Ep.86 ダブルブッキング
「旦那様、流石に遅いですね……。」
「中で一体何が……。」
輪郭がぼやけた西日が燃え滾る、緋色に染まった夕焼け空を眺めて待つこと数時間──信じられないことに、尾行対象である安藤の夫・暁優がレストランから姿を現す気配は一向になかった。小洒落た装飾が施された店内で優雅なランチタイムを過ごしていた客も疎らになっていき閑散とした店の厨房では、今頃ディナーに向けて仕込みを始めている頃だろうか。少なくとも、窓から覗き込める範囲で店内に残っている客や店員は見当たらない。
「営業時間外になっても戻ってこないとは。正面玄関以外に出入口はないはずですが。」
「まさか、気付かないうちに見逃してしまったのでしょうか……。」
「それはあり得ないかと。私も監視に集中していましたから。」
加えて、私の隣でベッドの縁に寄り掛かりながらもカメラの映像を凝視して、暁優がレストランから顔を出す瞬間を待ち続けてくれた相棒の目もあった。
「なあ心美、もしかして昌さんの存在に勘付かれたとかじゃ……。」
「その可能性も限りなく低いでしょうね。細心の注意を払って見ていたけど、対象は尾行を警戒する素振りなんて一切見せなかったでしょ。それに──」
レストラン前の通りの端に寄って暁優を待ち構えている間、昌には改めて身形を整えてもらった。日傘は太陽が沈むにつれて不自然になるので近くのコンビニの傘立てを拝借し、リバーシブル仕様のバケットハットを裏返して紺色から夕映えに溶け込むような橙色に。最後にカーディガンを脱いでサングラスを付け直したら、シンプルで若々しく涼し気な格好は、もはや先程までとは別人だと言っても過言ではない。
ここまで周到に変装を拵えているのだから、彼女の正体が看破されるかもしれないという懸念は、その相手が例え長年連れ添った夫と
「安藤さん、ここまでお付き合い頂いたのに何の成果も提供できず
「とんでもないです。元より失敗も覚悟の上だったので、お忙しい中親身に対応してくださった貴方には感謝しかありません。また後日改めて、よろしくお願いします……。」
昌は落ち着き払った態度で建前を崩さないが、小型カメラ越しに見たオレンジ色の夕陽を反射するレストランの大開口窓に映った彼女はあからさまに肩を落として、今日の努力が徒労に終わったことに落胆している様子だった。とはいえ、急いては事を仕損じるというように、焦燥感は調査活動に綻びを生じさせる。それに依頼人である昌には、帰宅後も重要な任務が残っているのだ。
「釈迦に説法かとは思いますが、念のため。家に帰って旦那様と顔を合わせても、どうか普段通りを心掛けるようにしてくださいね。『今日は何処に行っていたのか』と、それとなく探りを入れてみるのも良いですが、旦那様が嘘を吐いたり、返答に窮したりしたとしても、詰問してはいけません。あくまでも、自然体を装うように。」
「肝に銘じておきます。本当にありが──」
──ジリリリ……。
刹那、昌との会話に集中していた私の耳には、扉を隔てた廊下の奥から、リビングのデスクに置かれた固定電話から鳴り響く呼出音が微かに届いたような気がした。そこで、一緒に彼女の話に耳を傾けていた堅慎へ視線を送ると、どうやら聞き間違いではなかったらしく、彼は私の意図を汲み取るようにこくりと頷いてベッドから立ち上がり、覚束ない足取りで寝室を出て行った。依然として感染症の猛威に悶え続ける彼に電話対応を任せてしまうのは気が引けるが、昌との会話を中断させる訳にはいかないため、致し方ない。
「それでは、次回の日程調整を。旦那様と経営していらっしゃる古着屋の定休日は火・土曜日と仰っていたかと存じますが、また4日後に調査再開ということでよろしいですか。」
「問題ありません。よろしくお願いします……。」
「こちらこそ。何か不明点や新しく分かったことなどがありましたら、遠慮なくご連絡くださいませ。本日使用した電子機器の充電は、くれぐれもお忘れなきよう。」
来たる土曜日、尾行調査の仕切り直しを約束して昌との通話を終了させる。カメラから送信されていた現地映像を数時間にわたって表示させていたためにバッテリー残量が低下したノートパソコンを閉じ、リビングで電話対応に追われているであろう病人を助けに行こうとベッドを飛び出て、寝室の扉を開けようとした。
「きゃっ……!」
「うわっ、すまん心美……。」
ドアノブに手を掛けた途端、凄まじい勢いで寝室へと戻ってきた堅慎と鉢合わせたことに驚き、情けなく悲鳴を上げて
「ごめんなさい、ちょっと
私の問いに対して、堅慎は決まりが悪そうに視線を宙に泳がせながら答える。
「それが……。俺は自分が果たして正気なのか、自信がなくなってな……。」
自嘲気味に告げられた堅慎の話によると、突如として事務所に架かってきた電話の相手方は原因不明のパニック状態に陥っているようで、一方的に捲し立てられた内容は熱に浮かされた彼の脳が処理可能な範疇を越えているらしく、急遽保留中にしてあるという。一体何事なのかと気を砕きつつ、只事ではなさそうな雰囲気を醸している通話相手を待たせないよう足早にリビングに向かって受話器を手に取った。
「お電話代わりました。岩倉探偵事務所です。」
私は今度こそ、詰まることなく恋人の氏を冠した我が事務所の名を伝えることができた。口元が緩んでしまう緊張感のなさは相変わらずだが、他でもない堅慎が心配そうに私の方を見つめているので、持ち前の克己心によって表情筋を引き締めようと努める。しかし、そんな私の心境など露程も知らない通話相手による突拍子もないの発言の内容に、死角から後頭部を殴られたかのような予想外の衝撃を受けた。
「助けてください! ち、血が──」
「はっ、え……?」
「辺り一面血塗れなんです! 饐えた臭いが充満して赤黒く染まった包丁が落ちていて──」
「お、落ち着いてください……!」
何やら切羽詰まった事情がありそうだということは予め聞き及んでいたため、心構えを万全にして電話を引き継いだは良いものの、相手方から並べ立てられた物騒な単語の羅列に圧倒されて、結局堅慎と同じような反応を返すことしかできなかった。
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