枯れ尾花
Ep.96 後ろの正面
「去年の事件を思い出すような雷雨ね……。」
「去年どころか、厄介事に巻き込まれる時はいつもこんな天気だよな。」
断続的に響き渡る大きな雷鳴に叩き起こされるがまま、欠伸しながら目元を擦る。どうやら、
「こ、好都合ね。これで計画の実行に必要な条件も揃ったわ。」
「そうだな。」
事も無げに話を進める心美だが、その右手は薄い布団の中で、俺の服の裾を強く握り締めている。彼女はうまく隠し通せていると思っているようだが、苦手とする雷は相変わらず克服できていないらしい。俺に対して弱みを見せまいと健気に振舞う彼女は実に可愛らしく、庇護欲をそそられる。
ベッド脇の充電ケーブルに繋がれたスマホを手に取り、天気予報を確認すると、どうやら数日前から大型台風の関東上陸が巷を騒がせていたらしいことが分かる。思い返せばそのようなことを何処かで見聞きした覚えもあるが、昨晩のニュースがあまりにも衝撃的だったために、すっかり失念していた。とはいえ、これは心美の言う通り、彼女が立案したとある作戦を実行に移すには絶好の日和である。
「うーん。じゃあ俺は雨が酷くならないうちに、買い物に出掛けようかな。」
「平日の台風だなんて、きっと誰も外に出たがらないでしょうから、私も一緒に行っていい?」
「昨日のことがあるからできるだけ大人しくしていた方が良いとは思うけど、心美もそれだと気が滅入っちゃうもんな。良いよ。行こうか。」
「やった!」
俺の了承を得ると、心美はすぐにベッドから跳ね起きて、そそくさと外出の準備を始める。お膳立てはこれにて完了だ。後は、憎き盗撮魔を捕らえ、心美の偽物による暴挙を食い止めるため、彼女の見立て通りに事が運ぶのを祈るのみである。
昨晩のうちに話し合った計画の段取りはこうだ。まず、雨風などの悪天候により野外に設置された隠しカメラの画角が変わったり、機器に異常が生じたり、レンズに水垢が付着して視界不良に陥ったり、あるいは単純に電池切れを起こすなど、何らかの理由により、犯人は必ずいずれかのタイミングで我が事務所を再訪し、点検をする必要があろう。そこで、盗聴器により会話の内容が筒抜けになっている状況を逆手に取って、犯人側にわざと事務所を空けるという情報を流すのだ。
事務所に誰も居ないということを犯人が知ったところで、都合良くその日にここを訪れるという保証がないことは織り込み済みだ。しかし、事務所に盗聴・盗撮器を仕掛けた犯人が例のドッペルゲンガーと同一人物ならば、難儀なアルビノ体質と有名人としての宿命が故に、滅多なことで外出することがない心美の内情も承知しているはずであり、事務所内に人が居ない状況が如何に珍しく、絶好の機会であるかなど十分に理解しているはずだ。用意周到で執着心の強い印象を受ける犯人が、そんな好機をみすみす逃すとは考えにくい。
とまあ、色々と知謀を巡らせていたのだが、まさかその翌日に雷雨が発生し、作戦決行に向けた諸条件が揃うとは、嬉しい誤算である。
「俺もぼちぼち支度しますか。」
究極のプライベートである自宅に他人の目や耳が潜んでいたことについては、心底気分が悪い思いなのだが、個人的には家族の目を欺くほど精巧に化けてみせた心美のドッペルゲンガーの正体とやらには、とても興味がある。事と次第によってはただで済まさないという怒りもある一方で、早くその面を間近で拝んでみたいという偏屈な好奇心が頭の中を渦巻いて、いつもの仕事より少しだけ武者震いしている自分が居た。
§
興奮冷めやらぬまま適当に身支度を済ませ、念のため、各部屋で心美との会話を通じてそれとなく外出することを
「昨日のインタビュー映像見たでしょ。あれは東京のテレビ局で撮影されたものだったわ。」
「ああ、そうだったな。」
「映像が放送されたのがインタビューの翌日かその辺りと仮定して、私の偽物はつい先日まで都内に滞在していたということよね。」
「すると、どうなる?」
「多分、私たちと違って偽物はちゃんと台風接近のニュースを確認していたはずだわ。もし偽物が関東圏の外、それこそ飛行機や新幹線での移動が必要なくらい遠い場所に住んでいたとしたら、インタビューを受けていた頃には台風の進路次第で交通網に影響がでて、帰れなくなっちゃうかもしれないでしょ。」
「それでもインタビューの依頼を受けていたってことは、偽物は気軽に都内へ足を運べる関東近郊に住んでいる可能性が高いって訳か。」
あくまで可能性に過ぎないが、犯人は俺たちが家を留守にしている間に急いでここまで向かってこれるほど、程近い場所に居を構えていると考えるのが自然だ。もし盗聴犯が今なお俺たちの会話を盗み聞きしているのだとしたら、不在中を狙って機器のメンテナンスにやってくる確率は、
「さて、そろそろ出発するとしようか。そういえば、ここに越してくる前から一度も買い替えてない白物家電全般を新調しようかなって思ってて、良い機会だから心美も一緒に選んでくれないか?」
「良いわね。この雨だし、電車はダイヤが乱れてるらしいわ。折角だから、ゆっくり歩いて行きましょうか。」
