Ep.73 急拵えのデコイトラップ

 1日振りの就眠だったのにもかかわらず、碌に身体も休まらないまま東雲色しののめいろに染まった春曙しゅんしょに目を覚ます。天候は少しずつ回復しているようだが、まだ散発的に小雨が降り注いでいるようで、粘り付くような倦怠感を押して重たい身体を起こして、キッチンでいつも朝は飲まないはずの温かいコーヒーを淹れる。


「はぁ……。」


 たった1人では朝食を作る気にもなれず、電気も付けずにソファに腰を据えてコーヒーを啜り、色褪せた孤独な世界をひたすら呆然と眺める。


「そういえば、アイーシャさんからの連絡は……。」


 一晩の間に作戦の準備をすると豪語していた彼女の言葉を思い出して、テーブルに置いたままだったスマホを見て思い出す。そういえば、陽菜から電話が架かってきた時に電源が切れてしまったスマホだが、東條との唐突な再会による衝撃で、肝心の充電をすっかり忘れていた。そのことを漸く思い出した俺は、急いで寝室のベッド付近に備え付けてある充電ケーブルへスマホを繋いだ。


 ──カラン、コロン……。


 その時、玄関扉のドアベルが来客を知らせた。


「ケンシン、おはよー。」


 気の抜けた耳馴染みのある声を聞いた俺は寝室を出て、玄関へと繋がる廊下に姿を現す。


「アイーシャさん、どうしたんですか……?」


「朝一番に連絡したんだけど繋がらなかったから、居ても立っても居られずにね。」


 まさか俺の突拍子もない作戦の準備を本当に一晩の内に終わらせてしまうとは思っていなかったため、少々呆気に取られる。


「ちなみに、も一緒よ。」


「岩倉さん、おはようございます。」


 彼女の後ろから顔を出したのは、昨日俺と別れて一度警視庁に戻っていた東條だった。どうやら、役者は揃ったようだ。


「取り敢えず、今一度計画の内容を共有しておきましょう。中へどうぞ。」



 §



 先程淹れたばかりでまだ温かいコーヒーを2人分、カップに注いでテーブルに置く。俺が席に着いたことを見るや否や、真っ先に沈黙を破ったのは東條だった。


「まずは警視庁を代表して、私からお詫びしなければならないことがあります……。」


「はい……?」


「実は──」


 東條が述べたことは良く言えば、悪く言えばの内容だった。警視庁は、陸奥首相を襲撃した逃亡犯を誘き出すために影武者を立てるという作戦について、国家機関として公認する訳にはいかないものの、現時点で犯人逮捕の見込みがないため、作戦の実行自体には目を瞑るというスタンスを取るようだ。


 成功すれば「民主主義の勝利」で、失敗すれば「民間人が勝手にやったこと」と言い逃れることができるという、何とも事なかれ主義の警察らしい回答だが、東條もこれには納得が行っていないようで歯を食い縛って悔しさを露わにしている。


「確かに、中国スパイの関与も現時点では疑惑に過ぎません。ですが、ともすれば国家存亡の危機にもかかわらず、警視庁の消極的な対応には私も辟易しました……!」


「東條さん……。」


「警察の力も頼りにならないと分かったので、犯人逮捕に至るまで、今後は私もおふたりと行動を共にさせて頂きます。」


 経緯はどうあれ、警備部に属するベテランである東條の存在は貴重だ。


「ありがとうございます。頼りにしてます。」


「私からも、そろそろ良いかな……?」


 湯気の立ったコーヒーを一口飲んで、続いてアイーシャが報告する番だ。すると、彼女は如何にも高級そうな小さめのショルダーポーチから、おもむろに柔らかい材質で作られている肌色の物体を取り出して見せた。


