招待状
Ex.1 ED 一難去ってまた一難
湿度が高く暑苦しい初夏の熱帯夜、朝に心美が倒れてから一向に意識を取り戻さないことに驚いた俺は急いで彼女をベッドに運んで慌てふためいていたのだが、その原因はじっとりと汗ばんだ彼女の腕に触れた瞬間すぐに分かった。
「やっぱり、熱を移しちゃったみたいだな……。」
心美との情事の際に負わされた身体中の細かな傷から入り込んだ病原菌によって、俺はつい昨日までウイルス性の感染症に罹患していた。それが今日漸く治ったにもかかわらず、俺と入れ替わるように今度は彼女に病気が感染してしまったらしい。昨日の激務の労をねぎらうように掌を握りながら一定のリズムで頭を撫でると、信じられないほどの高熱に苦しむ彼女の表情が幾分か和らぐ。
再三にわたって釘を刺したのに、心美は病床に臥せる俺を献身的に看病してくれただけでなく、いつも通りにキスやハグといった濃厚接触を繰り返してきた。しかし、口先では心美のためを思って自分から離れるようにと注意する一方で、俺は彼女が自身の安全を顧みずに傍に居てくれたことで寂しく心細い思いをせずに済み、とても嬉しかった。それによって、遠からず心美が病気に倒れることは予期していたものの、苦しそうに眉を顰めて汗を流す彼女を見ると、申し訳なさで胸が締め付ける。
「けんしん……。」
「大丈夫か心美!?」
寝汗で肌に張り付いた絹糸のような白髪を丁寧に除けてやると、病熱の影響なのか、アルビノ特有の血色が透けて紅く光るルビーのような濡れた瞳が、一際強い輝きを放っていた。親の顔よりも見てきたはずの、その吸い込まれそうな美しさに心奪われていると、心美は不思議そうに首を傾げて俺の頬に手を伸ばす。
「辛くないか?」
「辛いわよ……。こんなに辛い熱に耐えてまで仕事に付き合ってくれてたなんて、堅慎の馬鹿……。」
俺は心美が気を失っている間に買ってきた市販の解熱剤と水のペットボトルを、ベッド際のサイドテーブルから徐に手に取って、反対の腕で彼女の身体を抱き起こして飲ませる。
「へへ、ありがと……。」
「当たり前だろ。」
今まで文句ひとつ吐かずに甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれた心美に対して、この程度のことは恩返しの範疇にも入らない。俺は外出ついでに買い込んでおいた滋養強壮効果のある栄養ドリンクやゼリー剤といった保健薬を袋から取り出してテーブルに置き、朝から気絶したまま何も口にしていない彼女がいつでも栄養補給できるように環境を整える。
「暑かったり寒かったりしないか?」
「うん、今は平気……。」
幸いにも湿度が高いため喉の調子は悪くないようで、時折苦悶の表情を浮かべて咳き込むものの、痛みを感じている訳ではないみたいだ。そのことに一先ず安堵した俺は、弱ってしまった心美のために食べやすい流動食を作ろうとキッチンへ向かうべく立ち上がる。
「あ、待って──」
心美は反射的に力の抜けきった指で俺の服の裾を摘まむと、縋るような視線を向けて必死に何かを伝えようとするので、床に膝を突いて待つ。すると、彼女の熱が籠った吐息交じりの囁き声が、俺の耳元を伝わって脳を
「行かないで……。」
「っ、すぐ戻って来るよ。何も食べてないから腹減ったろ。夕食の準備を──」
「食欲ないから、要らない。寂しいの。ずっと傍に居て……。」
息も絶え絶えに、舌足らずな声で素直に甘える心美を前にして、無性に庇護欲を掻き立てられた俺は彼女を抱き締めて布団を掛ける。
「分かった。ずっと一緒だ。」
「うん……。」
「その代わり、栄養剤はしっかり飲むんだぞ。」
「はぁい……。」
混濁した意識の中を彷徨う心美が虚ろな返事をしたかと思えば、唐突に俺の襟元を掴んで自らの方へと引き寄せる。そして、彼女は徐に俺の首元へと顔を近づけて唇を這わせるので、何が起こったのか理解できずに驚き飛び退く。
「心美さん!? な、何を──」
「いくら免疫ができて病気に罹り難くなったからって、唇はダメかなって。だから我慢。ついでに塩分補給も……。」
心美は俺の首元に伝う汗を舐め取ったことに尤もらしい理由を添えて、へらへらと笑って誤魔化す。理性的で自制心の強い普段の彼女であれば決してするはずのない行動であるが、だからこそ、頬を紅潮させて恥じらいを見せる恋人の煽情的な仕草の破壊力は抜群で、一瞬にして俺の理性が極限まで擦り減っていくのが分かる。もはや俺の本能を繋ぎ止めているのは、目の前の恋人が先日まで自分を苦しめていた熱病に侵されている病人だという事実だけだ。
「この、人の気も知らないで──」
「あと堅慎、申し訳ないけど、湿って気持ち悪いから服も着替えさせて……。お風呂にも入れないから、身体も拭いてくれると助かるんだけど……。」
そう言うが早いか、寝汗に濡れて重くなったシャツを自ら脱ぎ始める心美を、俺は大慌てで制止する。
「ま、待った!」
「あれだけの事をしておいて、今更裸を見るくらいで何を恥ずかしがってるのよ。汗が冷えて寒気がしてきたから、できるだけ早くお願いしたいんだけど……。」
「ぐっ。」
煩悩に塗れた脳内を空にするため、可能な限り視界に何も映さないように俯きながら心美の身体をタオルで拭ってやって、寝室のクローゼットから適当に見繕って引っ張り出してきた下着とシャツを手早く着せる。その間心美は、単に俺が恥ずかしさに悶えているだけだと思っていたようだが、健康的な二十歳の男が一体どういう生き物なのかということを未だ十分に理解していない彼女には、俺が内心飼い慣らせていない獣の正体を知られる訳にはいかなかった。
§
それから数日が経過して、今年初の台風が関東近郊に上陸して猛威を振るう最中、じめじめとした高温多湿の空気が充満する事務所にて、すっかり熱も引いて元気を取り戻した心美は憂鬱そうな表情を見せていた。
「こんな天気じゃ、中々仕事も来ないわね。」
「まあな。全国的に梅雨入りも宣言されたし、仕方ないよ。」
横殴りの
「どうしたものかしらね。私もそろそろ積極的にメディア露出した方が良いのかな。」
「それはダメだろ。平穏な生活を手に入れたい一心で頑張ってるのに、それじゃあ本末転倒だ。」
「そんなの、言われなくても分かってるわよ。」
気分転換にと、久しぶりに高級なジャスミン茶葉が入った小箱の蓋を開けて茶器を取り出す。しかし、高価な外国産の嗜好品故に量が少ない小箱の中身は既に底が見えていて、いよいよ現在の生活水準が維持できない危機に直面していることを嫌でも実感させられる。
「心美、ジャスミンがもう切れそうだ。」
「じゃあいつも通り通販で注文しておいてー。」
「あのなぁ。もうそんな金ないだろ……。」
「はぁ。こんなことになるんだったら、お父さんの遺産をもう少しだけ手元に残しておくべきだったかしら……。」
物憂げな表情で小さな溜息を吐いて、残り数少ない高級なジャスミンの馨しい甘い匂いに目を細めている心美を余所目に、俺は暇潰しのため彼女がいつも熱心に読み耽っているミステリー小説を開いてソファに座る。もしかしたら、小説の中に逼迫した財政状況を改善するためのヒントがあるかもしれないと一縷の希望を見出すも「事実は小説よりも奇なり」とは良く言ったもので、小説で描かれている事件よりも遥かに壮絶な体験をしてきた俺たちにとって、その内容は
──ピンポーン。
すると、依頼のない時には訪問者など来るはずもない郊外の奥まった場所にある事務所のインターフォンの残響が、雨音に紛れて伝わってくる。金欠の俺たちが互いに相談することなく宅配便を利用するなどはあり得ないので、一体何事かと今度は病み上がりの心美に代わって俺がソファから立ち上がって玄関に向かう。
「お待たせしました。」
「こちらに郵便物が届いているのですが、この悪天候ですので郵便受けに入れたままにしておくと濡れたり吹き飛ばされたりしかねないため、直接お受け取り頂いた方がよろしいかと。」
台風による暴風雨にもかかわらず、丁寧に気を使ってくれる配達員に礼を述べて玄関扉を開錠する。
「わざわざすみません。どうかお気をつけて。」
「どうもありがとうございます。それでは。」
雨合羽を着込んだ配達員が頭を下げて去って行くのを見送ってから、俺は今し方直接手渡された謎の封筒を見つめる。シンプルな白一色で長方形をした封筒の裏面中央部にある封じ目には、真っ赤な
「心美、何故かうちに郵便が来てる。」
「妙ね。何かしら……?」
焦点の合わない虚ろな目で呆然と何もない空間を見つめながらジャスミン茶を啜っていた心美は、ふと顔を上げて俺の持つ封筒に視線を移す。
「知り合いからって訳でもなさそうね。宛先は確かに私たちの事務所の住所だけど、差出人の記載すらない。なんだか気味が悪いわ……。」
「なら、読まずに捨てるか?」
「それもそれで何か後味悪いわね。取り敢えず、内容くらいは確かめてみましょう。」
デスクの引き出しからレターオープナーを持ってきた心美は、封蝋の隙間にそれを差し込んで丁寧に中身を取り出す。すると、封筒の中からは、これまた何の変哲もない一片の小さな便箋が入っていて、その中央には筆記体のアルファベットでたった一文のみが記されていた。
──Waiting for you at the Plumbago's house.
(プルンバゴ邸にて貴女を待つ。)
「何これ?」
ある種の招待状とも取れるその内容に当然ながら心当たりはなく、率直な感想を述べる心美に、俺は同意見だった。しかし、この書状が新たなる不穏な事件の呼び声だったことなど、この時の俺たちは知る由もなかった。
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