雨降って地固まる

Ep.74 運否天賦の大作戦

「奈良市民の皆様、メディア関係者の皆様、本日は生憎の悪天候の中、足をお運び頂きまして誠にありがとうございます。この度──」


 冴えない鉛色の空を吹き飛ばすかのように、溌溂とした声がマイクによって拡散されて一帯に響き渡る。どうやら、無事に街頭演説の幕が上がったようだ。


 車椅子に座って、全面ガラス張りの街宣車に乗り込んでいる首相に扮した東條の姿を見た通行人は、予想以上にその足を止めて演説に耳を傾けながら皆一様にスマホのカメラを向けている。銃撃によって重体に陥ったと速報されていたはずの首相本人が暗殺事件の現場に再び姿を現したとあって、通行人たちは雷に打たれたような衝撃を受けている様子だ。


「既にお気づきの方も多く見受けられますが、そうです。民主主義の根幹たる公職選挙の場で、卑劣な襲撃犯の凶弾に倒れた陸奥総理大臣が戻ってきてくださいました!」


 衆院選に挑む与党出身の40代前後と思しき議員候補の男が発した言葉によって、奈良駅前の演説に集まった聴衆は一気にどよめく。その声は、駅周辺に聳える廃ビルの屋上で成り行きを見守っている俺たちのもとまで聞こえてきた。


「そろそろ頃合いだね……。」


 遠巻きに様子を観察していたアイーシャは、徐に耳元のヘッドセットに手を当てて、囁くように指示を飛ばす。


 ──Alpha, Go.


 陣頭指揮を執るアイーシャの指示に応じて、本作戦に参加しているGBS日本支社の警備員の1人が、偶然通り掛かった一般人を装って、街宣車を取り囲む聴衆が差している傘の陰に隠れるようにして、自然と紛れ込む。


「どうやら、まだ近くに怪しい人物は居ないようだね。」


 それもそのはず、陸奥首相の生存は、現場に居合わせている聴衆によってSNS上で拡散され、各種メディアが報道している真っ最中だ。仮に逃亡犯がまだ奈良市内に潜伏しているとして、犯人がその驚くべきニュースを聞き付けて、再び暗殺しようと思い立ってここまでやってくるには相当の時間を要するはずだ。そもそも、今日中に暗殺犯が都合良く襲い掛かってくるとも限らない。そこで俺たちは、その可能性を少しでも上げるための一手を打った。


「陸奥総理大臣は本日を以て、暫しの療養期間に入られます。総理のお力添えが得られなくなるのは非常に口惜しいですが、そのご功労に報いるためにも、必ずや当選してみせます!」


 マイクを強く握り締めて声高らかに演説する議員候補は、打ち合わせ通りの言葉を紡いでくれた。要するに、銃撃によって重傷を負った陸奥首相は、今日限りで表舞台を去り、雲隠れする──を作り上げたのだ。その狙いとは、首相をどうしても暗殺したい犯人側に「完全に息の根を止めるチャンスは今日しかない」と錯覚させることだ。


「後は暗殺犯がこの街頭演説を何らかの形で見聞きして、首相を暗殺しにやってくることを願うのみですね……。」


「あぁ。手筈は整った。いつ銃を持った犯人が現れてもおかしくないから、絶対に気を抜いちゃダメだよ……!」


 アイーシャのげきに応じて、俺は改めて注意深く演説の様子を観察しつつ、血眼になって顔も知らない暗殺犯の姿を探し求めた。



 §



 ──kappa, Go.


 社長の指示によって、最後の警備員が現場に送り込まれた。街頭演説の開始からは、既に1時間が経過しようかというところ、そろそろ間が持てなくなってきた議員候補の演説は、潮時に差し掛かっていた。


「暗殺犯が現れる気配はないね……。」


「くそっ……。計画は土台から間違ってたのか……?」


 肝心の逃亡中の犯人は一向に姿を見せず、俺はいよいよ焦り始めていた。首相暗殺犯が中国スパイであることは考え過ぎだったのか。その目的が選挙の趨勢すうせいを操作することではなかったのか。今も病床にせっているはずの陸奥首相のダミーに勘付かれたのか。逃亡犯はニュース報道を確認していないのか。


 考えれば考えるほどに、計画の杜撰ずさんさに気付かされる。逃亡犯を一刻も早く逮捕するための急拵えのものだったとはいえ、失敗する要因はいくらでも想定できる。


「もはや、ここまでかな……。」


 アイーシャの言葉に改めて顔を上げると、陸奥首相を真似た東條と共に議員候補が街宣車に乗って自らの名前を連呼しながら、締めの挨拶を述べている。1時間以上にわたる長かった街頭演説もこれにて終了だと悟った聴衆らは、1人、また1人とまばらに立ち去っていき、街宣車を取り囲むミルフィーユのような傘の塊は、次第に層が薄くなっていく。


「計画は失敗か。仕方ない。行こう、ケンシ──」


 ──カン、カン、カン……。


 雨に濡れたブロンドの髪を掻き上げていさぎよく諦観するアイーシャは身を翻し、廃ビルの屋上を立ち去ろうと階段へ向かうため足を踏み出しながら、俺の名前を呼ぼうとした。しかし、その刹那、屋外に設置された鉄骨階段を何者かがゆっくりと上がってくる足音が雨音に紛れて響いてくる。


「しっ……! アイーシャさん、隠れて!」


「わ、分かった……!」


 俺は咄嗟にアイーシャを連れて、変電設備や空調室外機が所狭しと立ち並ぶ物陰に、声を殺して忍び足で身を隠す。ここは明らかに人気のないすたれて放棄された空きビルだ。そのはずなのに、一体誰が、何用で外階段を上って屋上までやってくるというのだ。俺たちは突如として訪れた異常事態に、固唾を呑んで物陰から階段の方を注視する。──そして、程なくして謎の人影は俺たちの前に姿を現した。


「っ……!」


 堂々と屋上へとやってきたその人物の顔に、心当たりなど微塵もない様子で首を傾げるアイーシャとは対照的に、俺は開いた口が塞がらなかった。男性としても比較的背の高いの部類に入る俺と同等の長身に、アイーシャにも負けず劣らずの整った顔付き、悪天候も意に介さないと言わんばかりの露出過多の服装、その忘れたくても忘れられない奇抜な風貌を目にした俺は戦慄した。そこに立っていたのは、今回の事件の元凶にして深い因縁のある女──明星本人だった。


「あの女……!」


「彼女が明星なの!? でも、それだとおかしい……。ケンシンが明星と接触していた時には、既にここで首相暗殺事件が発生していたんだよ? 彼女が現在逃亡中の犯人であるはずはない。」


 アイーシャの言っている通り、明星は先の暗殺事件を引き起こした実行犯ではあり得ない。ただでさえ、どのような交通手段を取っても数時間は掛かるほど離れている奈良市で発生した銃撃事件の犯人が明星ならば、同時期に彼女自身が俺と直接会っていたことに説明が付かなくなるからだ。しかし、その実行犯と明星が裏で繋がっている可能性が限りなく高いと分かっていながら、ここで取り押さえない手はない。


 そんなことを考えていると、先程まで俺とアイーシャが陣取っていた見晴らしの良い柵の付いた側端そくたんまで歩み寄った明星は、背負っていた楽器でも入っていそうな縦長のハードケースを地面に下ろして、熟れた手付きで中身を取り出し始めた。物陰に隠れたまま向こうの様子を観察する俺たちの角度からは良く見えなかったものの、ケースが閉じて視界が開けた瞬間、明星の両手に握られていたのは、素人の俺でも一目見ただけで分かるほどに物々しい雰囲気を纏って鈍く光る、1丁のだった。


「やはり陸奥首相のダミーに騙されて、今度こそ止めを刺しに来たって訳か……!」


「ケンシン、拙い!」


 心美との仲を引き裂いた憎むべき女を目の前にして、漸く訪れた復讐の機会に闘志を燃やしている俺とは裏腹に、明星が柵の隙間からライフルを構えて人集ひとだかりも薄れてきた駅前の街宣車へ向けて照準を合わせているのを見るや、アイーシャは分かりやすく狼狽する。


「どうしてですか。街宣車は全面防弾ガラスで出来てるって──」


「それは逃亡犯が持っている手製の銃器を想定してのものだ。いくら何でも、ライフルの弾丸を凌ぐほどの耐久性は備えていないよ……!」


「なっ、マジですか……!?」


 唐突にアイーシャの口から告げられた想定外の事態に、全身を駆け巡る血流が益々加速するのを感じる。一刻も早く明星の銃撃を阻止しなければ、計画は全て水泡に帰することになる。こうなったら、多少の危険は覚悟の上で、正面から突撃するしかないだろう。アイーシャに決意を込めた目線を送ると、俺の意図を汲み取った彼女もまた力強い瞳を向けて大きく頷く。


「よし。行きましょう……!」


 次第に激しさを増していく雨風にも負けず劣らずの啖呵を切って、今にも陸奥首相に扮した東條に向かってライフルの引き金を引かんと狙撃体勢に入っている明星を止めるべく、俺はアイーシャと共に物陰から飛び出した。

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