Ep.97 プルンバゴ邸行き寝台列車
──ガタンゴトン。
あれから幾許の時が過ぎたのだろうか。四方八方を包む一定の風切り音と心地の良い縦揺れ、そして少しの肌寒さを感じながら微睡んでいた。柔らかいベッドが重力に逆らって身体を押し返す感触に、今までの出来事は全て夢だったのだろうかと妙な安心感を覚える。
全身に蓄積した疲労が溶け出していく快感に抗えず二度眠をしようかというところ、一際強い衝撃が地面を突き上げるように揺らした直後、突如として頭の中を突き刺されるような痛みが襲い、鉛のように重い身体を起こした。
「ここは、何処だ……。」
目を擦り、辛うじてぼやけた視界に映るのは、外国語で書かれたポスターや知らないメーカーの小型冷蔵庫──その異様な光景に衝撃を受けた俺の脳内には、ここに至るまでの断片的な記憶が濁流のように次々と流れ込んできた。
「そうだ、心美は!?」
いつもなら眠りから覚める時、必ず最初に目にするはずの愛しい彼女の姿が見当たらず、一瞬にして血の気が引く。だが、慌てて狭い室内を見回すと、すぐにその特徴的な白髪を認めた。
「おい心美! 起きろ!」
「ん、うぅ……?」
薄手の毛布に
「堅慎、ここどこ!?」
「俺にも分からない……。」
慌てふためくまま、心美は皺の寄ったシーツもそのままにシングルベッドから立ち上がると、俺が寝ていた同じ大きさのベッドとの間に設けられた、部屋の壁際中央に位置する小窓のカーテンを乱暴に引いた。
「あ、ちょっとまて──」
「嘘……。」
もし眠っている間に雨が上がり太陽が昇っていたら、紫外線に弱い心美の白肌は窓越しに焼かれてしまう。異常事態にもかかわらず、彼女に関することは冷静過ぎるほどに普段通りの思考が働いた。ところが、そんな俺の心配は、意外な形で杞憂に終わった。
なぜなら窓の外には、大小取り混ぜた星々が瞬く幻想的な夜空に、極彩色に染まったオーロラがゆらゆらと揺らめいて何処までも広がり、白樺の木々と緑生い茂る大地を鮮やかに照らしていたのだから。
「綺麗ですよね。ほんと、この世のものとは思えないほどに。」
「お、お前は!?」
いつの間にか断りもなく部屋に入ってきていた女の声に飛び上がった俺は、本能的に心美の前へと立ち塞がる。予想していた通り、逃げ場のない狭い空間にて相対したその人物は、卑怯にも闇討ちにより俺たちを薄汚い毒牙に掛けた張本人だった。
§
──パシュ。
冷たく乾いた破裂音が、温かく湿った空気を伝って木霊する。心美の偽物を誘き寄せるため敢行した待ち伏せ作戦にもかかわらず、背後から何者かの接近を許してしまっていたことに、俺たちが気付く余地などなかった。
「心美!?」
雨水を多分に含んで
「愚かですよね。超常的な能力の持ち主である茉莉花探偵のプライベートを探ろうというのに、発覚のリスクを想定していないとでも思ったのでしょうか。」
「しっかりしろ心美!」
俺は見知らぬ女の方には目も呉れず、銃撃をまともに喰らってしまった相棒の身体を必死に揺すって
「逃げるわよ、堅慎……。私も、動けるから……。」
「何言って──」
「背中……。」
痛みに顔を歪ませる心美に促されるまま傷口を探ろうと背中側を覗くと、右脇腹よりも少し上の辺りか、ダーツ状の細長い注射針が突き刺さっていた。焦燥感に突き動かされるまま、俺はすぐさま針を引き抜くも大した出血量ではなく、動揺のあまり状況を見誤っていたが、本人の言う通り傷はそれほど深くないらしい。
「おそらく、麻酔銃の類ね……。けど、どんな薬品が仕込まれていようと即効性はないはず。逃げるなら、今のうち……。」
「あ、あぁ。分かった!」
傷口を左手で抑えながらも自らを奮い立たせるように気炎を吐き、立ち上がろうとして
「はあ。往生際の悪い……。みすみす貴方たちを逃がすとでも?」
呆れたように溜息を吐きつつ、雨に濡れた黒髪を革手袋を嵌めた両手で鬱陶しそうに掻き上げた女は、持っていた銃をあっさりと地面へ投げ棄てたかと思えば、身を包んでいる黒スーツの懐から即座に一回り大きな拳銃を取り出して、迷いなくその銃口をこちらに向ける。
「我ながら親切にも、貴方たちの身長・体重に合わせて投薬量を調整したんです。私の努力を無駄にしないでくださいよ。」
次に女が銃の照準を合わせた先は、勿論俺だった。しかし、不意討ちでさえなければ麻酔針を躱す余地も残されている。ここは下手に時間を浪費して相手に心理的余裕を与えるよりも、逸早くこの場を脱して逃走を図るべきだろう。その結論に至った時にはもう、身体が勝手に動いていた。