「じゃーん。気持ち悪いくらいに良く出来てるでしょ?」


「これは……!」


 アイーシャの手に掲げられていたのは、陸奥首相の顔の作りを精巧に模したシリコンゴム製の特殊マスクだった。黒子ほくろの位置や皺の数までが忠実に再現されたマスクは、まるで本物の人間から顔の皮を剥いだかのようで、彼女の言うように少々気味が悪いと感じるほどだ。


「あとは誰がこれを被るかなんだけど、うちの日本支社に居る社員は皆若手揃いだからどうしても違和感がね……。」


 作戦遂行のためなら、言い出しっぺの俺が率先して首相の影武者に名乗りを上げたいところなのだが、年齢が違い過ぎる。周囲に少しでも違和感を与えようものなら、国民からの信用も失い、逃亡犯も近づいてこないだろう。


「それならば、私が影武者を務めましょう。」


 頭を悩ませる俺たちを余所目に、躊躇なく立候補したのは他でもない東條だった。


「良いんですか!? 下手をすれば命の危険も伴うんですよ……!?」


「それは誰がやっても同じことです。間もなく定年を迎えようという私であれば、歳や背格好も陸奥首相と良く似ている。そのマスクを被って顔を包帯で覆っている限りは、誰も正体を見破ることなど出来ませんよ。」


 そう言って実際にアイーシャから特殊マスクを受け取って顔にあてがう東條の姿は、昨日アイーシャのPCで見た陸奥首相の写真と瓜二つだった。


「うん、完璧だ。これなら犯人が歴戦の中国スパイだろうと何だろうと、首相暗殺は失敗だったと信じざるを得ないだろうね。」


 計画の根幹であり、最も重要なは終わった。残る問題は、ここまで綿密に練ってきた計画をどのようにして決行するかだ。俺の疑問を察したのか、東條が一旦マスクを外して話し始める。


「逃亡犯の行方ですが、奈良市周辺に張り巡らされた警察の包囲網には未だ掛かっていないようですので、依然として街を出ていないものと考えるのが自然かと。また重傷を負った首相は、近所の病院に緊急搬送されたという情報しか出回っていないので、計画はやはり奈良市周辺で実行するのが最適だと考えますが、如何でしょう。」


 なるほど、逃亡中の銃撃犯を誘き出すという目的に立脚しても「死の淵から蘇った」という設定の影武者を自然な形で表舞台に立たせるためにも、作戦実行は実際に銃撃事件のあった奈良市での街頭演説中がベストだということだろう。


「なら、すぐにでも出発しましょう! これ以上危険な武器を携帯した凶悪犯を野放しになんてしておけない……!」



 §



 俺たちはアイーシャの部下が運転するGBSの社用車で、高速道路を駆使しながら奈良県を目指して突き進んだ。悪天候は続いているが、月曜日ということもあり道路状況は比較的良好だった。とはいえ、関東地方に位置する事務所から奈良は遠く離れているため、早朝から出発したのにもかかわらず、漸く到着する頃には正午をうに過ぎていた。社長の号令によって電車と新幹線を乗り継いで向かっていたGBS所属の警備員たちは既に現場まで辿り着いていたようで、奈良駅の改札前で合流するや否や具体的な作戦の最終調整をする。


「陸奥首相を応援弁士に従えて街頭演説をしていたという議員候補にアポが取れた。彼には首相銃撃によって急遽中止となった演説のやり直しを、ここ奈良駅前でこれから行うよう予定を変更してもらった。」


 そして、改めて陸奥首相の姿に変装した東條が現れるという寸法だ。各種メディアにも首相の生存報告と選挙の場への復帰を大々的に宣伝したのは良いものの、言うまでもなく、肝心の東条自身が応援演説をすることはできない。特殊マスクの下から喋ろうとすれば、口元の筋肉は動いていないのに声は聞こえるという、さながら腹話術のような状態になってしまう上、陸奥首相の声真似までは不可能だからだ。


