Ep.89 謎解きはディナーのために
温かみのあるオレンジ色の電球色にライトアップされた夜のレストランは、既にディナータイムを迎えているようで、カップルや家族客を中心に賑わっている。運命の悪戯とでも言うのか、そこには不特定多数の形なき異状死体の目撃者・佐倉と、依頼人・安藤昌によって不倫の疑惑が掛けられている彼女の夫・安藤暁優が同時に現れたのだった。
あろうことか、暁優に至っては不倫相手と思われる見知らぬ女性を連れていて、昌本人が少し離れた位置から両名を尾行しているという奇妙な構図に、私は探偵稼業を始めてからの数年間で最も激しく混乱している。
「マジで、何が起きてるんだよ……。」
何が何だか分からないと頭を抱えているのは私だけではないようで、病身にもかかわらず助手としていつも通り仕事を補佐してくれている堅慎が受話器を握り締めたまま、私の背後からノートパソコンの画面上に表示されている謎の光景を呆然と眺めて立ち尽くしている。
「あ、あれ……!」
暁優を十数メートル離れた位置から見守っていた昌が突然声を上げるので、注意深く液晶の映像を凝視する。すると、昼間は正面玄関から堂々とレストランへ入っていったはずの暁優は、どういう訳か女性と一緒に店の裏手に回って行くのだ。
「ダメ……!」
その様子を見ていたのは、私と堅慎だけではなかった。偶然か必然か、今度は現場に居合わせている佐倉が固定電話越しに大声を張り上げるので、再び画面に注目すると、なんと佐倉本人と思しき少女が大慌てでレストランに向かって走り出すと同時に、事務所の電話が切れてしまった。このままじゃ埒が明かないし、真相究明のためには、唯一連絡が取れる昌に協力してもらう他ない。そう考えた私は、咄嗟に彼女へと指示を飛ばす。
「安藤さん、リスクを承知で接近しましょう。佐倉さ──あそこに居る女性が注意を引き付けてくれている間に、彼らの姿がしっかりと見える場所まで移動してください!」
「分かりました!」
§
ディナータイム故に使われていないテラス席の横を通り抜け、レストランのバックヤードへと歩を進める暁優と連れの女性に向かって第一声を発したのは、肩で息をしながら後を追いかけてきた佐倉だった。
「さ、幸子叔母さん!」
「実千瑠ちゃん? どうしてここに……。」
佐倉は暁優と並んで歩いていた女性を叔母と呼んだ。そして女性もそれに応え、佐倉の名前を実千瑠と言い当ててみせた。まさか彼女たちの間に血縁関係があったとは驚きだが、問題はそこではない。
「叔母さん、危ないよ! 私さっきまでバイトの面接で店に来てたんだけど、誰も居なくて……! そしたら血と肉がそこら中に──」
「あのバカ……! 実千瑠ちゃんとの約束をすっぽかした挙句、頼んでおいた店内の清掃もサボってたってのかい……!?」
「まあまあ、飯島さん。まずは彼女の誤解を解いた方が良いんじゃないですか?」
隣で2人の会話を傍観していた暁優が、
「探偵さん、ありがとうございました。今まで主人にバレないように尾行を続けてこれたのも貴方のおかげです。でも、私は主人が不貞行為を働いている証拠を掻き集めてどうこうしてやろうって気持ちがある訳ではなくて……。私はただ、主人の口から真実を話してほしいだけなんです。今なら主人も言い逃れのしようがないはずですから、直接問い詰めてきます!」
「え、あっ、ちょっと……!」
衝動に任せて突飛な行動に出る昌を制止する暇もなく、彼女は夫のもとへと走り始めてしまった。小型カメラの映像と通話を繋いだままなのは、1日中調査活動に付き合った私たちにも事の結末を見送る権利があると思ってのことだろう。もはや手の施しようがなくなった状況を前に、私と堅慎はリビングのソファからノートパソコンの画面を食い入るように見つめる他なかった。
§
「あなた……!」
「なっ、昌──」
今頃、自宅にて夕食の準備に取り掛かっているはずの妻が目の前に現れた──その事実に、暁優は飛び上がって狼狽している。その反応からは、やはり今まで昌の尾行が気付かれていなかったことが分かる。そして、暁優自身が妻に対する何らかの隠し事を有していることは明白だった。
「どうしてここに……!?」
「私の事はどうでも良いでしょう。それより、そちらの女性は一体誰なの……!?」
悲哀と怒気が複雑に入り混じった声色で絞り出すように問い返す昌の言動から、暁優は自らが良からぬ疑いを掛けられていることを察したようで、如何したものかと
「あらぁ、バレちゃったみたいだね。あんたってば、浮かれてばかりで脇が甘いと思ったのよ。」
