Ep.85 清廉潔白

 今朝方まで降り続いていた雨が嘘のような快晴のもと、遂に尾行調査の火蓋が切られた。曲がり角の多い閑静な住宅街を堂々と闊歩する夫の不倫を疑って、我が探偵事務所に依頼を持ち掛けてきた張本人・安藤昌と綿密にコミュニケーションを取りながら、小型カメラによって現地から送られてくる映像を頼りに遠隔地で孤軍奮闘する依頼人へと的確に采配を振るよう心掛ける。


「水溜まりにはくれぐれもご注意を。人気の少ない住宅街を抜けるまで、こちらの存在に気付かれてはいけません。」


 昌が返事を寄越すことはない。調査対象である夫・暁優とは大きく距離を取っているとはいえ、不用意に音を立てれば自身の存在を気取られるリスクを徒に高めることになるからだ。私もそれを承知の上で、一方的に指示を続ける。


「対象を見失わないためにも、直線では一定の間隔を保ちつつ、旦那様が角を曲がるなりして進路を変えたら透かさず歩調を速めて、常にカメラの画角へと姿が映るようにしてください。」


「……。」


「旦那様が突然振り返ることも想定しつつ、視線は足元の方へ。日傘と帽子でうまく顔を隠して、できる限り存在を認識されないように。」


 そもそも尾行調査は、本来たった1人で行うには歴戦のベテランであっても相応のリスクが伴う。なぜなら、時間が経過するほど、尾行者の容姿が対象者の深層意識に印象付けられる危険性が徐々に高まっていくことは避けられないからだ。また、不審な立ち振る舞いをすることによって道行く警察官に職務質問をされたり、突然尿意を催したりといった不測の事態に対応することが極めて難しいということもある。


 以上の諸問題は調査の成り行きにもよるため、運任せな側面があることも否めない。しかし、そのリスクを最小限化するための知識や経験を持った私たちがサポートに回っているという点で、安藤は必ずしも本当の意味で1人ではない。


「心美、見ろ……。」


 逐一PCを操作して画角を調整している堅慎に促されるまま、改めて液晶に集中する。すると、大手を振って肩で風を切りながら歩く暁優の後ろ姿を映したカメラの背景が、無機質な灰色のコンクリート壁から、淡緑の若葉が茂る背の高い街路樹が規則正しく等間隔に並ぶ大通りへと切り替わった。


 思えば、今日は平日だ。付近に大学でもあるのか、私たちと同年代の男女が通りを埋め尽くして、スーツ姿のビジネスマンが都会のビル群の隙間を縫うように、スマホ片手に忙しなく駆けずり回っている。通行人は目に見えて増えたので、先程と同じように尾行を続ければ簡単に対象を見失ってしまうだろう。


「安藤さん、止むを得ません。ここは勇気を持って、少しずつ距離を詰めてください。」


「了解です……。」


 交通量の多い大通りに出たことで、歩行者用信号機から鳴り響く電子音と片側4車線にも及ぶ大きな車道をひた走る車の往来によって掻き消されるので、昌は不安や緊張が滲ませながら絞り出すように声を発した。何食わぬ態度で一定のペースを守りながら人波に飲まれていく暁優に追いつくべく歩度を速める彼女の動きに合わせて、堅慎は慌ててカメラのピントを合わせようと試行錯誤している。


 仕事前に病院から処方された解熱剤を服用していた堅慎だが、その息遣いは決して穏やかなものではない。高熱に喘ぐ彼の苦悶に満ちた寝顔を横目に目覚めた朝、今回の仕事は私1人で完遂すると何度申し出ようとしたことか。しかし、オンライン上で探偵依頼を受注すると言い出したのは他でもない堅慎自身であるため、来たる初仕事に発案者としての責任を感じているであろう彼に対して、どうせ何を言っても「参加する」と言って聞かないのは、何年も生活を共にしてきた昔馴染として火を見るよりも明らかだった。


 実際、いくら遠隔地からの調査とはいえ、私だけではこの仕事は手に余る。小型カメラに映る対象者の一挙手一投足を注意深く観察して尾行者である昌に的確な命令を下しつつ、いつ訪れるのかも分からない決定的瞬間を押さえるために片時も集中力を切らさず、いつでも証拠保全できる態勢を整えておく必要があるのだ。こんな時、助手として私とは異なる観察眼を持ち、忍耐強く物事に対応できる堅慎の存在は、この世の何よりも心強い。


「安藤さん、もう十分です。大通りを歩いているうちは付かず離れずの適切な距離を保ったまま、旦那様の靴を目印に後を追ってください。また、すれ違う通行人に日傘をぶつけないよう十分ご注意を。」


「……。」


 人混みの中、対象まで約3メートルの位置まで詰め寄った昌は、再び沈黙を貫く。目深に被ったバケットハットによって視界の上半分が隠れていることを予想して、彼女には暁優が履いている白いスニーカーを頼りに歩いてもらう。また、万が一すれ違いざまに他人へと日傘を当ててしまえば、迂闊に声が出せない彼女では咄嗟に謝罪の言葉を紡ぐことも難しく、あらぬ因縁を付けられて時間を浪費する可能性すらある。通りでの尾行は、より慎重を期するべきだ。



 §



「なあ心美、もしかして……。」


「えぇ。想定してたことだけど、拙いことになったわね……。」


 程なくして暁優が向かった先は、ビジネスマンや学生連中による人波の源流として活況を呈している電車の駅だった。公共交通機関による移動は想定の範囲内であり、昌には事前に交通系ICカードへの入金は済ませておいてもらったため、スムーズに改札を通り抜けることができる。とはいえ、電車の狭い車両では対象者の視界から外れ続けることはできないため、正体が発覚するリスクも相当に高まる。望ましくはない状況だ。


「旦那様とは必ず同じ車両に乗り込んでください。出来る限り離れるよう努力して頂きたいところですが、人の多い車内で無理に移動しようとすればかえって目立ちます。成り行き次第で、適当な場所に止まってください。」


 詮方せんかたなく日傘を閉じて駅構内へと歩を進め、暁優の向かうままホームに降り立った昌へと、私は念には念をと詳細な説明を繰り返す。彼女は私の指示に従って、スマホを弄りながら電車を待つ暁優の1つ隣に位置する乗降口に立ち竦む。そこからは、流石に特注の高性能カメラといえども対象の姿を捉え切ることはできない。不安は残るが、辺りを見回すなど不審な行動は控えるようにと言い添えてから、電車の到着を今か今かと待ち構えた。



 §



「っ、旦那様が降りるみたいですよ。」


 安藤夫妻の自宅から暫く歩いて辿り着いた最寄り駅から3駅ほど離れたところ、到着の車内アナウンスと同時に身体の向きを変える暁優の動きを見て、私は昌に降車の準備を促す。


 結局運の良いことに、昌は夫の乗り込んだ車両に1つだけ空席のままだった角のスペースに座ることができた一方で、肝心の暁優は背を向けるようにして、その反対側の座席の吊革に掴まっていた。駅に近づいて減速する車内で、間もなく開くであろうドアの方へと暁優が歩み寄ったことを確認してから、気配を殺すように鳴りを潜める昌もそっと立ち上がったために、カメラの視点が再び高くなった。


「複数の路線が乗り入れている訳でもなく、乗降者数も少ないな。暁優さんは、一体何処に向かってるんだ……。」


 不思議そうに首を傾げて動向を見守る堅慎の疑問は全くその通りだ。乗換目的の降車という訳でもなく、ただ純粋にこの駅付近に用があるということか。あるいは、不倫相手との待ち合わせに人目を避けれる閑散とした場所を意図的に選んでいるのかもしれない。もしそうなら、調査活動初日にして、決定的な証拠を得ることができよう。


「バスやタクシーを利用する訳でもなさそうね。目的地は近いのかも。」


 暁優は迷いなく改札を抜けて、軽々とした足取りで再び歩き出した。昌はこれまで日傘を差した状態で姿を見られることはなかったため、再び傘で正体を隠しながら大きく間隔を空けて尾行を再開する。


 気付けば時刻は正午を迎え、青空を力強く照らす太陽は頂点に達して燦然さんぜんと輝きカメラに反射するので、私は思わず眉を顰める。そもそも日中に外出することが一般人と比較して極端に少ない私は、日の光を浴びることもほとんどない。加えて、眼球の虹彩に色素がないアルビノ故、私は画面越しに見る僅かな太陽光によっても羞明状態を引き起こしてしまう。全く以て、不便な身体だ。


「あ、主人が……!」


 目が眩んで私が映像を直視できていなかった間に何か動きがあったのか、安藤は少し大きな声でリアクションを伝える。


「暁優さんが建物に入っていったみたいだ。念のため写真も撮っておいたぞ。どうする心美。」


 私に代わって状況を見ていてくれた有能な相棒から聞いた情報を基に、昌に次なる指示を与える。


「まずは慎重に近づいて、何の建物なのか確認させてください。カメラのズーム機能の射程まで歩み寄って頂ければ、後はこちらの方で。」


 そう告げるが早いか、昌は夫が自分に隠れて休日をどのように過ごしているのか、誰よりも心配している様子で慌てて暁優の行方を追う。すると、ズームインによって少し解像度が低下したカメラに飛び込んできたのは、洗練された白一色の外壁にグリーンカーテンが彩る美しい外観の広々とした平屋建てだった。屋外用のガーデンパラソルが付属したテーブルセットが並んでいるところを見るに、飲食店の類だろうか。昼時ということもあって、主に女性を中心として客入りも好調なようだ。


「随分と洒落たところだな。女性に人気のレストラン──不倫相手との待ち合わせには打って付けって訳か……。」


 堅慎の述べた所感については、私も完全に同意するところだ。外壁に取り付けらえた大きな窓から僅かに覗き見ることができる開放的な店の内装や品位ある客の身形から推察するに、ここは中々に気合の入った高級店のようである。暁優が異様に小奇麗な身嗜みをしていた理由も、この店に入るためだったと言われれば納得できる。


 そう言えば私も年初めの温泉旅行の帰り際、堅慎に似たような高級レストランに連れて行ってもらったときは、胸のときめきが抑えきれなかったものだ。世の女性らが私と同じような感覚を持っているのだとしたら、意中の男性にこのような場所へと連れられて喜ばないはずもなかろう。


「安藤さん、外から旦那様の姿が確認できないか試してみるので、窓が映せる場所まで移動してください。」


「分かりました……。」


 昌自身も何かを察しつつあるのか、意気消沈としたか細い声で機械的な返事を寄越して、建物の正面へと足を運ぶ。すると、堅慎が画角を調節して、燦々と降り注ぐ太陽の温かい光を取り込んでいる窓へとカメラを向けた。


「暁優さんの姿はなさそうだな……。奥の方に案内されたのかもしれない。」


 ガラス張りの窓と地面の水溜まりに乱反射する太陽光によって画面を直視できない私に代わって、堅慎が詳しく状況を説明してくれる。しかし、大きな観葉植物と外壁に囲まれた店内の様子は、建物を大きく回り込んだとしても確認することは困難だろう。ここは根気強く、暁優が不倫相手と店を出てくるタイミングを待ち続ける他ない。私は探偵として、ありのままを昌に伝えた。


「それはつまり、ここで主人が出てくるまで張り込みを続けるということですか……?」


「そうです。尤も、安藤さんの希望次第では今日の調査は打ち切って、日を改めるということも可能ですが、如何でしょう。」


 私の問いに対して、昌は一切の迷いもなく答えた。


「私には、この疑念を抱えたまま大人しく家に帰って何食わぬ顔で主人の帰りを待ち続けるなんてこと、絶対に出来ません。ご迷惑をお掛けしますが、是非ともやらせてください……!」


「勿論です。安藤さんの勇気あるご決断を尊重致します。」


 確固たる決意を胸に続行を宣言した安藤と共に、私たちは暁優に対する素行調査の佳境を迎えようとしていた。しかし、ありきたりな痴情のもつれに過ぎないと考えていた依頼はこの後、千軍万馬の名探偵を名乗る私たちですら想定の埒外と言わざるを得ないような方向に展開していくことになる。

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