Ep.81 探偵事業にもイノベーションを
長湯によって逆上せてしまった頭を冷ますため、風に当たろうと庭に出る。郊外の奥まった土地に構えられた探偵事務所のリビングに続く裏口からは大きな庭が広がっていて、辺りには堅慎によって定期的に手入れされている多種多様な観葉植物が生い茂っている。その片隅には、夏に強烈な甘い香りを放って肉厚の白い花を咲かせる低木──茉莉花も植えられている。夏から秋にかけて夜中に花開く一夜花である茉莉花だが、開花時期はもう少し先のようで、蕾は未だ固く閉ざされている。
──Good night, mate.
都会の喧騒からは遠くかけ離れた事務所の庭に降り注ぐ蒼白い月影と星々の瞬きによって、深緑の葉の表面は鮮やかに艶めいている。自分と同じ名前を持つ眠れる植物へと少し気取った挨拶をして、外の空気を名残惜しむように深呼吸してから、ぱたぱたと足早に寝室へと向かって行った。
§
寝室の戸を開けて、ベッドに横たわる恋人の顔を覗き込む。沢山の汗を流しているものの、呼吸音は穏やかで寝相も良く、数時間前のように悪夢を見ている様子はない。そのことに一先ず安堵感を覚えて、彼の手を取り隣の定位置へとすっぽり収まる。シーツが擦れる音を立てながら布団に潜りこんだ私の存在に気付いたのか、彼は目を閉じたまま寝返りを打って私の背中に腕を回す。高熱に侵された彼の身体は、マザーグースの高級羽毛布団よりも遥かに温かい。
私の気配を察知して、無意識であっても必ず抱き締めてくれる彼が好きだ。けれど、羞恥心が邪魔をして自分の気持ちを正直に伝えることは中々できない。私は彼に対して、面と向かって好意を伝えたことがあっただろうか。言葉に出来ていないことで、彼を不安にさせてはいないだろうか。相手を思い遣るあまり、止めどなく複雑な感情が激浪のように押し寄せて、心臓が五月蠅い。
「ありがと、堅慎。大好きよ。早く良くなってね……。」
今はこうして、眠ったままの貴方に対してしか愛を囁けない私を許してほしい。そう思いながら、堅慎の頬に触れるようなキスをすると、心做しか彼の寝顔が綻んで私を包み込む腕に力が入ったような気がした。
§
迎えた翌朝の
いずれも堅慎直伝の手順だが、完成したジャスミン茶をカップに注いで飲んでみても、何処か違和感がある。具体的に何が違うのかと問われれば返答に窮する上、特段美味しくない訳ではないものの、有り体に言えば「しっくりこない」のだ。
「うーん……?」
やっぱり、私は堅慎の愛情が籠ったものでないと満足がいかない業突く張りと化してしまったようだ。嬉し恥ずかし、目覚めの一杯を飲み干してデスクに置かれたノートパソコンを持つと、愛しい彼の眠る寝室へと舞い戻る。
「堅慎、そろそろ診察の時間だから、起きて。」
壁掛け時計を見遣れば、既にオンライン診療の予約を入れた時間は差し迫っていたため、最低限の準備を整えなければならない。堅慎を抱き起こすために首元に手を添えると、まるで夏場のアスファルトに素肌で触れるような、凄まじい熱気を感じる。
「ここみ……。」
すると、私の呼び掛けに応じて目覚めた堅慎が苦しそうな
「具合はどう?」
「あまり変わってないな……。熱は、むしろ上がったような気がする……。」
「取り敢えず、服を脱いで熱を測って。その間に貴方の身体を拭いてあげるから。」
「分かった。ありがと……。」
私の言い付けを素直に聞き入れた堅慎は、大量の汗を吸って濡れたシャツをぎこちない動作で何とか脱ぎ終わると、筋骨逞しい上体が露わになって思わず目を奪われる。
「ここみ……?」
「ご、ごめんなさい。はい、これ。」
病人をいつまでも半裸のまま放置する訳にはいかない。私は慌てて煩悩を振り払って体温計を手渡すと、それを受け取った堅慎はゆっくりと脇に差し込む。数十秒の待ち時間に、汗みどろとなった彼の上半身を丁寧に拭っていく。新しい清潔な洋服を着せて、持ってきたノートパソコンを起動して彼の膝の上に置き、ビデオ通話アプリを立ち上げれば準備完了だ。
──ピロン……。
程なくして所定の時間が訪れると、予約していた病院の医師と思しき白衣の年配男性の姿が通話画面に表示された。視診・問診以外のことは出来ないオンライン診療というものの性質上、的確な診察結果を期待するならば、可能な限り具体的に病状を伝えなくてはならないので、喉の痛みであまり声を発したくはないだろうが、堅慎が自分の口から愁訴する方が望ましい。なので、私は堅慎の膝に乗せられたノートパソコンの画面に映り込まないように気を付けながら、ベッドに上がるや彼の隣で三角座りして、診察の様子を見守ることにする。
「早速問診の方を始めさせていただきます。今朝の熱は何度でしたか?」
挨拶もそこそこに診察を開始した医師の質問に対して、堅慎は脇に挟んだままの体温計を取り出して視線を落とす。
「39度、3分でした……。」
彼の放ったその言葉に、私は思いがけず声を上げてしまいそうになるのを、口元に手を当てて咄嗟に堪える。通りで体力自慢の堅慎が、これほどまでに衰弱している訳だ。
「それは、さぞお辛いでしょう。食事や水分は摂れていますか?」
「はい。でも、食欲はいつも通りあるんですけど、扁桃腺が腫れているのか、満足に喉を通らなくて、痛みも伴います……。」
「この音質はノイズではなくて、岩倉さんの声が掠れているせいでしょうか。」
