不倫と死体

Ep.83 特殊な初仕事

 迎えた翌日、梅雨時を間近に控えた初夏の蒸し暑い彼者誰かわたれ時の事務所内にて、私は温かいジャスミン茶のかぐわしい香りをたしなみながら、日頃から堅慎に任せきりにしていたデスクワークに追われていた。


「事務作業も楽じゃないのね……。」


 起立して大きな欠伸をひとつ、引き絞られた弓のように背中を反らして伸びをしながら、気分転換に窓の外を眺める。気の沈むような灰色の曇り空は何処までも果てしなく広がり、小糠雨こぬかあめが氷晶のようにしとしと舞い落ちる。通りで今日は髪がうまく纏まらない訳だ。


 この陰鬱な空模様を除けば、今日は何の変哲もない、いつも通りの1日だ。湿気で膨張する髪をくしけずって、多めにヘアオイルを纏わせる。座りっぱなしも飽きてきたところなので、未だ目覚める様子もない堅慎のため、朝食の用意でもしておこうかと思い立った──その時だった。


 ──ジリリリ……。


 まるで時空が切り離されたかのように物音ひとつ立たないリビングで過ごす静謐せいひつなるひと時の中、デスクに置かれた固定電話の呼出音が部屋全体に木霊する。我が家に電話が架かってくることなど滅多にないものの、そう言えば昨日から事務所のホームページ上に電話相談の募集を掛けたばかりだ。まして、こんな朝早くから探偵事務所に用がある者など、仕事の依頼を置いてあり得ないだろう。宣伝の効果が早くも表れたことに確信を得て、内心で歓喜と興奮の渦に包まれながら、透かさず受話器を取り努めて冷静に声を発する。


「はい、茉莉──」


 おっと、いけない。私は有名探偵・茉莉花としての素性を隠すため、対外的には堅慎の苗字を借りて「岩倉探偵事務所」との看板を掲げている。相棒である堅慎との間においては当然のように「茉莉花探偵事務所」と呼称しているため、そのことを危うく忘れかけていた。


「岩倉、探偵事務所です……。」


 それにしても、電話口で赤の他人に向かって恋人の苗字を口にする日が来るとは。何だか夫婦になったみたいだと他愛ないことを意識してしまい、自然と口角が吊り上がっていくのを自覚して小恥ずかしくなる。通話相手が目の前に居なくて、本当に良かった。


「ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか。」


 そう促すと、通話相手は哀愁漂う低い声で、ぽつりぽつりと事務所うちに電話を架けてきた理由わけを打ち明け始めた。


「私の主人が、不倫をしているかもしれないんです……。」


 話の内容や声色から察するに、相手方は女性のようで、用件はやはり探偵依頼のようだ。それにしても、復帰早々の初仕事が不倫案件とは。勝手に早合点した自分の誤解だったとはいえ、つい最近まで似たような境遇に置かれていた私としては決して聞き捨てならない話だ。私は慌てて表情を引き締めて、淡々と返す。


「なるほど。詳しくお聞かせ願えますか。」


「はい。私は──」


 久々の依頼人である彼女は名を安藤あんどうあきら──大学在学中に出会った同い年のパートナーと共に、都内某所にて長年夫婦でしがない古着屋を営んできたという40代の中年女性らしい。子宝に恵まれることはなかったものの、2人は仲睦まじく苦楽を共にしてきたという。ところが、最近になってからと言うもの、夫の様子が目に見えて急変したようで、不倫を疑うに至ったそうだ。ここから都心までは少々距離がある上、素性の発覚を恐れるあまり迂闊に都会の雑踏へと近づけない私にとって、早速オンライン形式のメリットが実感できた。


「旦那様の異変について、何か具体例を挙げて頂いても?」


「主人は特にアウトドアな趣味もなく、仕事一筋に生きてきた人間でした。私もそんな彼の誠実さに惹かれていたのですが、近頃は明らかに外出が増えたんです。行先を尋ねても適当にはぐらかされ、夜遅くに帰ってきて……。」


「それは、確かに心配ですね。」


 全幅の信頼を寄せる相手が傍に居ないことの不安というものは、この身を以て知っている。安藤が夫の不審な行動を怪しむのも、生涯の伴侶を心から愛しているからこそだろう。無理はない。


「身形にも無頓着だったのに突然香水を身に纏うようになったり、金遣いも荒くなったり。極め付けには先日、主人が帰宅した時に結婚指輪をしていなかったんです……。」


 世界を震撼させる世紀の大事件や警察すら手を焼くような未曽有の大犯罪ばかりに介入してきた私でも、この手の案件を受けるのは初めてではない。そんな探偵としての経験則から考えると、正直に言って安藤の夫は限りなくクロである可能性が高い。彼女には申し訳ないが、今回は不貞行為の有無を確かめるというよりも、不倫現場を押さえて法的に有力な証拠を集める調査となりそうだ。


「ご事情拝察致します。して、1つだけお伺いしておきたいことがあります。」


「な、なんでしょうか……。」


「貴方が対面ではなく、オンラインでの探偵依頼を望む理由をお教え頂けますか。」


 私の問いに対して、安藤はゆっくりと、されど迷わず答える。


「十数年もの時を共に過ごしてきた主人の愛を疑うのですから、私も相応の責任を負うべきだと考えたからです。こちらの探偵事務所であれば、依頼人である私が主体的に調査活動を行って、結果も早く知ることができると聞きましたので……。」


「分かりました。必要な機材等は当日便で今日中にお届けできるはずですので、住所をお教えください。また、実際に調査活動を行う際は私共の指示に従って頂きますので、連絡先もお願い致します。」


 私としても遠隔地からの仕事は初めてなので不安は残るが、天才探偵として名を馳せた者として腕の見せ所だ。記念すべき初めての顧客である彼女のためにも、一肌脱ぐとしようではないか。



 §



 安藤との電話を切り、早速下準備に取り掛かる。手始めに近くの郵便局へと一報を入れ、事務所まで集荷に来た配達員へ調査活動に必要な機材が梱包された小包を手渡して、安藤のもとへ届くように手配した。万一、同居している夫が荷物を受け取ってしまわぬように届け先は安藤宅最寄りのコンビニに指定した。一通り今すべきことを終えると、寝室まで堅慎の様子を見に行く。


「おはよ心美。」


「おはようお寝坊さん。今朝の具合はどう?」


「まぁ、悪くないかな。熱は相変わらず続いてるけど……。」


「そんな堅慎にグッドニュース。実は──」


 私は今し方安藤から承った探偵依頼の内容を伝え、久々の仕事にありつけた喜びを分かち合った。


「まさか早速宣伝の効果があるとはな。やっぱり需要はあるもんだ。」


「でも、まだ油断は禁物よ。私たちも慣れない仕事だから、気を抜かずにやり遂げないと。」


 頬を紅潮させつつ得意気な表情を作る彼にコップ1杯の水を手渡して、朝の分の解熱剤を飲ませながら言う。


「しかし、その安藤さんって人も可哀想にな。ま、何処の馬の骨とも知れない探偵から『お宅の旦那様は不倫してらっしゃいました』なんて言われるより、自分の目で見て確かめた方が気持ちの整理がつきやすいかもしれない。せめて依頼人が満足いくまで、俺たちが助けてやろう。」


「そうね。素行調査の日程は、安藤さん宅に荷物が届き次第確認の連絡が来るはずだから、その際に決めるわ。おそらく夕方以降になるでしょうから、堅慎もそれまではリラックスしてて。」


「リラックスって言っても、寝たきりで特にやることないんだけどな……。」


 私はと言えば、朝から事務作業に追われた挙句、これから炊事洗濯などの家事も熟さなくてはならない。今まで文句ひとつ吐かずに毎日このような作業を続けてきた堅慎に畏敬の念を抱くと同時に、目の前で寂しそうな顔をしながら自嘲気味に言う彼が退屈しないよう、せめて話し相手くらいにはなってあげようと思った。


 

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