Ch.7 プルンバゴ邸監禁事件
虎の威を借る狐
Ep.92 束の間の平和
例年よりも幾日か遅れて発表された梅雨明けにより、本格的な酷暑が到来した事務所内。冷房が効いた過ごしやすいリビングにて、事務所の庭先で今年も美しい純白の花を咲かせた茉莉花を活けた花瓶が飾られているテーブルを隔てて来客と対面しているのは、
「結論から申し上げて、対象者は現在、鹿児島県に居を構えているようです。」
「こんなにも迅速に調査結果を得られるとは……。流石は茉莉花探偵ですね。」
俺と心美はつい先日、とある有名企業からの依頼により社の極秘情報を外部に漏洩している不届きな社員が居るとの情報を受け、その特定を厳命されていた。しかし、蓋を開けてみれば、その犯人の正体は既に定年退職を迎えて数年が経過した現在無職の年配男性だったのだ。念のため身辺情報を洗い出すと、犯人の男性は最近になって妻に離婚を申し込まれた独り身で、収入が途絶えて親戚連中も蒸発。そのような諸事情により、天涯孤独となった老後の生活に不安を抱いたことから始めた、しがない小遣い稼ぎの一環だったという背景事情も掴んだ。
「事実確認のため、私たちも実際に鹿児島まで出向いて張り込み調査を行い、現場を押さえたので間違いありません。こちら報告書になります。ご査収ください。」
「ありがとうございます。」
高級そうなスーツに身を包んだ依頼主である企業の担当者と思しき男性は、深々と頭を下げてから、心美がテーブルに差し出した報告書が入った大きな封筒を鞄に仕舞う。
「それと、私と関わったことは、契約上の守秘義務に従ってどうかご内密に。」
「承知しております。いやしかし、失礼ながら、予算の都合上で大手の探偵社には依頼できなかったところ連絡させて頂いた小さな事務所で、まさか茉莉花探偵がまだ現役でご活躍なさっているとは想像だにしませんでした。」
俺たちは探偵依頼を募集する際に、安全上の理由で茉莉花の名前は一切表に出していない。それ故に、目を丸くして驚いている男性の反応は尤もだ。なぜなら、彼の眼前でソファに背筋を伸ばしながら行儀良く座って香り高いジャスミンを嗜んでいるのは、未だ各種メディアが連日にわたってゴシップのネタにしている茉莉花心美その人なのだから。俺は短期間で上々の成果を挙げ、噂に違わぬ活躍を見せた心美を手放しで褒め称える男性に対して、鼻高々に胸を張る。
「報酬についても契約通り、基本の調査料金に加え、交通費や報告書製作費などの諸経費と成功報酬を上乗せした額を所定の口座へと、期日までにお振込みくださいますよう。」
「分かりました。この度は本当に、お世話になりました。」
心美の言葉に丁寧な所作で会釈を返し、すっと立ち上がって鞄を携え帰ろうとする男性を玄関先まで見送る。斯くして俺たちは、またひとつ仕事を熟して多額の報酬を得ることができたのだった。
「んー、今回も疲れたー!」
「この暑さで、まさか九州まで出張させられることになるとはな……。」
「確かに骨は折れたけど、その分結構な収入になったわね。」
試験的に取り組んでいたオンライン探偵事業がいとも呆気なく
しかし、心美が不世出の神童として名を轟かせ、官民問わず多くの大口顧客を抱えていた全盛期の頃と比較すれば、その収入額は雲泥の差と言わざるを得ない。そのような状況でさえ、俺たちは一向に生活水準を落とそうとしないばかりか、こうした出張の度に調査活動と称したお忍びデートを敢行したり、日頃から世話になっている友人・知人に向けた土産物を大量に買ったりしているので、我が事務所の懐事情はまるでガス欠となった飛行機の如く、緩やかな下降線を辿っている。
「さてと。当面の仕事はこれで全部終わりか。ここ一月は結構忙しかったし、そろそろ息抜きしないとな。」
「ほんとね。それにこの暑さだと、やっぱり仕事にならないわ。」
クライアントが事務所を去ったことで、仕事モードのスイッチを切った心美は気怠そうに頬杖をつき、茹で上がった頭を冷ますように、空いた手を
もう何年も生活を共にしているため感覚が麻痺しているが、俺が心美と恋仲として結ばれてからはまだ半年ほどしか経っていない。とはいえ彼女の方も、自分が俺にとってどれだけ魅力的な女性であるのか、いい加減に自覚を持ってほしいものだ。
「そ、そろそろ昼飯にするか。依頼完遂を祝してちょっと良い物作ってやるよ。」
「やったあ! 私も手伝う!」
うっとりするほど美しく蠱惑的な心美の
「堅慎ってば分かりやすいんだから。可愛い。」
「なんか言ったか……?」
「ふふっ、何でもないわ。」
リビングから使い終わった食器を回収してキッチンへと向かう俺の後ろを歩く心美の呟きは、空調機の稼働音に掻き消されて耳元まで届かなかった。動揺する俺を面白がって揶揄うような微笑みを浮かべながら、彼女は先程まで茹だるような暑さに顔を顰めていたにもかかわらず、ぴったりと傍を離れなかった。
§
ここ最近は働き詰めの毎日を過ごしていた影響で、漸く肩の荷が下りたためか早めに睡魔が襲ってきた
「お疲れ様。はい、これ。」
「お、ありがとう。」
膝と肘をくっ付けて項垂れながら眠気と闘う俺のもとへとやってきた心美は、温かいジャスミンが入ったマグカップを手渡すと、隣のスペースへそっと腰掛けて、自分の分を一口飲んでからサイドテーブルに置く。煌々と輝く月影のみを照明代わりに、心地良い雰囲気に包み込まれるような穏やかな時間が流れていく。
「出張中もまた私が熱中症で倒れないように色々気を遣ってくれたし、報告書作成もいつも通り任せちゃったわね……。今回も頑張ってくれてありがとう。」
「今までの事件に比べたらこのくらい、なんてことない。今回も結果的にはうまく事が運んだとはいえ、あれだけ数少ない情報を基に短期間で犯人の居所を特定できたのは、間違いなく心美の手腕あってのことだろ。」
「えへへ、そうかしら。」
心美は心底嬉しそうな満面の笑顔で褒め言葉を素直に受け取り、姿勢を直した俺の肩口に首を傾けて身体を預ける。その愛おしい仕草に、先程まで感じていた眠気は立ち所に吹き飛び、そっと彼女の腰に腕を回す。
「病み上がりで体力も落ちてたのに、色々と無茶させちゃったからね。御褒美をあげましょう。」
「おー、それは嬉しいな。一体どんな?」
「それは堅慎が決めていいわよ。私にできる範囲で、何でもひとつだけ願いを叶えてあげる。」
太腿に心美のしなやかな指先が伸びて、意識が彼女の存在に囚われる。まるで試されているかのような紅い瞳で射抜かれた俺は、そんな彼女に何を注文するべきなのかと、ひたすら戸惑うばかりで返答に窮する。
「じゃあ、キスしてくれよ……。」
「もう、そんなの御褒美じゃなくてもしてあげるわよ。」
咄嗟に思い付いた純粋な欲求を伝えると、心美は不満気に呟いてから俺の膝の上に跨り、優しく触れるように自らの唇を重ねる。最初はぎこちなかった口付けも、何事においても飲み込みが早い彼女はいつの間にか上達しているので、成すがままにされているのが男としてちょっと悔しい。
「ほら、やり直し。もっと他にしてほしいことはないの……?」
「そんな急に言われてもなぁ。」
息継ぎの合間に褒美の内容を決めるよう急かす心美に、俺は蕩けた頭を必死に回転させる。しかし、思い浮かぶのは全て本能的な欲望ばかりだ。
「心美、今日はこのまま、その──」
「ふふっ。したいの……?」
心美は俺の言葉を待っていたかのように、悪戯っぽく口角を上げて首の後ろに両手を回す。
「良いわよ。でも、それだって御褒美にはならないでしょ?」
「それもそうか……。」
「もっと他にあるでしょ。『何か買いたいものがある』とか『何処か行きたいところがある』とか──」
「俺は、心美が傍に居てくれれば十分だから……。」
これが俺の本音である。俺にとってこの世で最も尊く、自らの命よりも遥かに大切な存在が目の前の茉莉花心美という女性なのだ。「何か望みがあるか」と言われたところで、全ての欲求の根源が彼女にあるのだから、他に何も考えようがないのは仕方ない。
「俺には、心美しか見えてないんだよ。」
「っ、仕様がないわね……。だったら、また改めて聞くから、その時までに何か考えておいて。」
「分かったよ。」
「汗かいちゃったから、先にお風呂に入ってくるわ。堅慎も一緒に入る……?」
唐突な心美の提案に、既に爆発しそうなほど高鳴っていた俺の心臓の鼓動は、一際激しさを増していく。しかし、いつまでも彼女の前で慌てふためいているばかりでは、彼氏としての沽券に関わる。そろそろ俺も落ち着きを取り戻して、余裕のある態度を心掛けなくてはなるまい。
「あ、あぁ。良いよ。入ろうか。」
「あら、意外ね。どうせ堅慎のことだから、意味もなく恥ずかしがるだけだと思ったのに。」
もはや俺の思考原理など、長年一緒に暮らしてきた上、鋭い洞察力を持った聡明な心美には隠し立てできやしなかった。