「大丈夫か。陽は出てないけど、それなりに暑いぞ。」
曇り空に太陽が覆われていても、心美にとって紫外線対策は必須であるため、夏場であってもある程度の厚着は避けられない。雨の日であれば、素肌に日焼け止めを入念に塗りつつ、通気性の良い薄手のシアーシャツで手首までしっかりと隠せば対策できるらしいのだが、それでも長時間の外出となると心配は尽きない。
「(大丈夫よ。実際には歩き回ったりしないんだから。)」
「(あ、そっか。)」
うっかりしていた。そう、俺たちは今から買い物に出掛けるのではなく、事務所に忍び込もうとする犯人を物陰から待ち伏せするのだ。危うく目的を見失うところであったが、心美の鋭い目線に諫められ、兜の緒を締め直すように頬を叩く。
「よし、行こうか!」
§
事務所の戸締りを済ませ、ぽつぽつと大粒の涙を流す黒雲の下へと踏み出せば、激しい向かい風が木の葉や水飛沫を巻き上げて正面から突進してくるので、衣服が身体の前半分にへばりついて背中側へと靡く。しかし、今は丁度台風の目が訪れているのか、予想していたよりも雨脚は強くない。
彼女はそんな自然界の手荒い歓迎を意にも介さず、事務所の裏手へと回り込み、こちらを振り返って手招きする。俺はそれに従って、正面玄関の反対側にある裏口を目指して迂回した。
「このくらいの雨なら傘は必要ないわね。なるべく目立たないことを心掛けてね。」
「俺は尾行調査の実践なんて久しぶりだけど、この前リモートで似たような依頼を受けたし、勝手は分かってるつもりだ。」
「その節はどうもすみませんでした……。」
緊張を解すために冗談を飛ばしながらも、事務所の外側を大回りして、薄暗い裏口へと到着する。郊外の静かな土地に人知れず佇んでいる我が事務所の正面玄関の方は、車が余裕を持って擦れ違うことができるほどに広い、閑静な住宅街へと続く道に面しているのに対して、裏口の方は自転車が通り抜けるので精一杯といった日の当たらない裏路地に面している。
裏路地を真っ直ぐ進むと、突き当りに長い石階段がある。そして、やや急勾配の階段を上った先には小さな公園があり、そこから事務所の庭が見渡せるようになっているのだ。今回、俺たちは公園から事務所を見渡しつつ、事務所に隠しカメラなどを設置した不逞の輩を、虎視眈々と待ち続けることにした。
「それにしても、私たちに気付かれることなく事務所の至る所に盗聴器を仕掛けられただなんて、犯人は何者なのかしら。」
「顧客含め、過去に事務所を訪れた人間なんて、数えだしたらキリがない。それに、言いにくいけど、前に心美の母親が空き巣に入ってきたこともあったろ……。そもそもの話、うちの防犯対策に問題があったと言わざるを得ないな。」
こんなことになるなら、家の軒先に防犯カメラのひとつでも設置しておくべきだったかと、心美の安全を預かる身として、少し負い目を感じる。
「そのことはまた後で考えましょう。大丈夫、堅慎のせいじゃないわ。こんな奇妙な事件に巻き込まれるだなんて、私も想像しなかったもの。」
「ああ。まずは心美の偽物をとっ捕まえて、早いとこ名誉を回復させないと──」
公園から見渡すことのできる通りの景色を注意深く観察していると、ただでさえ人通りの少ない閑散とした道路と台風の影響にもかかわらず、遠くから事務所に向かって傘を差しながら歩いてくる人影が視界を過った。俺は思わず、隣で余所見をしていた心美の肩を叩いて、事務所から随分と距離を取っているにもかかわらず、咄嗟に声を細めながら告げた。
「心美、見ろ。」
「っ、あれは……!」
上から見下ろす格好となっているため、その姿はほとんど傘に隠れて拝むことはできないのだが、突風に乗せられて靡く白髪と華奢な背格好は、狐につままれたように愕然として微動だにしない相棒そっくりだった。曇天の下でも汗が額に滲む季節だというのに、手首までを覆う長袖を着用しているのは、果たして偶然か。
「想定よりもかなり早い……。でも、計画通りよ。本当に居たのね、私のドッペルゲンガー。」
「直接庭の方へ向かったな。」
やはり目的はカメラだったのか。そうと知れれば話は早い。今すぐ奴の不法侵入の証拠を押さえ、犯行動機や目的などを洗い浚い吐かせた後に、その化けの皮を剥がしてやるのみだ。俺はすぐにポケットからスマホを取り出し、カメラ機能で事務所の庭を拡大表示しながら偽物の姿を何枚も写真に収める。
だが、それが良くなかった。漸く目の前に現れた偽物の存在に釘付けとなっていた俺たちは、次第に勢いを増していた雨風の音に掻き消され、音もなくこちらへと近づいてくる何者かの気配を感知することができなかった。
──パシュ。
刹那、瓶詰めの炭酸水の栓を抜いたかのように気の抜けた音が、微かに鼓膜を揺らす。何事だろうかと、何気なく本能的に心美の方を見遣ったその時──全身の血液が逆流し、そのまま冷え固まってしまったのかと錯覚するほどの深い絶望感に支配された。
「堅慎……。」
そう力なく俺の名前を呟いた心美は、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます