Ep.80 不治の恋煩い

 墨汁を溢したかのような晦冥かいめいの中を壁伝いに手探りで突き進み、リビングの天井に備え付けられた大きなシャンデリアに明かりを灯す。普段から応接間代わりにしている大きめの高級ソファが設置された一角を含め、部屋全体を煌々と照らし出す強い光が目に飛び込んで、思わず顔を顰めてしまう。


「まぶし……。」


 徐々に明順応を始める両眼を擦りながら、まずは洗面所に向かって顔を洗い、歯を磨く。ふと洗面台の上部に取り付けられた大きめの鏡に映る自らの分身へと視線を移せば、首元を中心に点々と虫刺されに似たほんのりと紅い痕が残っていて、昨晩の情事が想起され再び赤面する。


「もう……。」


 居た堪れなくなって、すぐに口をすすいで洗面所を出ると、次に向かうはキッチンだ。今日は丸1日、水以外何も口にしていないため私も流石に空腹である。それに、突然の高熱に喘ぎ苦しんでいる可哀想な恋人のため、手早く栄養補給できるような喉を通りやすい食事を用意してやらねばならない。そんなことを考えながら、洗い場の横に設置された冷蔵庫の扉を引いた。


「手っ取り早いのは卵粥かな……。」


 日頃から堅慎によって一通りの食料品は買い揃えられ、冷蔵庫に詰められているので、何を作るにも材料には事欠かない。とはいえ、水ですら満足に飲めていなかった彼のことを考えれば、胃にも優しい粥くらいしか思い浮かばない。私は戸棚から小さめの土鍋を取り出して、クッキングヒーターの電源を入れる。基本的に土鍋はIH非対応だが、我が家のものは底面に鉄製プレートが付いているため問題ないのだと、以前に堅慎が教えてくれた。長くなってきたストレートヘアを後ろ手に結んで、早速作業に取り掛かる。


「水と一緒に出汁の素と塩を少しだけっと……。」


 強火に掛けて沸騰するまでの間、シンクで生米を研いで待つ。数分後、沸騰した鍋に米を1合分投入して、火力を落としてから蓋をする。調理中に時折、寝室から堅慎が辛そうに咳き込んでいる音が聞こえてくるものの、残念ながら火元を離れる訳にはいかない。逸る気持ちをぐっと堪えて20分ほど待機して、米がある程度柔らかくなったことを確認してから溶いておいた卵を回し入れ、軽く火を通す。少し薄味に仕上がったものの、病人にはこれくらいが丁度良いかもしれない。最後に小口切りにした長葱を散らして、磨り潰した梅肉を添えて、鰹節をまぶせば完成だ。


「我ながら上出来じゃない。」



 §



 彩り良く仕上がった卵粥を土鍋ごと盆に乗せて、水と一緒に堅慎の待つ寝室へと慎重に運ぶ。サイドテーブルに盆を置いてから、相変わらず荒い呼吸によって布団を膨らませながら横たわっている彼をそっと抱き起こして、大きなベッドのふちに寄り掛からせる。しかし、彼の症状は徐々に悪化の一途を辿っているようで、力なく項垂れてしまう。


「ちょっと、堅慎ってば大丈夫なの……!?」


 彼との長い共同生活において、ただの一度も見たことのない異様な光景に気が動転して、反射的に彼の手に触れると、先程とは比べ物にならないほどの熱を帯びていた。虚ろな目で私の手先を見つめる彼の意識は混濁しているようで、受け答えもままならない。


「はぁ、冷たくて、きもち……。」


「あっ、貴方が熱過ぎるのよ……。」


 堅慎は私の手を力なく握り返して、自らの身体を侵す病熱を逃がすように指を絡める。その仕草もさることながら、寛仁大度として自制心の強い普段の彼からは想像も付かないような舌足らずな声で甘える様子と頬を伝う一筋の汗が酷く煽情的に映り、正直言ってかなり目の毒だ。病人を目の前にして、私は一体何を考えているのかと自問しつつ慌ててかぶりを振る。


「お粥を作ってきたけど、食べられそう?」


「腹は、減ったかな……。」


 どうやら、食欲はあるらしいので一安心だ。しかしながら、堅慎の指先にはほとんど力が入っておらず、熱い粥を1人で食べさせるには、あまりに頼りない。私は盆に乗せてきた小鉢に土鍋から少しだけ粥をよそって、小さめの一口分を蓮華れんげすくう。


「心美、自分で出来るよ……。」


「そんな状態で何言ってるのよ。いいから、大人しくしてなさい。」


「お前に、移したくないんだよ……。」


「またそんなこと言って。私は大丈夫だから、リラックスして。」


 何回か吹き冷まして適温となった蓮華の粥を、小鉢で受けながらゆっくりと堅慎の口元へ運ぶ。半開きのまま必死に酸素を取り込んでいる彼の口へやや強引に蓮華を傾けて粥を流し込めば、それを彼はほとんど咀嚼そしゃくすることなく、数秒の後に嚥下えんげする。


「どう、美味しい?」


「とっても美味しいよ。また腕を上げたな……。」


「ふふっ、それは良かった!」


 喉仏が揺れ動いて、ふっと表情を柔らかくした堅慎を見て、私は漸くほっと胸を撫で下ろした。とはいえ、彼を苦しめている病魔の正体が分からないことには、心が落ち着かない。


「ねぇ、一度病院で見てもらった方が良いんじゃないかしら。」


「ただの夏風邪だよ。なんてことな──けほっ。」


「説得力が微塵も感じられないのよ……。」


 尤も、今の私たちにとっては病院のような公的医療機関で診察・治療を受けることすら容易ではない。医師には、私たち探偵と同じように「相手方との関係において知り得た秘密を外部に漏洩してはならない」という守秘義務が課せられているため良いものの、その場に居合わせる他の一般人に茉莉花としての正体が割れれば事だ。かと言って、残息奄々と表現しても過言ではないほどに衰弱している堅慎をたった1人で病院に行かせる訳にもいかない。はてさて、困ったものだ。


「まぁ、外来診療を受けられなくても、方法はいくらでもあるわ。」


 情報通信技術が発展して医療行為の在り方が多様化した現代においては、医療従事者が患者の自宅に訪問して診療する在宅診療の他、スマホやPCといった通信機器を通じたオンライン上のやり取りを主とする遠隔診療も選択肢に入る。熱病の原因究明と薬の処方くらいであれば、十分に可能だ。


「明日の午前中にオンライン診療を予約しておくから、今日のところは安静にしておいて。」


「分かった。ありがとな……。」


 粥を食べさせながら会話を重ねていると、土鍋の中身はあっという間に空になった。丹精込めて作ったものを愛する人が完食してくれた──私にとってはその事実が何よりも嬉しく、心が溢れんばかりに満たされるのだ。


「水、飲めそう?」


「今なら、大丈夫かも……。」


 コップを渡して堅慎の手を支えてあげると、彼はこくこくと水を全て飲み下した。心做しか、顔色や肌の血色も良くなってきたようだ。


「あ、そうだ。少し待ってて。」


「あぁ……。」


 空の食器を盆に乗せて下げるついでに再びキッチンへと向かい、冷蔵庫に備え付けられた製氷室から賽子さいころ状の氷を掻き集める。そのままでは氷の粒が角張ったままなので、ざるに氷を入れて、シンクで流水に晒して角を取ってから氷嚢に詰める。


「お待たせ。」


 寝室に戻って、堅慎の身体を支えて再びベッドに寝かせてから、氷嚢を彼の額に乗せて熱を冷ます。


「ありがとう。だいぶ楽になったよ。」


「また後で戻って来るから、先に寝てて。」


 幾分か気息も整った堅慎の頬を撫でて、肩まで覆うように布団を被せてから、私は寝室を後にした。心が満たされたとしても、腹の虫は正直なので、日頃から彼が作って冷蔵庫に備え置いてくれている常備菜を取り出して、米を炊き、味噌汁だけ作って一汁一菜の質素な食事を済ませる。忘れないうちにスマホで最寄りの病院へオンライン診療の予約を入れてから、予め沸かしておいた風呂の湯船に浸かると、寝惚けた頭が今更になって冴え渡ってくる。


「まさかあの堅慎が病気なんて、未だに信じられないけど、ちょっと役得かもね。」


 私と堅慎が初めて出会った時──まだ私が幼稚園に通っていた幼少期の彼に対する第一印象は「感情を失った機械のような人間」だった。後に実父からの苛烈なDVを受けていたと分かったのだが、彼は毎日のように全身に青痣を作っていたため不気味に思われてか、周囲から嫌厭されていた。幼いながらに何とか人間社会へ溶け込もうとしてか、あるいは日常的な暴力から逃れるための防衛本能なのか、彼はいつも貼り付けたような薄ら笑いを浮かべていた。


 斯く言う私も、アルビノとしての生来の特徴的な風貌から、周囲からは忌み嫌われていた。そんな私たちが、互いに傷を舐め合うように寄り添い始めるのに時間は掛からなかった。以来、堅慎は私の前でだけは感情を表に出すようになったものの、彼は次第に悩みは抱え込み、弱みは見せないといった強がりな大人になってしまった。特に最近は、命懸けの事件に数多く直面してきたことで、私のボディーガードとしての責務に駆られてなのか、その傾向はより顕著に表れていた。


 肝心な時に堅慎の傍から離れてしまった私が言うのは筋違いだろうが、彼にはもっと私を頼って、情けないところも弱いところも曝け出してほしいと思っていた。だから、突然の高熱に倒れて朦朧とした意識の中で自制心が緩まっている彼がこんなにも素直に私に甘えてくれるのが、あまりにも嬉しくて仕方ない。


「堅慎も、こんな気持ちだったのかな……。」


 思えば菊水家の猫捜しの依頼を受けた時から、私は探偵としての責任感と堅慎に心配を掛けたくないという我儘な気持ちから、辛いことも悲しいことも全部1人で背負い込もうとしていた。だが、結果的には私の思惑とは裏腹に、何かしら失敗を重ねては甲斐甲斐しく世話を焼いてもらっていた。今や彼と私の立場は、物の見事に逆転してしまったという訳か。


「愛する人のためなら何でもしてあげたいと思う気持ちがある一方で、愛する人には迷惑を掛けたくないという気持ちもある。恋って、こういうものなのかしら……。」


 湯船に顔の下半分まで浸かって、水面下で息を吐いてぶくぶくと泡飛沫を立てながら、取り留めのないことを考える。思いの外長湯してしまったのか、逆上のぼせて熱に浮かされている脳でどれだけ思慮を巡らせたところで、胸に秘められしこの感情の奔流の正体は分からない。だが、それがもし世に言う恋と形容されるものであるならば、私の病熱は一生涯にわたって治らなくても一向に構わない。私はこれからの長い人生を、彼とお揃いの不治の恋煩いと共に生きていきたいのだと切に願う。

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