すると、何かを観念した様子の飯島と呼ばれていた女性が暁優を見て大きく溜息を吐く。それを見て頭に血が上ったのか、矢継ぎ早に詰問しようとする昌に対して「事情は分かっている」と言わんばかりに掌を向けて制止したかと思えば、飯島は親指を立てて後ろに向ける。
「付いてきな。ほら、実千瑠ちゃんも。」
§
「あれ、何で……。」
飯島の案内で従業員通用口に回り込んでレストラン内部に入ると、佐倉は不思議そうに首を傾げる。どうやら、彼女が夥しい量の血肉を見つけた場所というのは、まさにこのレストランの中だったようだ。しかし、事務室や更衣室と思しき各部屋を通り抜けて厨房に辿り着いても、彼女の証言したような光景は何処にもなく、活況を呈するディナータイムに訪れる客を捌くためにシェフたちが忙しなく働いているだけだ。
すると、突然の訪問者に気が付いたシェフの1人が目を見開いて、顰めっ面を作りながら駆け寄ってくる。
「オーナー、この慌ただしい時間に何処をほっつき歩いていたんですか!」
「あんたねぇ! 今日はディナー前の休憩時間に姪っ子が尋ねてくるから店を空けるなよって、あれ程言っただろうが!」
「あれ、そうでしたっけ。」
厨房に立つ料理長と思しき恰幅の良い男性にオーナーと呼ばれた飯島は、豪気な態度で男性の頭に拳骨を飛ばす。となれば、佐倉がアルバイトの面接を受けるために訪れた職場というのは、叔母である飯島の経営するこのレストランだったと考えるのが妥当だ。そして私は、自身の壮絶な勘違いに薄々気が付き始めていた。
「叔母さん、さっき私がここに来た時、誰も居なくて鍵も掛かってなかったから中に入ったの。そしたら大量の血と骨が──」
「悪かったねぇ。
飯島の拳骨が、再び男性シェフの頭上に飛来する。
「ちょっと煙草吸いに外に出てただけっすよ! 数分もしないうちに戻って、すぐに片付けたんですから! 大体、こんなに厨房を滅茶苦茶に汚したのはオーナーじゃないですか!」
「滅多なこと言うんじゃないよ。犯人はこっちさ。」
そう言って飯島に背中をばしばしと叩かれたのは、なんと暁優だった。
「どういうことなの、あなた……?」
事件の犯人に指名された暁優に対して、昌は怖ず怖ずと尋ねる。
「ここまで来たら誤魔化せないよ。大人しく種明かししちまいなさいな。」
「で、でも飯島さん──」
「鈍い男だねぇ。奥様を不安にさせるためにやってきたことじゃないだろうが。背に腹は代えられないよ。」
「わ、分かりましたよ……。」
諦観の果てに漸くその重い口を開いた暁優から伝えられた内容は、私にとっても意外なものだった。
「なあ昌、来週はお前の誕生日だろ?」
「う、うん……。」
「いつも店を手伝ってくれて、家では毎日美味しい料理を作ってくれてるお前のために、実はささやかながらサプライズを用意してたんだ……。」
「サプライズ……?」
結論から言って、暁優の不倫疑惑は無用な取り越し苦労だった。彼は晴れて誕生日を迎える妻に日頃の感謝を伝えるため、昌の好きな魚料理を振舞うために料理の練習に励んでいたのだという。突然自宅で練習をしたいと言い出してもサプライズにはならないので、わざわざ3駅離れた場所にあるレストランの厨房を間借りしていたのだとか。
「私はこいつの同級生で、古くからの腐れ縁でね。久々に連絡してきたかと思ったら、突然『料理を教えてほしい』だなんて言うから、仕方なく手伝ってやったのさ。」
「飯島さんのレストランは、かのミシュランガイドに掲載されるほどの有名店なんだよ。最初は門前払いだったけど、根気強く事情を説明したら渋々練習に付き合ってくれて──」
「そこは『快く時間を割いてくださった』とか、お世辞でも言えないのかい!」
重苦しい雰囲気を払拭するようにわざと冗談を言ってみせる飯島と暁優を交互に見遣って、昌は答え合わせをするかのように1つずつ確認する。
「あなたが普段使わない香水を使うようになったのは──」
「魚は
「おい。」
飯島が不満そうに暁優の尻を叩く。
「じゃあ、金遣いが荒くなったのは──」
「それはほら、練習に付き合ってもらうだけでなく、食材まで無尽蔵に使わせてもらうのはあまりにも厚かましいだろ? せめて費用だけは僕が出さなきゃ面目が立たないと思って……。」
「偶に結婚指輪を外してたのは──」
「そう言われれば、水回りの作業も多かったから、外したことをすっかり忘れてたまま家に帰ったこともあったかもしれないな……。」
「『夕食は外で済ませた』って言って、私の料理に手を付けなかったのは──」
「練習の過程で生まれた大量の失敗作を自分で消費しなくちゃいけなくてね……。飯島さんは一切食べてくれないから、家に帰る頃にはすっかりお腹一杯になっちゃって……。」
予てから山積していた全ての疑問を解消することができた昌は、正面から暁優を抱き締めると、絶望の底から救われた安心感によって静かに泣き出してしまう。
「ど、どうしたんだよ昌!?」
「私、てっきりあなたが不倫していたんだとばかり思って……。」
「え、えぇ!?」
「今更気付いたのかい。こっちはあんたみたいな男と一緒に疑いの目で見られて、堪ったもんじゃなかったよ。」
今の今まで自分に不倫の容疑が掛かっていたことなど露程も知らなかった様子の暁優に対して、飯島は呆れたように吐き捨てる。そして、安堵の表情を見せていたのは昌だけではなかった。
「なーんだ。私はてっきりレストランを荒らした不法侵入者でも居たのかと思って……。」
「誤解を招いたみたいで悪かったね。話してきた通り、うちの店にそんな犯罪者は居ないよ。安心して頂戴な。」
「本当に肝が冷えましたよ……。あ、そうだ──」
佐倉はほっと一息吐いてから、思い出したようにスマホを取り出して何処かに向かって電話を架けた。すると、再び事務所の固定電話からベルの音が響き渡るので、私はソファから立ち上がって急ぎ受話器を耳に当てる。
「あっ、探偵さん! さっきはすみません、事件は私の勘違いでした!」
私たちが昌に貸し出している通信機器から全ての事情を把握していることなど当然知らず、律儀にも連絡を寄越してきた佐倉に対して、私は顔を引き攣らせながら何とか言葉を紡ぐ。
「よ、良かったですね。猟奇殺人なんて起きてなくて……。」
「殺人……? 何のことですか?」
「いや、だって骨や内臓が散乱してたって──」
私は既に自分のとんでもない心得違いの正体に気付いたものの、念のため敢えて知らないふりをして佐倉の口から説明を求める。
「そう言えば、事件現場の詳細について私が言いそびれてたからか……。死体っていうのは、全部魚のものですよ。捌き方が乱雑だったから、血肉が至るところに飛び散っていたみたいで。でも、砕かれた骨やあらは寸胴に沢山入ってたから、後で出汁でも取るんでしょうね。肉の部分については、既に食べられてしまったから無くなっていたということらしいです。」
「はぁ……。だったら、厨房荒らしが居るかもしれないと分かった時点で警察に通報しなかった理由は?」
「私が将来働くことになるかもしれない叔母さんの有名店で事件があったと通報して、経営を妨害することになったら居た堪れないですし、大量の魚が無駄になっただけですぐに警察を呼ぶほどの緊急性はないかなーと……。血塗れで物凄い異臭だったので、流石に私も気が動転して大袈裟に話を誇張していたかもしれませんが、殺人があったと言った覚えは──」
「そうですね、完全に私の早とちりでした……。とにかく、何事もなかったようで安心しました。」
どうやら先入観に踊らされるまま事態の全容を見誤っていたのは昌だけではなかったようで、私と堅慎は一連の騒動にまんまと騙されてしまったらしい。何はともあれ、不幸な結末を迎える人間が誰ひとりとして居なかったということは、大変喜ばしいことだ。
「よし、あんた。折角奥様もこの場に居るんだ。食材も十分に買い足してきたことだし、今この場で全員に練習の成果を見せてやりなよ。今日は早めに店を閉めてやるからさ。」
暁優が両手に携えたビニール袋を指差して、飯島は突飛な提案をする。
「飯島さん、無理ですよ!? 僕程度の腕前でいきなり本番だなんて、また床一面に魚の血溜まりを作るだけですって!」
「情けないこと言うんじゃないよ。この場に居る全員、元はと言えばあんたに振り回されたんだ。その詫びだと思って、一際豪華なディナーを拵えてみせろ。仕方ないから、私が直々に手伝ってやるよ。」
安藤夫婦の誤解は解け、佐倉が直面した惨状に犯罪性はなかったことが分かった。和気藹々とした雰囲気の中で、飯島含む4名は仲直りのディナーを楽しむそうなので、私たちはこれ以上の盗み聞きも野暮かと思い、ノートパソコンを閉じて昌との連絡を遮断した。
「良いのか心美。まだ報酬の話が済んでないけど……。」
「これで良いのよ。あんな空気の中で、お金のことなんて言い出せる訳ないじゃない。」
私たち探偵としては一銭の得にもならない仕事だったが、あくまでも人助けを生業としている立場からして考えれば、一片の悔いも見当たらないと心の底から断言できる。そして私も、順調に体調が回復しつつある堅慎に日頃の感謝を込めて、今日くらい豪勢なディナーを作ってあげようかと思い立ち、軽やかな足取りでキッチンに向かうのだった。
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