「いくぞ心美!」
俺は傷を庇って動きが鈍っている心美の手を引いて、公園の出入口である石階段の方へと引き返すべく、思い切り
「私の手元が狂って弾道が逸れれば、
銃により強制的に麻酔薬を投与されてしまった心美に次弾が命中すれば、身体の許容量を超えた薬品の投与による中毒症状を引き起こし、死に至る可能性が高いことは医学的知識には明るくない素人の俺にでも容易に理解できる。だからこそ、女の放った脅し文句に、心美にとってもはや致命的となった凶弾から彼女を護ることだけを考えた俺の足は、一瞬だけ止まってしまった。
──パシュ。
そして、手練れの女にとってその一瞬は、十分過ぎるほどの猶予だった。
「ぐっ……!」
「堅慎!」
着弾の衝撃により息が詰まる感覚と同時に、銃から射出された麻酔針が食い込んだ右胸を震源地として、まるで雷に打たれたかと疑うほどの鋭い痛みが全身を駆け巡った。それでも、すぐに左手で針を抜き捨て、歯を食い縛って両足に有りっ丈の力を籠めると、今度こそ心美の右手を強く握り締めて石階段を駆け下りた。
「どうする心美!? 逃げようったって身体がどれだけ持つかも分からない……!」
「どんなに効き目の強い薬品でも、適量を投与されているなら数分は猶予があると思う! とにかく遠くへ……! もし捕まったら、何をされるか知れたものじゃないわ!」
息を弾ませながら事務所付近の通りを走る俺たちは、とにかくあの女から距離を取るべく足を動かし続けた。追手を警戒して公園の方を振り返れば、女は不敵な笑みを浮かべて俺たちの逃走経路を観察するように視線を送り、携帯電話を耳に当てた。もしや、あの女以外にも共犯者が存在し、俺たちを捕獲するために指示を飛ばしているのだろうかと最悪の考えが頭を過ったが、それが的中していたとして、俺たちに成す術など残されていなかった。
「そうだわ……。こうなったら事務所まで蜻蛉返りして、私の偽物をとっ捕まえてやりましょう!」
「そうか……。そいつを人質に取って事務所に立て籠れば、警察を呼ぶ時間くらいは稼げるかもしれない。例のドッペルゲンガーの正体も分かって一石二鳥だ!」
一刻の余裕もない俺たちにとって、それは悪足掻きにも等しい最後の抵抗だった。だが、無事に助かるためには手段など選んでいる場合ではない。急いで進路を変え、心做しか感覚が失われ始めた四肢を必死に振り乱して事務所に辿り着くと、すぐに庭へと回り込んだ。
すると信じられないことに、そこには、隣で膝に手を突いて息を切らしている相棒と瓜二つの背格好をした、長い白髪の少女の後ろ姿があった。
「不法侵入の現行犯だ。悪いが警察を呼ぶ間は、中で大人しくしていてもらう……!」
「頼もしい相棒に情が湧いて、貴方も随分と衰えたものね。かつての冷静沈着な茉莉花心美であれば、きっとここには来なかったでしょう。」
形振り構わず叫ぶように命令する俺の言葉になど関心すら示さず、偽物はゆっくりと心美の方へ振り返った。しかし、その素顔は盆を覆すような雨を遮る傘に隠され、拝むことはできない。
「知ったようなことを……。貴方は一体何者なの!?」
「私は茉莉花心美──少なくとも、これからはね。」
訳の分からない戯言をほざきだす偽物の一挙手一投足に注意を払っていたその時、庭全体に生い茂る芝を踏み締める音が背後から近づいてくるのを今度こそ聞き逃さなかった俺は、心美とほぼ同時に振り返る。そして、これから辿ることになろう自身の悲惨な運命を悟ることとなった。
「複数犯の可能性を始めから考慮していたなら、相応の判断が必要だったわね。残念だけど、チェックメイトよ。」
「くっ……。」
諦観に達したのか、あるいは後悔の念に苛まれているのか、複雑そうな苦い表情を浮かべた心美は、退路を塞ぐために立ち開かる偽物の仲間と思しき黒服の集団を前にして、水を吸って柔らかくなった芝生の上へと倒れ伏した。また、遅れて麻酔薬を撃ち込まれた俺も、より心臓に近い箇所に弾を喰らった影響か、間髪入れずに力尽きてしまったのだった。
§
「全部思い出したわ! 貴方は誰!? ここは何処なの!? 一体何が目的でこんなこと──」
「はあ。質問が多いですね……。」
麻酔銃により俺と心美を眠らせここまで運んできた偽物の仲間と思われる女は苛立ちを隠さず、ジャケットの内側から革製の小箱を取り出しながら対話に応じる。
