Ep.72 頼みの友
横殴りの雨風に傘を差すのを諦めた俺は、吹き飛ばされてきた桜の枝やビニール袋などのゴミが散乱する道をひた走る。視野の上半分を覆う自らの黒い前髪から
「はぁ、これ結構気に入ってるのに、っはぁ……!」
水気を帯びて重くなった服を纏って息を弾ませながらも、牡丹桜の遊歩道を抜けて開けた視界に飛び込んできた高層ビルを目印に、俺は四方を囲む霧雨から逃げ場を求めるように一層足を速めた。
§
「いえ、ですから! 俺はここの社長と古くからの友人で……!」
「うちのCEOが貴方のような年端も行かない日本人と知り合いのはずないじゃありませんか。これ以上は他のお客様のご迷惑になりますので、お引き取りを。」
総理大臣暗殺を実行した逃亡犯を誘き出して捕らえるという作戦を立案した俺は、囮役となる首相の影武者を立てるため友人の力を借りるべく、とある近所の高層ビルを訪れていた。広々としたビルの屋内は、白を基調とした清潔感のある内装に、照明から降り注ぐ明るい光を透かして煌めく若々しい青葉を付けた背の高い観葉植物が良く映えていて、何処か異国情緒が漂っている。
尤も、濡れ鼠となったままビルの自動ドアを潜り抜け、受付で社長との面会を要求している謎の若造の姿は場違い極まりなく、エントランスホールで俺と相対する受付嬢や警備員、その他一般の来訪者たちの衆目を一身に集めてしまう。
「そうだ! だったら、ここで菊水陽菜という女性が働いているでしょう……!?」
「他部署の社員については分かりかねます。少なくとも、本日の出勤記録にそのような名前は見当たりませんが?」
「くっ……!」
日曜日とはいえ、何時でもクライアントの求めに応じることができるように年中無休の警備会社のことだ。陽菜の名前を出せば乗り切れると高を括っていたが、見当違いだったようだ。
「守衛を呼びたくはありません。どうか、お引き取りを。」
毅然とした態度で不審者である俺の言葉に耳を傾けようとしない受付嬢は、今にも応援を要請しようと受話器に手を掛けている。万事休すかと思われた直後、階段からこつこつと床のタイルを鳴らして此方へと歩み寄ってくる何者かの足音がホール全体に響き渡った。
「彼は怪しい者じゃないよ。私が対応するから、通してやって。」
「アンダーソンCEO……。」
耳馴染みのある透き通るような声に顔を上げれば、そこには、腰に手を当てて自慢のブロンドヘアを掻き上げながら、凛とした佇まいで俺を手招きする警備会社・GBSのCEOであるアイーシャの姿があった。そう、俺は彼女の助けを借りるため、新設されたばかりのGBSの日本支社ビルにやってきたという訳だ。
「ケンシン、事情は聞いているよ。付いて来て。」
「うぉ、っと……。」
社内へと通じる道を阻むセキュリティゲートを隔てて、アイーシャはこちらへ向かってICカードが入った紐付きのパスケースをこちらに投げ渡す。それを反射的に両手で受け止めて、パネル部分にカードを翳せば、ゲートは俺を正式に客人として認めたようで、その大口を素直に開く。唐突な社長の登場に狼狽して、正体不明の俺を怪訝そうに見つめる受付嬢の視線に居た堪れなくなり、引き攣った笑顔で会釈をしてその場から逃げるように、ヒールを鳴らしながら踵を返してさっさと歩き出してしまう彼女の後を慌てて追いかけた。
§
階段を1つ上がって、フロア奥の比較的小さな応接室に通されると、温かいコーヒーと心美を思い出させる真っ白なタオルが手渡される。俺はアイーシャに礼を言って、一心不乱に髪や顔に纏わりついた雨水を拭う。
「ココミは昨日から食事も喉を通らないって聞いてね。独りにしたら何をするか分かったもんじゃないって言うから、ヒナちゃんには自宅で彼女を支えてもらってる。」
聞けば、陽菜は不安定な精神状態の心美を独りにすることは危険だと判断したため、アイーシャに相談したところ「恩人を助けることも立派な仕事」だと言って自宅勤務を命じたそうだ。友人らの温情を有難く思う一方で、
「辛いのは君も同じだろうけど、今は我慢の時期だからね。誤解は必ず解けるから、それまで君もめげずに頑張るんだよ。」
「わ、分かってます……。」
俺の肩に添えられたアイーシャの掌とその言葉から伝わる温かさに、再び感情が込み上げてきそうになるのを必死に堪える。
「それで、私は何をすれば良いの?」
「えっ……?」
「君が何の目的もなく昼間からうちを訪れる訳ないと思うけど。違うの?」
その通りだ。だが、日本支社の発足以来、誰よりも熱心に仕事に打ち込んでいるアイーシャは相当忙しいはずなので、面会に応じてもらえるかどうかすら半信半疑だった。それなのに、眼前の彼女はまるで「手助けすることは当然」とでも言いたげに平然と用件を尋ねてくる。
「良いんですか。ちょっと込み入った事情があるんですけど……。」
「構うもんか。君たちが私を助けてくれた時、何の見返りも求めずに命を張ってくれたこと、今も変わらず感謝してるんだよ。ココミやケンシンが助けてくれなければ、今のヒナちゃんや私も居ないんだから。助力を惜しむようなこと、する訳ないじゃない。」
どうやらアイーシャは、金銭報酬を
「ありがとうございます。実は、俺と心美が巻き込まれている今回の事件は、先の事件とも密接に関係しているんです。」
「えっ、どういうこと……!?」
オーストラリアで心美を捕らえるために犯行予告状をGBS関連施設にばら撒いていた中国スパイが日本侵攻に向けて、今後は首相暗殺という形で動きを見せていること。探偵である心美を殺害することを諦めたものの、暗殺事件への介入を阻止するため、俺との仲を引き裂くことで精神的に追い詰めた上で無力化させたこと。目下逃亡中の暗殺犯を確保するため、意識不明の重体となっている首相に代わる影武者を立て、暗殺は失敗だったことを中国スパイにアピールして再び襲撃させるように誘導する計画があること。その他そのような考えに至った経緯などを、十数分にわたって懇切丁寧に説明した。
「それは確かに、複雑だね……。」
「国民の目を欺くほど精巧な影武者を用意して逃亡犯を誘き出した後、2度目の銃撃を阻止しつつ犯人を確保するという芸当を成し遂げるためには、アイーシャさんのお力添えが不可欠なんです。」
「勿論だよ。まずは、総理大臣そっくりの偽物を仕立て上げる方策を練らないとね。」
指の関節を鳴らして、カジュアルなシャツの袖を
「3Dプリンタを使えば、陸奥首相の顔を再現した特殊マスクを作ることができる。継ぎ目や髪型は包帯とかで隠してしまえば良いから、彼を模倣すること自体はそこまで難しくない。」
「なるほど。なら問題は、首相の生存を世間に知らしめた後に、再び息の根を止めようと襲い来るスパイをどのように捕まえるのかですね。」
「あぁ。都合良く犯人を誘い出すためにはある程度隙を見せなければいけないけど、油断し過ぎると今度こそ死者が出る。一発で確実に犯人を取り押さえられるように、綿密な計画が必要だね。」
俺がアイーシャの力を頼った主な理由はそこにある。東條の所属する警察の人海戦術によって、いくら警備を固めることはできても、徒に犯人を警戒させることになるため逃亡犯を誘き出すには至らない。そこで、民間の警備会社であるGBSから人手を借りることができれば「死の淵から生還して勇敢にも街頭演説の場に戻ってきた陸奥首相」を一目見ようと集まる聴衆に警備員を紛れさせて、スパイに気取られることなく厳戒態勢を敷くことができるだろう。
「とにかく、事態の全貌は大体把握したよ。社内で作戦を共有して、逃亡犯確保に向けて協力してくれる社員を募ってみることにするから、一晩だけ時間をもらってもいいかい?」
「本当に良いんですか? アイーシャさんの会社は、日本での事業を軌道に乗せるための繁忙期の真っ只中だってのに……。」
彼女の申し出は願ってもないことだが、過去の恩義に報いようとするあまりに無理をしてもらっても、こちらとしては申し訳ない。
「水臭いこと言ってないで、お姉さんに任せなさい。それに、この国で事業を営む者として、日本の政情不安は見過ごせないからね。」
「本当に、ありがとうございます……。」
「距離はないけど、この天気だ。送って行くよ。」
何処かいつもの調子を取り戻せていない俺を元気付けるためか、肩をばしばしと強く叩きながらも慈しみ深い笑みを浮かべるアイーシャの言葉に甘えて、俺は自宅まで彼女の車で送ってもらった。
ゆっくりと市街地を走る車の助手席に座って、車窓を叩く小粒の水滴を眺めていると、鬱屈とした気分に拍車が掛かるようだ。俺は頭を振って、何も考えまいと必死に邪念を振り払う。そんな俺の奇行を見ても、アイーシャはただ黙ってハンドルを握り締め、余計な質問をしてくることもなかった。今の俺には、それが何より有難かった。
§
当然ながら誰も居ない、だだっ広い事務所に帰還した俺の身体には、柄にもなく必死に頭を使ったことで疲労感がどっと押し寄せる。黒雲に覆われた空模様からは分からなかったものの、ふと壁掛け時計を見遣れば時刻は既に19時を回っていた。
暗い部屋に響き渡る小さな雨音にすら掻き消されてしまうようなか細い溜息をひとつ、雨風によって冷えた身体を温めるために風呂に入って、最低限の食事を済ませて布団に潜れば、いつも隣に居るはずの恋人が居なくなった大きなベッドを意識して、改めて孤独を感じる。それでも、昨日も眠れないまま夜を過ごしたため憔悴した脳は素直に夢の世界を受け入れているようで、碌に抗うことも出来ないまま、俺はいつの間にか目を瞑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます