Ep.93 ドッペルゲンガー

「心美ストップ……! もう限界だってば……!」


「情けないこと言わないの。まだ家を出てから十数分しか経ってないのよ。」


 太陽と月が入れ替わり、薄暗い夜道を照らす街路灯と自動販売機から漏れる淡い光に、羽虫が不快な音を立てて群がる熱帯夜──今日から始まった心美の減量計画により、俺は人気のない近所の霊園の夜道にてランニングに付き合っていた。


「何もこんな時間に外に出ることないだろ……。」


「仕方ないじゃない。明るいうちは人目もあるし、暑くて陽が出てるんだから。」


 アルビノ体質の心美にとっては、当然ながら日中の外出は好ましくなく、激しい運動など以ての外だ。また、国内外を問わず稀代の探偵としてその名を轟かせた彼女の事情を抜きにして考えようと、いくら何でも、女性をひとり夜道に放り出す訳にはいかないので、俺も自らの運動不足解消の一環として、彼女の隣を併走していた──。


 はずだったのだが、思っていた以上に体力が落ちていた俺の息が弾むにつれ、次第に心美の姿は視界の前方へと遠ざかっていった。


「どうやら、本当にダイエットが必要だったのは堅慎の方だったみたいね。そういえば、貴方も最近お腹周りが……。」


「う、五月蠅いな! そういう心美はやっぱりダイエットなんて必要ないだろ!」


 はっきり言って、心美は病み上がりの状態で働き詰めだったにもかかわらず、少しも体力が落ちていない。本人は僅かな体重の増加に危機感を覚えているようだが、見た目に関しては一切変化が見受けられない。慎ましくも、確かに女性らしさを感じさせるシルエットの曲線美が闇夜に浮かび、色白でしなやかな肢体は年を重ねる毎に美しさを増しているようにすら感じる。


「そ、そんなに褒めたって手加減なんかしてあげないんだから。貴方は私のパートナーであると同時に、探偵・茉莉花のボディーガードでもあるのよ。忘れちゃったかしら?」


「はいはい。分かってますよ、所長様。」


 そう軽口を叩きながらも、膝に手を突いて、何とか呼吸を整えながら思い出すのは、心美の護衛として失敗を繰り返してきた過去の自分だ。もう二度と彼女を失うかもしれない恐怖に苛まれるのは御免だと、その岩よりも固い決意が己を奮い立たせる。


「よし! それじゃあさっさと続き行くぞ!」


「あ、待ちなさいよ!」


 こうなったら、もう他人事では済まない。俺も心美に負けじと大きな一歩を踏み出し、生温い風を切りながら薄明りの中へと飛び込んだ。



 §



「そんなに急いで、ペース配分も考えないと怪我のもとよ。全くもう。」


「面目ない……。」


 結局あれから数十分間、すっかり調子に乗って周辺を駆けずり回り、疲労困憊となって両足をってしまった俺は、最低限シャワーで汗を流した後、冷房が部屋全体に行き届くまでの間、扇風機の前から動けなくなってしまった。


「だらしないわね。」


「仕方ないんだよ。今ここから動いたら折角流した汗がまた噴き出しそうだ。」


 濡れそぼった白い髪を同じ色のバスタオルで拭いながら浴室から出てきた心美が、俺の怠惰な有様を前に苦言を呈する。


「こうも暑いと、アイスクリームが食べたくなってくるな。」


「もう。せっかく頑張って走ったのに、ここで欲望に負けたら本末転倒でしょうが。ダイエットは一日にして成らずよ。」


「分かってるってば……。」


 濁りのない乳白色を前にふと思い付いた冗談のつもりが、今の心美にはそれが通用しなかった。彼女は減量だろうが何だろうが、一度やると決めたことは絶対に完遂するし、そのために半端なことは一切しない。それほど、今回のダイエットに掛ける思いは相当なものなのだろう。


「よっこいしょっと。」


「だらしないんじゃなかったのか?」


「別にダメとは言ってないわよ。それに、お風呂上がりは無性にこうしたくなるのよね。」


 普段は「事務所の雰囲気に合わない」と言う心美により、決して日の目を見ることがない扇風機の前に座る俺の隣へ、彼女は絨毯の柔らかさに身を預けるようにして勢い良く腰を下ろした。高速回転する3枚の羽根から送られてくる強風に髪を靡かせながら、心地良さそうな低めの声をぶつけ返し、疑似的なビブラートを奏でている。


「偶にはこういうのも、悪くないだろ?」


「ふふっ、そうかもね。」


 次第に冷たい空気が部屋に充満してきたので、扇風機を再び物置の肥やしにして、何となくテレビの電源を入れる。すると、大型の液晶には深夜のニュース番組が映し出され、女性キャスターが淡々と手元の原稿を読み上げていた。


 ──それでは、続いてのニュースです。


 キャスターの言葉と同時に一段落したニュースから目を切って、喉が渇いていた俺はコップに水を注いで一気に飲み下そうと口元へ運ぶ。しかし、次の瞬間、切り替わったテレビ画面に表示された信じ難い光景に、俺は目を疑うことになる。


 ──数年間にわたって表舞台から退いていた天才探偵・茉莉花さんが、当番組の取材に応じてくれました!


「はっ……!?」


「ちょっと堅慎! 首元に水が零れてるわよ!」


 シャツの湿り気と心美の大声によって我に返る。だが、何度目を擦って確かめてみても、目の前のテレビから流れる茉莉花心美のインタビュー映像を収めたVTRは、どうやら本物のようである。なぜなら、実際に画面上ではきはきと自信たっぷりにインタビュアーの質問に対し受け答えしているのは、特徴的な白髪を蓄えた茉莉花心美その人だったからだ。この俺が見間違うはずもなかろう。


「こ、心美! 見ろよこれ……!」


「何よ、そんなに慌てて──」


 ニュースにあまり興味がなかったのか、ソファに座って髪や肌の手入れをしていた心美の肩を揺すってこの異常事態を知らせる。煩わしそうに身体の向きは変えず、首だけを捻って画面に視線を送った心美も、その奇々怪々な状況を前に言葉を失っていた。


「一応聞くけど、俺の知らないところでマスコミと接触したりは──」


「する訳ないでしょ! それに、堅慎とはほぼ四六時中一緒に居るんだからそんなことはあり得ないわよ……!」


 念のため本人へ確認を取るも、当然ながら彼女自身に心当たりはないようだ。だとすれば、この異様な状況は一体どのように説明すれば良いのだろうか。


 俺の脳内を渦巻く疑問をさらに加速させるのは、インタビューの内容だ。栄泉リゾーツを取り巻く事件の全貌から、心美の肉親を巻き込んだ一連の騒動に至るまで、それこそ本物の茉莉花心美でしか知り得ないようなことを平然と語っているのだ。それでいて、件の総理大臣暗殺阻止計画については、一定の関与を仄めかすものの、替え玉作戦という国民の信頼を裏切りかねない計画の根幹に係る部分については巧妙に伏せているなど、ただ闇雲な暴露を目的としている訳でもないらしい。


 ──議員会館発砲事件の裏での暗躍、日光における多数の目撃情報と温泉旅館で発生した殺人事件の解決など、噂の域を出なかった数々の舞台裏を茉莉花さん本人からお話くださいました。


「す、すぐにテレビ局に抗議の電話を──」


「無駄よ。これだけ精巧なインタビュー映像を作って全国放送だなんて、テレビ局側も彼女を本物の茉莉花だと信じるに足る相当程度の確信を持っているに違いないわ。」


「でも……。」


「それに、向こうが抗議に応じたとして、何て言うつもりなの? 『私が本物の茉莉花です』だなんて、それこそ相手にされないでしょうね。」


 俺の浅はかな考えは、すぐさま心美に一蹴されてしまう。となれば、次なる関心はこの画面越しの欺瞞者が誰なのかということだ。


「この心美そっくりの女は一体……。」


「気味が悪いくらいに私と同じ顔ね。でも、それこそ以前のように3Dプリンタで特殊マスクを合成するにしても、微細な違和感は残ってしまうところ、それもない。」


「てことは、こいつはマジで心美と同じ顔をしているってことか?」


「信じられないけど、そういうことかもね……。とはいえ、今や映像は簡単に捏造できる時代だから、確証はないけれど。」


 それでも、今まで数々の難事件に立ち向かっていた心美と、彼女の相棒である俺以外には到底知り得ない仔細までを、まるで当事者であるかのように言い当てて見せた偽物の言動からは、明確な危機感を覚える。


「参ったわね。これまでの事件、私は雇われの身として働いてきたのだから、こうも明け透けに事件の情報をメディアへばら撒くような人間だと思われたら、顧客の信用問題に関わるわ。彼女が何故そんなことを知っているのかも分からないけど、早急に手を打たないと──」


 刹那、心美のスマホが一件の電話を着信する。


「も、もしもし!? 今ニュースで心美ちゃんを見たんだけど、どういうこと!?」


「陽菜ちゃんからだわ……。」


 平日深夜の番組といえども、流石は茉莉花心美のネームバリューと褒めるべきか、インタビュー映像は瞬く間にインターネット上で拡散されているようだ。俺たちは、突然現れた謎のドッペルゲンガーへの対応に頭を悩ますことになるのだった。

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