「はい、そうだと思います……。ご迷惑をお掛けします……。」
医師は堅慎の回答を基に、忙しなく手元を動かしてPCを操作しているようだ。一方で、高熱に
「では今現在、ご自身で最も辛いと感じる症状は何でしょう?」
その質問に対して、堅慎は信じ難い言葉を口にする。
「心美と、キスできないことが一番辛い……。」
「は!?」
唐突に素っ頓狂なことを言い出した堅慎に反応して、隣で一言も発することなく成り行きを傍観していた私は驚きの声を上げてしまう。自分が言い放った爆弾発言の重大さに気付く素振りもない彼に代わって、私は慌てて
突然画面に映り込めば、私の探偵・茉莉花としての正体を明かすことになる。しかも、今の私にはとても隠し切れない
「すみません。声が小さ過ぎて良く聞こえませんでした。もう一度お願いできますか?」
改めて問い直す医師の言葉に、私はほっと愁眉を開く。堅慎の小さな掠れ声は偶然マイクに拾われなかったらしく、画面の向こう側に居る医師の耳には届かなかったようだ。可哀想だが、堅慎が同じことを口走っては今度こそ羞恥心で押し潰されそうなので、私は彼の太腿を
「うあっ……! あ、喉の痛みと筋肉痛が苦しいです……。」
「はぁ、そうですか。」
眼前の患者がいきなり苦悶の声を上げたとあって、医師は訝しげに眉を顰めるも、診察はこれにて終了のようだ。
「結果から申し上げて、岩倉さんの症状は典型的なウイルス性の感染症・咽頭結膜熱のものと酷似しています。間違いないかと。」
「え……。」
感染症──熟練の年配医師によって、物恐ろしい病名と共に告げられたその言葉を聞いた私は、全身の皮膚が
「それは、治るんですか……?」
「残念ながら、ワクチンや特効薬といった代物はなく、特別な治療法は存在しません。」
「っ……!?」
ダメだった。遂に私の両眼からは滝のように大粒の涙が零れ落ち、嗚咽が漏れてしまうのをこれ以上我慢することはできなかった。やっと一緒になれたのに、やっと2人で幸せを掴めたのに、どうして神様は堅慎にばかり試練を与えるのだろうと、彼に降り掛かる不幸な運命を呪いそうになった──その時だった。
「最長で1週間ほど高熱が続くので、解熱剤だけ郵送しておきますね。」
「げ、ねつ、ざい……?」
この医師は一体何を言ってるのだろう。未来ある若者が治療法のない大病に命を蝕まれているというのに、解熱剤を処方して終了など、あまりにも呑気ではないだろうか。危機感がなく患者への配慮に欠ける医師の軽薄な態度に憤慨して、涙混じりに訴えようとした次の瞬間、暫く黙りこくっていた堅慎が漸くその重い口を開いた。
「そうですか。どうもお忙しいところ、ありがとうございました。失礼致します。」
そう一方的に告げると、堅慎は通話を終了させ徐にノートパソコンを閉じて、隣で号泣している私のもとへ
「っ、ごめん。まさか泣かせるとは思ってなくて……。騙すつもりはなかったんだけど、ちょっと悪戯したくなってさ……。」
「ど、どういうこと……?」
聞けば、堅慎は私に太腿を抓られた時に、ふと他愛ない仕返しを思い付いたらしく、さも自身が重病を患っているかのように装うために敢えて医師の
「な、なんでよ。堅慎だって、自分がもしかしたら死んじゃうかもしれないって、怖くなかったの……!?」
「確かに苦しいけど、症状は夏風邪とほぼ変わらないし、お医者さんは『典型的なウイルス性の感染症』って言ってただろ。つまり、誰もが
なるほど、これには流石の私も反論の余地がない。仰々しい謎の病気と感染症という文言に、彼の身を案じるあまり慌てふためいて残りの言葉を聞き漏らしていた私の落ち度だ。──しかし……。
「もう、意地悪っ! 本当に心配したんだからね!?」
「本当にごめん。冗談が過ぎたよ……。」
「大体、私が堅慎を抓ったのは、貴方が寝惚けて突然変なことを口走ったりするからでしょうが!」
「変なこと……?」
信じられないことに、堅慎が数分前に言っていた
「もう、いいわよ。何事もなくて本当に良かった……。」
「いや、まだまだ問題は山積みだぞ。」
堅慎は袖口で私の涙を拭ってから、大きく深呼吸して息を整えながら少しずつ喋り始める。
「まず、現状の生活を維持するためには、一刻も早く探偵事務所を再開させなくちゃならない。」
「そうね……。」
「それなのに、俺がこの様だ。最大で向こう1週間も動けないのは、あまりにも痛い。」
彼の懸念は確かにその通りなのだが、こればかりは仕方ないだろう。探偵業は身体が資本だ。体調が優れないうちは仕事が出来ないのも無理はないし、活動資金も切り詰めれば当分は何とかなる。急いては事を仕損じると言うように、慌てて行動を起こしたところで状況は好転しない。
「私は堅慎の体調が完全に回復するまで、何もする気はないわよ。」
堅慎にこれ以上無茶をされては、心臓が幾つあっても足りない。彼の健康を第一に考慮して気を揉むあまり、私は強情にも態度を硬化させる。
「まあ聞いてくれよ。このピンチはむしろチャンス。逆境に商機を見出してこそ、真に一流の探偵だとは思わないか?」
「どういう、意味よ……。」
勿体振った言い方をする堅慎の言葉に問い返すと、幾らか元気を取り戻して余裕のある表情を見せた彼からは、思わぬ返答があった。
「探偵事業にもイノベーションをもたらそうか。」
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