇る天才探偵、ウィリアム・プルンバゴ氏が、日本の未解決事件を解決へと導く!)
プルンバゴの姓を持つ人物の名が主役となった記事のど真ん中を占める写真には、地元警察のものと思しき制服に身を包んだ年配男性から賞状のような長方形の紙を受け取って、照れ臭そうに顔を綻ばせる色のない髪をした若い男性だった。その男性の顔に見覚えなど全くないが、今朝方に杉本から受け取った朝刊の内容とも相俟って、強い既視感を覚えるものだった。
「彼の名はウィリアム・プルンバゴ。20世紀末の北欧に彗星の如く現れた天才探偵として、数多くの未解決事件の解決に携わってきた逸材にして、プルンバゴ家現当主・オリヴィアの先代──要は、彼女の父君に当たる方ね。」
「なに……!?」
心美が調べた未解決事件に関する書籍には英語や他の外国語で記載されたものも含まれていたらしいが、その言語に関わらず、彼の名は至る所で現れていたという。生まれた時代は違えど、彼の名声は今の日本における茉莉花心美のそれと比肩するものらしく、現在に至るまでプルンバゴの名が貴族社会における優位性を保ち、人民からの信頼や尊敬を失っていないのは彼の功績によるところが大きいと、心美は分析した。
「それで、オリヴィアお嬢様が当家の代表を務めていらっしゃる理由と父君の存在について、一体何の関係があるというのです。」
暫く黙って心美の話を聞いていた杉本が、痺れを切らしたように問い詰める。だが、心美は物怖じすることなく自らのペースで続けた。
「堅慎、オリヴィアのデスクで他に何か見なかった?」
「目ぼしいものと言えば、同じような新聞記事のスクラップが保管されてるだけだけど……。」
不意に心美から尋ねられたことで改めて引き出しを漁ってみると、中にはインクの褪せていない比較的新しそうな記事が眠っていた。
「ざっと調べたところによれば、先代のウィリアムは2019年、とある事件がきっかけで他界しているそうよ。その事件が契機となり、オリヴィアはプルンバゴ家の一人娘として、若くして爵位を継承することになったと。」
「そうだったのか……。」
「私に理解できたのは、ウィリアムの名前が未解決事件に関する文献に載っていたのは、彼が私と同じく探偵として名を馳せ、数多くの真相究明に関与してきたからだけではないということ。オリヴィアの父の死は、何らかの未解決事件と密接に関連しているのよ。それが何かを調べるには、時間が足りなかったみたいだけど……。」
口惜しそうに敵対する誘拐犯の方を睨む心美だが、対する杉本は今までのように敵意を滲ませるでもなく、ただ寂しそうに肩を落とし、ぽつりぽつりと独り言ちるかのように喋り始めた。
「あれは間もなく梅雨明けだと予想されていた、最後の大雨の日でした。仲の良い両親のもと、深い愛情に包み込まれて何不自由なく育てられてきた世間知らずの私が、医者を志して勉学に明け暮れ、将来への希望に満ち溢れていた時です。」
「私の父は日本でも有数の大病院で外科医として働いていて、そんな父の背中に憧れて医の道に進もうとする私を母も誇りに思ってくれていました。あの日までは……。」
「父もまた、医療現場では天才だの神だのと陳腐な言葉で形容される人物でした。それ程までに数多くの人命を救ってきたのです。しかし、積み重なる功績と膨れ上がる周囲の期待が父の心を蝕んでいったのか、父は家族や同僚に隠れて
モルヒネ──それは手術によって生じる患者の痛みを取り除く麻酔薬としての効果や、癌などを始めとする各種疾病に起因する
「麻薬に侵された父の腕は、もはや人命救助に役立つようなものではありませんでした。ある日、いつものように執刀医として手術台に横たえた患者と向き合った父は、極度の緊張と焦燥からモルヒネを過剰摂取し、医療過誤により患者諸共あの世へと旅立ちました。」
「執刀医の死亡により、ぶつけどころのない怒りを抱えた患者の遺族の標的となったのは、傍に居ながら、そんな父の異常に気付けなかった愚かな
そう告げた杉本の瞳からは、大粒の雫が頬を伝った。深い哀しみを悟られまいと、慌てて手袋で涙を拭う杉本は、再び毅然とした態度で言葉を繋ぐ。
「これは薬物依存により何の罪もない人の命を奪った父と、そんな父を助けられなかった家族への罰なのだと、私は悲嘆に暮れる間もなくただ呆然と空虚な日々を過ごしていました。母を殺した遺族に対する恨みもありません。あったのは『いっその事、私も殺してくれたら良かったのに』と考え続ける毎日と、心を埋め尽くす虚無感だけでした。」
「そんな私の失われた心を取り戻してくれたのが、当時日本を訪れていたウィリアム・プルンバゴ氏だったのです。」
「ウィリアムさんは、貴方と面識があるの……?」
驚きの表情で聞き返した心美に、杉本は無言で頷いた。
「私が大学に通っていた時、自宅で独りだったところを殺された母について、同情の声はあまり寄せられませんでした。殺人犯に繋がる証拠も少なく、世論の風当たりが冷たかったこともあり、警察の捜査は形式的で、犯人逮捕は望み薄だという状況をどこか他人事のように達観していた私のもとを訪れたウィリアム氏は、私の手を取り、こう言いました。」
──No matter what the circumstances, criminals must be judged equally. As a detective, I want to give you a second chance at life.
