Ep.88 骨折り損の草臥れ儲け
「とはいえ、良く考え直せば私共にお手伝いできることは大分限られています。」
「そうですよね……。」
すっかり太陽が西へと
「調査に必要な機材を郵送しようにも、事態の緊急性を鑑みれば一刻の猶予もありません。」
安藤から受託した依頼のように、既に所在が分かっている特定の人物の素行調査などであれば十分に準備を整えた上で仕事を始められる一方で、可及的速やかな逮捕が望まれる犯罪者の捜査には時間がない。
「そもそも、佐倉さんがこれ以上事件に首を突っ込むのは、言うまでもなく危険極まりないですから……。」
「私なら大丈夫です! 出来ることなら何でもしますから、どうにか可能な限り穏便に解決して頂きたいんです……。」
話を聞く限り、大量の血痕と異臭が発生していたとのことから複数人が殺害されている可能性すら否定できない状況で、犯人は死体を始めとする証拠隠滅を企んでいるらしい。そんな凶悪事件が差し迫っている時点で穏便も何もないのだが、これ以上の犠牲者を生まないためにも、佐倉の要求を鵜呑みにすることは決してできない。
「そう言われましても──」
──And I realize you're mine~♪
突如として私の言葉は、デスク上に放置していたスマホから大袈裟なバイブレーションと共に流れ出る着信音によって遮られてしまった。音楽ストリーミングサービスアプリに保存してあるお気に入りからランダムな楽曲が着信音として選ばれる設定となっている私の端末からは、この頃アメリカン・ロックを熱心に聴き漁っていることもあってか、Queens of the Stone Ageの『No One Knows』が選曲されたみたいだ。趣味がバレるようで一抹の恥ずかしさを覚えながらも、液晶に表示された名前を見て、私はすぐに思考を切り換えた。
「安藤さんから……? 堅慎──」
「分かってる。そっちは代わるよ。」
間近で事の成り行きを見守ってくれていた堅慎は、いち早く私の考えを読み取ったようで、よろよろと立ち上がって固定電話の置かれたデスクまで歩み寄り、佐倉との電話を引き継ぐ。私はその間にスマホの画面上に指を滑らせて、スピーカーに耳を当てる。
「安藤さん、どうされましたか?」
「あまり大きな声が出せなくてすみません。というのも、帰り道すがら買い物を済ませてから駅まで歩いていたら、夫を見つけたんです。しかも、同年代の女性を連れて歩いていて……。」
「本当ですか……!?」
驚くべきことに、数十分前に調査を打ち切って帰路に就いたはずの安藤昌から唐突に連絡があったかと思えば、その用件とは夫・暁優が不倫相手を連れて夜の街を闊歩しているとの報告だった。タイミングは最悪だが、この好機を逃す手はない。
「直ちに小型カメラの電源を入れ直してください! くれぐれもスマホで写真を撮らないように。音が立ってしまいますから。」
「わ、分かりました……。」
文字通り半生を共に過ごしてきた生涯の伴侶が、やはり不貞行為に及んでいたという事実を突き付けられた昌は陰陰滅滅とした声色を滲ませるので、彼女の
§
昼間から夕方にかけて行っていた調査活動の時と同じように、私は急いでソファに座ってノートパソコンを膝の上に広げつつ、昌に持たせた小型カメラを通じて送られてくる映像を確認する。すると、何故か大きな半透明のビニール袋を両手に下げた暁優が、身綺麗な中年女性と肩を並べて歩いているところを目撃した。不倫の動かぬ証拠として、パソコンを操作して何度もカメラのシャッターを切ってその瞬間を収める。
「これで、終わりですね……。」
「いえ、安藤さん。まだ終わってはいません。」
そう、調査はこれで終わりではない。昌が夫の不倫を疑うまでに至った暁優による数々の不審な行動と今し方撮影した数枚の写真は、もし夫婦が離婚を選び、裁判沙汰に発展した場合には、依頼人である昌の側へ有利に働くだろう。しかし、謎の女性を連れていたという事実だけで暁優の不倫を決め付けるには不十分であるということも、この身を以て知っている。ここまで来たからには、昌の無念を徹底的に晴らしてやるまでは、こちらも引き下がれまい。
「せめて旦那様があの女性と何処に向かっているのか、それだけでも突き止めませんか。」
当事者である昌に対しては口が裂けても言えないが、早い話、暁優が妻の与り知らぬところで他の女性と路上で接吻や抱擁を交わしたり、ラブホテルといった類の施設に連れ込んだりする瞬間などが押さえられれば、証拠集めの調査は完遂したに等しい。
「勿論です。こうなったら、是が非でも真実を
「その意気です。全力でお手伝い致します。」
昌から気迫の籠った返事が聞けたことで、奇しくも突発的に暁優の尾行調査が再開してしまった。無論、対象に尾行が気付かれないために最大限の注意を払わなくてはならない一方で、忘れてはならないのが堅慎に任せ切りにしてしまっている佐倉との電話だ。そんなことを考えつつ、対応に追われている相棒に少しだけ意識を向けると、事態は思わぬ方向へと傾きかけていた。
「いえ、ですから拙いですって! 考え直してください!」
「要するに、私が事件現場に戻って現況をお伝えすることができれば、犯人特定に向けた助言を頂けるということですよね!? 私、今から戻ります!」
「危険過ぎます! 佐倉さんが戻ったところで、私共も直ちに的確な推理ができる保証はありませんし、犯人が分かったとして如何なさるおつもりですか──ごほっ……。」
スピーカーから漏れ出る会話の内容から察するに、なんと佐倉は私たちによる再三の忠告にもかかわらず、単身事件現場に戻ろうというのだ。死体を切り刻んで骨と内臓を分け、肉体の大部分を何処ぞへと持ち去った凶悪犯が居るかもしれないと知りながら、年端も行かない少女をたった1人で向かわせる訳にはいかないと必死に声を荒らげる堅慎は、未だ本調子ではない喉を酷使して大きく咳き込んでしまう。
「あーもう、参ったわね……!」
今すぐ助け舟を出してやりたい気持ちもあるが、PCの画面越しには暁優が頻りに優しい笑みを浮かべた横顔を覗かせつつ、連れの女性と歓談しながら歩いている様子がすぐ近くに見える。それが果たして、背後から尾行している昌のことを警戒してのことなのか、単に女性との会話に夢中になっているのか、一瞬たりとも気を抜かず見極めて行かなくてはならない私は、持ち場を離れることもできずパニック状態に陥っていた。
「どうしよ、う……?」
手枷足枷の状況にどうすることもできずに頭を抱えたその時、昼間の徹底指導の甲斐あってか特に具体的な指示もなく慎重な身の熟しで暁優の後を追う昌の小型カメラに映った光景に、私は2つの違和感を覚えた。
「この場所って──」
そう、1つは昌が駅から歩いてきた道が、正午に通っていた道と全く一緒だったということ。気が付けば、前方には暁優が忽然と姿を消してしまった白塗りの高級感あるレストランが現れた。しかし、偶然の一致とは思えないその事実にもかかわらず、私の関心はある一点に集中していた。
「彼女は、もしかして……!?」
そしてもう1つ──昌の歩調に合わせて小刻みに揺れるカメラの端に捉えられた黒髪の少女に、私の視線は釘付けになった。というのも、少女は鬼気迫る形相でスマホを耳に当て何者かと連絡を取っている様子で、並々ならぬ緊張感を身に纏っていたからだ。まさかと思い、堅慎の方と画面端に映る少女を交互に見遣ると、少女が口を動かす度に、事務所の固定電話のスピーカーから佐倉の声が木霊するのだ。
「都内の大学に通っているとは聞いていたけど、佐倉さんもこんなに近くに!?」
その驚愕の事実を相棒にも伝えようと、私は堅慎の方を振り向いて身振り手振りで必死に意思疎通を図ろうとする。だが、堅慎は既に佐倉との会話にて事情を把握しているらしく、逆に受話器の口を押さえながら、私へと向かって慌てて指を差す。
「心美見ろ!」
「えっ……?」
堅慎の指し示す方向へと目線を移せば、そこには佐倉本人と思しき少女に加えて、尾行中の暁優と連れの女性──計3名が例のレストランへと進路を変えて、今にも集結せんという様子が液晶に大きく映し出されていた。
「ど、どういうことなの……?」
次から次へと
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