 そこで東條には、急遽用意した車椅子に座った状態で街宣車へと乗り込んでもらう。包帯で顔を覆い、車椅子を押して痛々しい様子を演出できれば、喋ることができないのも無理はないと聴衆の同情を誘うことができよう。むしろ、そのような状態にもかかわらず、国民に心配を掛けまいと懸命に表舞台へと戻ってきた勇気ある政治家として、内閣不信任決議案が可決されたことで既に失墜している首相へのイメージが幾分か回復するかもしれない。


「君たちは命の危険があるにもかかわらず、聴衆に紛れて暗殺し損ねた首相に止めを刺しに来る逃亡犯を取り押さえる任を受けてくれた、GBSの誇るべき社員たちだ。チャンスは一度きり、失敗は許されない。必ず成し遂げるんだ……!」


「「「はい!」」」


 総勢10名ほどの警備員たちは、蜘蛛の子を散らすように一度解散する。始めから大勢の聴衆が居ては怪しまれるので、あくまでも通行人を装って、囮役の東条が街宣車に乗り込んで野次馬が集まるにつれて、1人ずつ紛れ込むという手筈だ。


「それじゃ、ケンシン。行くよ。」


「はい、アイーシャさん。」


 仮に首相暗殺の実行犯が中国スパイの一味だった場合、俺とアイーシャは先のオーストラリアでの一件を通じて、既に顔が割れているかもしれない。特に、警備会社を営むアイーシャが堂々と街宣車を取り囲んで首相の近くに居たとあっては、犯人の警戒心を煽るだけだ。なので、俺たちは作戦成功を天に祈りながら、事の行く末を近くのビルの屋上から見守るだけだ。



 §



 奈良駅付近の人気のない廃ビルの屋上を陣取った俺とアイーシャは、街頭演説の模様を見守ろうと双眼鏡を構えるも、少しずつ強まる雨風によって視界が遮られる。どうやら、今日は全国的に天気がかんばしくないようだ。西の方だからといって、梅雨入りにはあまりにも早すぎる季節だ。


「アイーシャさん、本当にあんな街宣車で大丈夫なんですか……!?」


 双眼鏡の先に見えるのは、アイーシャの部下がレンタルで用意したという所謂「選挙カー」で、四方全面ガラス張りの特注品らしい。犯人が手製の銃器を持っていることが判明している以上、最も警戒すべきなのはやはり銃撃であることなど警備の専門家であるアイーシャは十分に理解しているはずだ。しかし──。


「あれじゃ『どうぞ撃ってください』と言ってるようなもんじゃないですか!?」


 全方位から内部の様子が透けて見える街宣車の外装は頼りなく、人命を賭した作戦を立案した張本人としての責任を強く感じている俺の疑念に対して、アイーシャは冷静に返答する。


「心配しないで。あれは全て防弾ガラスで出来てるから。どれほどの威力があるか知らないけど、持ち運びやすい手製の銃器如きじゃ到底貫けない代物だよ。それに、敢えて隙だらけの状況を演出しないと暗殺犯も襲いにくいでしょ?」


「そうですか……。」


 その言葉に一先ず安堵の表情を浮かべるも、状況は未だ予断を許さない。兜の緒を締めるような思いで現場を注視していると、演説はまだ始まっていないにもかかわらず、既にメディア関係者と思しき人影がちらほらと現れてはカメラのフラッシュを焚いている。その先には、今頃病室のベッドで生死を彷徨っているはずの陸奥首相と遜色そんしょくない特殊マスクを被って、演説の主役である議員候補に車椅子を押してもらいながら街宣車に乗り込んだ東條が居た。


「いよいよだね……。ケンシン、気を引き締めてね……!」


「分かってます……!」


 俺とアイーシャは不測の事態に陥った際の予備戦力に過ぎない。だが、人の命を餌に暗殺犯を誘き寄せて取り押さえるという一世一代の大作戦を前に、緊張せずには居られなかった。そんな俺たちに活を入れるかのように、一際大きなマイクのハウリング音が曇り空の下に木霊した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る