Ep.84 遠隔素行調査
明日の朝まで全国的に雨が降り止まないことを伝える夕方のニュース番組を横目に、機械的な電子音と共に停止した洗濯機から溜まった衣類を取り込む。我ながら手際良く一通り家事を終えると、寝室のベッドの上に横たわって退屈そうに欠伸をしながら、普段は絶対にやらないようなスマホゲームに興じている病人に声を掛ける。
「あらら、辛気臭い顔しちゃって。」
「仕様がないだろ。スパイとの対決で何度も死にかけて、死ぬほど辛い熱に罹ったかと思ったら、今度は暇で死にそうだ。」
呆然と液晶画面に指を滑らせる堅慎の額に手を当てると、今まで水気を吸った洗濯物を部屋干ししていたため冷たくなった自分の掌との温度差によって、尋常ならざる熱気をより鮮明に感じる。冗談
「庭の植物に水遣りしてくれたか?」
「今夜は一晩中雨が降るらしいから、必要なさそうだったわよ。」
「そっか。じゃあ、後は安藤さんから直接連絡が来るのを待つだけだな。」
ゲームに夢中で生返事をする堅慎の態度に不貞腐れた私は、強引にスマホを取り上げて後ろから彼の背中に抱き着いて顔を埋める。
「なんだよもう。」
「私、朝から結構頑張ったんですけど。」
「あ、ありがとう……?」
「それだけ?」
当惑の表情を浮かべながら寝返りを打ってこちらを見た堅慎に対して、
「全く、意外と子供っぽいところあるんだよな心美は……。」
「つべこべ言わない。仕事前の充電でもあるんだから。」
そうは言うが、朝早くからてきぱきと身の回りの雑事を熟していたために、私の身体には一気に疲労感が押し寄せてくる。堅慎の体温が伝わったベッドシーツの温もりが心地良く、壊れ物を扱うかのように私を包み込んでくれる彼の腕に身を委ねて目を閉じれば、すぐにでも夢の世界へと落ちていってしまいそうだ。
「心美、携帯鳴ってるぞ。」
「っは……!?」
危なかった。眠らないよう気を付けねばと考えながら、私はいつの間にか意識を暗闇へと手放しかけていたらしい。事務所の固定電話ではなく、私のスマホに電話が架かってきたということは、配達物に同封した私個人の連絡先が無事に安藤のもとへと渡ったことを意味する。軽快な着信音と共に振動するスマホをポケットから取り出して、堅慎にも聞こえるようにスピーカー機能をオンにしてから着信ボタンをタップする。
「もしもし。安藤さんですね。」
「はい、送って頂いた荷物を受け取って、家に戻ってきました。」
「この電話、旦那様に聞かれてしまう可能性はありませんか。」
「主人はいつもこの時間は店仕舞いの作業をしていて、私は先に帰って夕食の支度をするというのが我が家の習慣なんです。だから今、家には私ひとりです。」
それならば、会話を盗聴される心配はなさそうだ。今ここで、安藤の夫の素行調査に関する詳細を説明しても大丈夫だろう。
「安藤さん。既にご存じの通り遠隔地からの調査依頼ということで、貴方のお力添えは不可欠です。それ故、周到な計画のもとに万全を期して事に当たらなくてはなりません。ご承知おきを。」
「は、はい。」
「まず、旦那様の行動パターンを分かる範囲で教えてください。決まって何曜日に出掛けるとか、帰宅時間は大体何時であるとか。」
「それなら、確実なのは店の定休日にしている火曜日と土曜日です。昼頃に家を出たかと思えば、帰宅時間は早くとも夜の9時くらいで……。一応夕食の支度をして待っているのですが、いつも『外で食べてきた』と言って、一切手を付けないんです……。」
なるほど、予想以上に具体的な情報が判明しているようで助かる。しかも、都合の良いことに明日は丁度火曜日だ。
「安藤さんのご予定次第では、早速明日にも調査に乗り出すことができそうですが、如何でしょうか。」
「えぇ、明日は特に何も……。」
これまた随分と好都合だ。もしかしたら、明日にも安藤の夫が不貞行為に及んでいるという証拠を入手して、依頼を達成することができるかもしれない。
「でしたら、最低限安藤さんの調査活動が旦那様に勘付かれないための工夫については、話を詰めておきましょう。」
「私は、どうすれば良いんでしょうか……?」
「例えば、こんなのはどうでしょう。」
安藤の夫が約半日にわたって家を空ける古着屋の定休日──火曜日と土曜日に、安藤自身もアウトドアな趣味を見つけたと偽って外出の口実を作るのだ。昼前には自宅を出て物陰から玄関を張り込み、夫の出立と同時に背後から尾行して行先を特定すると共に、あわよくば不倫現場を抑えることができれば重畳だ。
「あまりにも唐突に安藤さんの様子が一変すれば、貴方が旦那様の不倫を疑ったのと同じように怪しまれてしまうでしょう。もし収穫が得られなかったとしても、旦那様の帰宅時間である9時を迎える前には調査活動を打ち切って家に帰り、普段通りを装って夕食の支度をするようにしてください。」
「でも、私自身が夫の目を欺いて跡を付けるなんて、できるでしょうか……。」
「尾行中は小型カメラとヘッドセットを通じて、リアルタイムで指示を飛ばします。失敗はあり得ませんので、大船に乗ったつもりで堂々とした態度を心掛けてください。不安や緊張を抱えていては、かえって目立ってしまいます。」
安藤自身は、ただ私たちの指示に従って、尾行対象である夫に気付かれないように背後から後を追うのみで良い。私たちは一部始終を小型カメラを通じて観察しながら安藤を動かし、彼女の夫に掛けられた疑いの真偽を確定させるための証拠保全を行うのだ。
「一先ず、お送りした機材の動作確認を致しましょう。カメラの電源を入れて頂いても良いですか。」
「はい、少々お待ちを……。」
我が探偵事務所から安藤に貸し出す形で郵送した小型カメラは、監視カメラよろしくインターネット環境さえあればリアルタイムの映像を何処でも映し出すことができる、所謂ネットワークカメラと呼ばれる代物を小型軽量化して持ち運びできるようにしたものだ。加えて、画角の調整や拡大・縮小もこちら側で自由に操作できる。ノートパソコンを開いて専用のソフトウェアを立ち上げると、安藤の部屋の様子が鮮明にPCの画面へと表示された。どうやら、うまく機能しているようだ。
「大丈夫です。背面にピンが付いていると思いますので、明日は家の外に出た後すぐに鞄や衣服の目立たない場所にカメラを取り付けてください。」
「分かりました……。」
「続いてヘッドセットを。そちらはBluetooth対応のワイヤレス機器となっておりますので、説明書の手順に従ってペアリングを。」
数分後、安藤のスマホとヘッドセットの接続も滞りなく完了した。これで当日は通話中にわざわざスピーカーを耳元に当てる必要もなく、情報伝達もスムーズに行える。手筈は整ったという訳だ。
「完璧です。そちらも家を出るまでは決して身に着けないよう隠し持っておいてください。」
§
来たる翌日、雨上がりの青空に浮かぶ太陽が水溜まりに反射して初夏の訪れを感じさせる麗らかな正午前、仕事に備えて早めの昼食を済ませた私は、堅慎と共に寝室のベッドの上に折り畳み式テーブルを広げてノートパソコンを置いて準備を整える。
「いよいよね。安藤さんへの指示伝達は私がやるから、堅慎は適宜カメラの調整と証拠収集をお願い。」
「あぁ、任せろ。」
程なくして、タイミング良く安藤からの着信を受け取った私はスマホのボタンを押した。
「もしもし、聞こえていますか?」
「大丈夫です。」
片耳だけに装着するタイプの小型ワイヤレスヘッドセットからの通話であるため、時折風音などのノイズが走るものの、意思疎通を図る分には問題なく動作しているようだ。ノートパソコンの画面上には、都会の高級感溢れる集合住宅が密集した街並みが映し出され、安藤の自宅近辺の風景であることが窺える。
「まずは旦那様と鉢合わせないように、場所を移しましょう。安藤さんのご自宅はどちらでしょうか。」
「あそこです。」
少し視点の低いカメラが向いた先は、一際大きな高層マンションだった。存外に裕福な家庭なのだろうかと邪推が働くも、今そんなことはどうでも良い。全面ガラス張りのエントランスに浮かび上がる安藤本人と思しき細身の中年女性の人影を、まずはじっくりと観察する。
目元を覆い隠す紺のバケットハットにサングラス、シンプルなグレーのシャツにデニムパンツを合わせて黒のカーディガンを羽織った立ち姿は、洒落た外見と機能性を兼ね備えていて実に自然だ。そこに日傘を差していれば、その正体を看破することは如何に親密な間柄においても至難の業だろう。
「変装は万全のようですね。この気温ですから、マスクは逆に不自然ですので外して頂いても構いませんよ。」
「分かりました。」
アルビノとして生を受け、探偵を
「では、その場で1回転して頂けますか?」
「え? はい……。」
戸惑いながらも私の指示に応じた安藤の動きに合わせてゆっくりと視点が一周すると、真っ赤な花を咲かせている低木の植え込みに囲まれた大きな公園が目に入る。
「安藤さん、そこの公園に入ってベンチに座って、旦那様が出てくるまで待機しましょう。」
公園の中のベンチに座った安藤の視点からは予想通り、夫妻の住まう高層マンションの玄関周辺が植え込みの隙間から覗き見ることができた一方で、外からは角度的に公園の中の様子が分かり辛かった。仮に安藤の夫がマンションを出て公園の方へと向かって来たとしても、彼女の正体が割れる心配はないはずだ。
「ところで、旦那様にはどのようにして外出の口実を?」
「それでしたら、近所にヨガ教室を開いている友人がいるんですが、彼女に頼んで、私もヨガを始めたことにしてもらったんです。」
「そのご友人と旦那様はお知合いですか?」
「冠婚葬祭とか、何かの場面で顔を合わせたことくらいはあったかもしれませんが、特に親しい関係という訳では……。」
ならば、告げ口など情報漏洩の心配はないか。依頼人と調査対象者の双方に共通の知り合いが介在する場合、その者がどちら側につくかによって依頼の成否に関わることが往々にしてある。有り体に言えば、依頼人がどれだけ信用に足る人物だと思って第三者に協力を申し込んだとしても、その相手にとって調査対象者の方が親密な関係にあった時、容易に裏切りが発生し得るのだ。とはいえ、今回はそれも杞憂だろうか。
「分かりました。帰宅後に旦那様からヨガの体験について感想を求められるなどの可能性もあるかと存じますので、適当な言い訳も考えておいてください。」
「その点については抜かりありませ──」
刹那、安藤の声が前触れもなく途切れてしまう。
「もしもし? どうかされましたか?」
通信機器の不具合かと、慌てて応答を求めると、PC画面に表示されているカメラの映像が大きく揺れ動く。
「き、来ました! 主人です……!」
一際小さな声で囁くように告げられる安藤の言葉に合わせて、堅慎が急いでPCを操作してカメラをズームインさせると、半袖半ズボンに高級そうな腕時計をして、向かい風にも揺らがないほどに固められた中分けの短髪が印象的な、涼し気で清潔感のある中年男性が現れた。依頼人・安藤昌から得た事前情報によると、彼こそが彼女の夫・安藤
「堅慎、一応スクリーンショットを。」
「分かった。」
手際良く尾行対象を鮮明に捉えた静止画を保存する相棒を余所目に、私は動揺を隠せない安藤に対して勇気付けるように宣言する。
「さあ安藤さん、尾行調査の開始です!」
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