「ここは北欧の王国・スウェーデンです。」
「は……?」
シガーケースと思しき革細工から煙草を咥えて火を灯し、溜息交じりに紫煙を吐き出しつつ平然と言い放つ女に対し、俺も心美も、返す言葉を持ち合わせていなかった。
女の発言はあまりにも信じ難いが、今し方部屋の小窓から覗き見た異国情緒漂う風景は間違いなく本物であったし、心美にとって天敵とも言うべき猛暑が到来している日本であれば、感じるはずのない寒気が肌を刺すのが何よりの証拠だった。とはいえ、日本からスウェーデンへ移動するなど、どれだけ早くとも半日は要するはずだ。無防備にも、俺たちは随分と長いこと意識を手放していたらしい。
「い、一体どうやってそんな──」
「プライベートジェットで首都・ストックホルムまで一直線です。出入国審査は難儀しましたが、貴方たちの身柄は荷物に紛れ込まさせて頂きました。麻酔の影響も手伝って、身体の節々が痛むでしょうが、何卒ご容赦ください。」
いけしゃあしゃあと末恐ろしいことを抜かしてくれる。自家用飛行機を自由に利用することのできる財力に、税関の目を容易く誤魔化す組織力を兼ね備えているなど、俺たちは予想していたよりも遥かに厄介な存在に目を付けられてしまったようだ。
「現在はこの寝台列車を貸し切り、最北端の都市・キルナへと向かっていますが、まだ出発からそれほど時間が経っていません。今頃は丁度ボスニア湾沿いを走っている最中ですから、このまま寝ていてもらって構いませんので。」
慇懃無礼たる態度で減らず口を叩く女の言葉に、俺と心美はもう一度車窓から外の景色を覗くと、羽衣のように美しく揺らめく光の芸術が湾の水面に反射して、神話に登場する異世界をも連想させる非日常を演出していた。また、そこ映る景色は確かに、列車の動きに合わせてゆっくりと角度を変えていくのが分かる。
このような状況でもなければ、思わず息を呑むほどに美しい雄大な自然の魅力が、そこには無限に広がっていた。だからこそ、益々解せぬのだ。何故俺たちがこのような北欧の大地まで連行されているのか。
「北部とはいえ、この季節にオーロラが見られるだなんて。流石は茉莉花探偵、持ってますね。」
「この女……! 俺たちを何処に連れていく気だ!」
「落ち着きませんね。私はこの女ではなく、
すると、杉本と名乗った女は、友好の証とでも言わんばかりにシガーケースをこちらに差し出した。俺はそれを拒絶する代わりに、怒気を孕んだ眼光鋭く杉本を睨む。
「ああ、これは失礼しました。貴方たちは煙草を嗜まれないんでしたね。知っていますよ。何もかも。」
「ふざけるなよ。そもそも、お前の名前なんて端から聞いてない。俺たちが知りたいのは、心美にそっくりなあの女の正体だ。お前らは何が目的で俺たちを嗅ぎ回ってた? 俺たちを誘拐して何がしたいんだ!」
こちらからの質問攻めに嫌気が差したのか、杉本は面倒臭そうに作り笑いを止めると、一層声を低くして強圧的に吐き捨てる。
「いつまでも下手に出てやると思うなよ。私はお嬢様の意向に沿い、あくまで命令の一環として貴方たちを生かしたに過ぎない。その気になれば、別に今すぐこの列車から貴方たちを突き落とすこともできるし、それでも私は一向に構わない。」
「っ……。」
機械音声のように抑揚のない淡々とした台詞が返され、脅迫じみた宣言に畏怖の念すら抱いてしまった俺と心美は押し黙り、それ以上何も言い返すことができなかった。何故だろうか、腕っ節には自信のある俺ですら、ただひとりの女性を前にしてここまで怖気付いたことなど、首相暗殺を巡って以前に明星と名乗るスパイと激闘を繰り広げた時でさえ、あり得なかったというのに。
「ご理解頂けたようで何よりです。到着まで、まだ何時間か掛かりますので、ゆっくりお休みになられた方が良いですよ。夕食は後でお持ちしますし、酒や甘味などの嗜好品もお望みとあれば幾らでもお申し付けを。」
「必要ない!」
「そうですか。でも、遠慮はなさらない方がよろしいかと。何と言っても、これが最後の晩餐になるかもしれませんから。」
あくまでも客人をもてなすような態度で丁寧に接してくる杉本は、意味深長な一言を残して狭い部屋を去っていった。右も左も分からない、故郷から遠く離れた大地をひた走る列車の中で打つ手もなく、俺と心美はこれから自らに降り掛かる災厄の予感に戦慄する他なかった。
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