「それじゃあお風呂溜めてくるから、堅慎はちょっと寛いでて。」
「あぁ、ありがとな。」
名残惜しむようにきつく抱擁を交わして、潤いのある扇情的なリップ音をひとつ響かせてから、心美は軽やかな足取りで寝室を飛び出す。その後ろ姿を見送った後、俺は昂った気持ちを一度落ち着けるために自らの胸に手を当てて深呼吸する。生暖かい熱帯夜の空気が肺一杯に流れ込むのと同時に、鼻腔を通り抜ける心美の余香が、俺の興奮を冷ましてくれることは決してなかった。
§
床に足を付けたままベッドに背中から倒れ込み、待つこと十数分──心美が中々戻ってこないので手持ち無沙汰な時間を過ごしていた俺は、何かあったのだろうかと様子を見に行くため浴室の方へと向かった。浴室に繋がる脱衣所の扉を開けると、心美は部屋の隅で
「どうした心美!?」
俺はその異様な光景に驚き、慌てて心美のもとへ駆け寄る。
「き、来ちゃダメ!!」
「っ、何があったんだよ……!?」
さも深刻そうな面持ちで振り返り、真剣な声色で接近を許さない心美に、俺は慌てて現況を尋ねる。すると、心美はばつが悪そうに口籠もりながら、絶え入るようなか細い声で呟く。
「ふ──」
「ふ?」
「太った……。」
「えっ?」
──太った。心美は確かにそう言ったのだろうか。だが、特段見た目に変化はない上、元々が華奢で筋肉質な身体をしているために基礎代謝量も高い彼女が太るだなんて、あまり想像が付かないのだが。
「ちょっと体重計を見ない間に3キロも太ってただなんて……。」
「3キロって……。心美は元からスタイル良いんだし、別にそこまで大袈裟に考えなくても──」
「なによ! 私にとっては十分に死活問題なんですけど!?」
「お、おぉ。すまん……。」
精一杯のフォローで返したつもりが、俺の発言は火に油を注ぐだけだったようだ。
「それに、これは堅慎のせいでもあるんだから!」
「えぇ……?」
「病気で暫く寝たきりのまま運動不足だったのに、いつも美味しい料理を作ってくれるから、ついつい食べ過ぎちゃって……! 通りでこうなる訳だわ!」
「あ、ありが、とう?」
「こちらこそいつもありがとう!」
怒られたり褒められたりと感情が忙しく、思わず笑みが零れてしまいそうになる。だが、ここで笑うと心美の機嫌がますます悪くなってしまいそうなので、彼女をそっと抱き寄せて込み上げてくる笑いを何とか押し殺す。
「ということで、堅慎には明日からダイエットに付き合ってもらうから、覚悟してよね。」
「そんなあ……。」
「四の五の言わない。それに貴方だって運動不足なんだから、他人事じゃないわよ。」
「確かに、それについては返す言葉もないが。」
熱が引いて以来、仕事ばかりで忙しく碌に身体を動かしていなかったのは俺も同じだ。心美の指摘にも一理あるのは間違いない。
「分かったよ。明日からは色々と食事にも気を遣って、積極的に運動するようにしよう。」
「分かればよろしい。それじゃ、回れ右ね。」
心美は俺の身体に手を添えて強制的に半回転させ、背中を押して脱衣所の外へ追い遣ろうとする。
「おい、一緒に風呂に入るんじゃ──」
「こんな状態で身体を見られるのは嫌! 堅慎には申し訳ないけど、また今度ね!」
「嘘だろ……。」
期待と興奮が最高潮に達した今になって告げられた突然の予定変更に、失望の念を禁じ得ない。今なら心美から貰った御褒美の権利の使い道を簡単に思い付きそうなものだが、どうせ無茶を言ったところで、頑固な心美を前にしては何の意味も成さないだろう。俺にできるのは精々、徹底した食事管理と計画的なスケジュールを立てて心美を全力でサポートし、一刻も早く彼女が納得のいくベストコンディションを取り戻してもらうことを願うだけだ。
その後風呂を手早く済ませた俺は、心美の待つ寝室で悶々とした時間を過ごしながら、煩悩を捨て去るために睡魔を呼び戻そうと必死に羊の群れを数えた。連日の仕事に疲れていたためか、翌日からの減量開始を決意した心美はいとも容易く夢の世界へと誘われていったため、俺はそんな彼女の美しい寝顔を恨めしく睨み付けながら手の甲で頬を撫でる。そして時計の針が頂へと上り詰めた頃、俺は百匹以上の羊に囲まれて、漸く意識を手放すことができたのだった。
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