(どんな事情があれ、犯罪者は等しく裁かれなくてはならない。私は一介の探偵に過ぎないが、君に人生をやり直す機会を与えたいんだ。)
「ウィリアム氏は全当事者が諦めていた自身と何の関わりもない土地で起きた殺人事件を華麗に解決してみせ、殺人犯は無事に司法の裁きへ掛けられました。当時の私は、それで何が変わる訳でもないと思っていましたが、大好きだった母を殺した殺人犯が公正な裁判の手続を経て判決を言い渡されたところを見届けた時、勝手に涙が溢れました。この残酷な世の中に、まだ正義はあるのだと……。」
「その後、拠り所のなくなった私の身柄は、ウィリアム氏が引き取ってくださいました。以来、私は我が生涯の恩人である氏に忠誠を誓い、ここスウェーデンでプルンバゴ家の使用人として暮らしているという訳です。」
「そ、それで。どうしてウィリアムさんは亡くなったんだ。数十年前の写真しか見てないが、それでも彼はまだ若かったはずだろ。」
俺の問い掛けに、杉本は再び涙を流した。震える声を隠そうともせず、彼女は唇を強く噛みながら話を進めた。
「2019年、我が生涯の恩人・ウィリアム氏は日本における未解決事件の捜査協力を始め、数多の功績を打ち立てたことで、スウェーデンで知らぬ者は居ないほど高名な貴族探偵として、沢山の人々に慕われておりました。」
杉本の話から受けた印象通り、ウィリアムは突然訪れることになった死の直前まで、プルンバゴ家──ひいてはスウェーデンの貴族社会を代表する公爵として領民に慕われ、一人娘のオリヴィアと愛すべき妻に囲まれて、平穏無事な生活を送っていたという。
「時に、貴方たちはスウェーデン史上最大とも称される未解決事件があるのをご存じですか。」
「遠く離れた国の事情まで知らない、と言いたいところだけれど、さっきまで読んでいた書籍に関係ありそうな記述をいくつか見つけたわ。」
心美の返答に、杉本は腕に指を食いこませて辛そうに喋り続ける。
「理不尽にも犯人の凶刃に倒れたのは、それは仲睦まじい若夫婦でした。夫は貴族としての身分がありながらも決して
「天真爛漫でいつも明るく、我々使用人に対しても常に柔和な態度で接してくださった奥様もまた社交界の注目を集めておりましたが、それは気品と謙虚に溢れた彼女の人徳あってのもので、他者からの恨みを買うようなことなど、あろうはずもなかったというのに。」
悔しさを滲ませる杉本の表情に、俺と心美は固唾を呑んで彼女の独白を見守る他なかった。
「平和が幕を下ろしたのは、ウィリアム氏が探偵として最後に携わった事件がきっかけでした。プルンバゴ家の所在地であるスウェーデン北部の都市・キルナ近郊にて発生した、とある殺人につき、警察は容疑者として若い男を指名し、厳正な裁判手続を経て、犯人の男には終身刑が宣告されていたのです。」
「しかし、ウィリアム氏は裁判後に事件の違和感を唱え、別の犯人の存在を指摘した上で、拘束されていた男の無実を訴えました。結局、稀代の名探偵による鶴の一声の影響力は絶大で、男の有罪を主張していた検察側の論理には致命的な欠陥があるとの再審により無罪推定原則が働き、原判決は覆されてしまいます。」
無罪推定原則──裁判で、検察による犯罪の証明が成されるまでは、被告人として扱われる者は無罪として推定される。裏を返せば、被告人側に無罪を立証する責任はなく、あくまで有罪を主張する検察側の用意した証拠・証言が完全だった場合にのみ犯罪は成立するのだ。「疑わしきは罰せず」という
「それで、真犯人は結局捕まったのか?」
その問いに、杉本は力なく首を横に振る。
「男の無実を証明し、これから真相究明に乗り出そうという矢先でした。終身刑判決まで出され、もう少しで憎き殺人犯が裁かれるというのに、確たる証拠も、真犯人も突き止められないまま徒に事件へと首を突っ込んだ探偵の行動を遺族は良く思わなかったのでしょう。ある日オリヴィア様の不在中、奥様と水入らずで庭を散歩していたウィリアム氏を狙って、遺族のひとりが邸館に忍び込み、おふたりを襲ったのです。」
「そんな……。」
「奥様は頸動脈への不意討ちにより、ほぼ即死だったと思われます。その後、犯人と相対したウィリアム様は身体中に憎悪の刃を何度も切り刻まれました。異常を察知して私が傍へと駆け寄った時にはもう、辺りは地獄の池と化し、どう足掻いても助からないことは医者を目指していた私の目でなくとも明らかでした。」
目の前に居るのは憎き誘拐犯の一味であるという事実に変わりはないのに、あまりにも悲惨な話の内容と同情を誘うような語り口調で、俺と心美は言葉を失って立ち尽くすのみだ。
「犯人はウィリアム氏が息を引き取ったのを確信するや、その場で自害しました。あの時の虚無感とは違う、どうしようもない怒りと遣る瀬なさに身を焦がしていると、膝を突いて
──The true suspect is someone else......
(真犯人は別に居る……。)
「貴族家の当主が怨恨により惨殺されたという事件は欧州全域を震撼させ、2019年まで続いた名探偵の歴史に終止符を打ちました。しかし、それと同時に我が母国・日本で、ウィリアム氏に匹敵する天才が産声を上げることになろうとは。」
「まさか──」
「
杉本柴麗という人物とプルンバゴ家を包む暗い過去との関係を知った俺と心美は、その衝撃的な内容を受け止める時間が必要だった。だが、ここから俺たちは間髪入れずに、茉莉花心美の名を騙るオリヴィアの誘拐の動機とその目的について、更なる衝撃的な事実に頭を悩ませるのだった。
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