Ep.71 影武者

「やはり、明星の身元特定や首相暗殺に繋がる証拠は残されていないようですね……。」


 蛻の殻と化した部屋を隅々まで捜索したものの、東條の言った通り、過去の事件から導出した明星の正体と暗殺未遂犯の行方を探るためのプロファイリングを裏付ける有力な手掛かりは、何1つとして存在しなかった。


「とはいえ、綺麗さっぱり痕跡を残さずに姿を消したということは、明星に何か後ろめたいことがあるからに他なりません。ある意味、こそ、彼女が中国スパイの一味として首相暗殺に加担していたという1つの情況証拠であるとも言えるかと。」


「少なくとも、茉莉花女史と岩倉さんの仲を引き裂いて早々に行方をくらませたということは、明星がここに引っ越してきた目的が、有能な探偵を精神的に追い詰めて、あわよくば首相暗殺事件から遠ざけるためだったという可能性が一気に高まりましたね。」


 中国スパイが心美の探偵としての実力を疎ましく感じていることは、過去の事件からも分かっている。スパイ連中はオーストラリアでの一件を通じて、心美を殺すなり監禁するなりして物理的に無力化することは困難だと思ったのか、今度は精神攻撃によって心美を撹乱かくらんし、その隙に事件を引き起こしたというのが俺の見立てだ。


「しかし、参りましたね。首相暗殺の逃亡犯を追うための重要参考人も蒸発したとなると、我々にはもはや打つ手がありません……。」


「警察の方の動きは、どうなっているんですか……?」


 日本国家の威信と治安部隊としての体裁に懸けて、首相暗殺を実行した逃亡犯の行方については、東條たち警察も一所懸命に追跡しているはずだ。仮に俺たちの捜査活動が実を結ばなくとも、この狭い日本で未曽有の大事件を起こしておいて、そう易々と警察の手から逃れられる訳がない。


「暗殺事件発生地点──奈良県奈良市の付近には、大規模な捜査網を張っております。街の外へと繋がる主要道路では検問を敷き、街中には多数の警察官を配備してパトロールを実施しておりますが、今のところ収穫はないようです。」


 奈良県か。地方の激戦区にて応援演説中の銃撃だったとだけ聞いていたため、探偵事務所の近くでもある関東近郊を想像していた俺は、急いで脳内のイメージ図を切り換える。──とはいえ、俺自身今まで一度も奈良県に行ったことはないため、具体的な風景は浮かんでこない。


「岩倉さんのご助力がなければ、我々は犯人の正体や協力者の存在すら、未だ辿り着くことができていなかったでしょう。それでも、不甲斐ないことに、警察は逃亡犯の足取りを掴めていないままですが、国民に醜態を晒す訳にはいきませんから、表向きにはあくまで犯人逮捕は時間の問題であると虚勢を張っている状況です……。」


「このままだと、衆院選はどうなるんですか……?」


 手製の銃器を携帯した凶悪犯が世に解き放たれている現状において、もはや選挙は続行不可能であろうという俺の予想に反して、東條の返答は驚くべきものだった。


「このまま衆院選を中止にすれば、我が国の民主主義がテロリストの暴力に屈したと国民に示すことになりますからね……。諸外国への対外的な体裁を守るためにも、上層部は選挙を強行する判断を下すでしょう……。」


 眉間に皺を寄せ、遺憾の意を表す東條はいち警察官に過ぎないと理解していながらも、国民の安全を著しく軽視した度し難い警察の対応に憤慨するあまり、詰問せずには居られない。


「それって、選挙期間中はまた同じような街頭演説をする中で、政治家と観衆の命を危険に晒し続けるってことですよね!? 首相暗殺の犯人の目的が日本における親中政権の実現だったとしたら、今後も親中候補者の対抗馬になる保守派候補者は命を狙われるかもしれないんですよ!?」


 激昂して捲し立てる俺の言葉に、東條は何も言い返すことはなかった。思うに、彼も自身の上司に対して似たような抗議を試みたのだろう。暫しの間をおいて、決まり悪い顔に一筋の汗を流した東條は咳払いをひとつ、努めて冷静に話を切り出す。


「とにかく、こうなってしまった以上は現状に文句を言っていても仕方ありません。何でも良い。一刻も早く逃亡犯を捕らえるため、持てる情報を総動員して一計を案じるのみです。」


 簡単に言ってくれるが、警察組織が一枚岩となって捜索に当たっているにもかかわらず、未だ発見に至っていない謎の逃亡犯を心美の力に頼ることなく見つけ出すのは容易ではないことくらい、東條も十分過ぎるほど理解しているはずだ。


「それに、もし首相暗殺が本当に中国スパイの仕業であったとするなら、目的が達成されたと見るや否や、まずは国外逃亡を考えるのでは?」


 俺の指摘した内容については東條も懸念していたようで、大きく頷いてみせる。


「それでも、空港や港を封鎖することなどはできません。街の外に警備員やパトロールを配置することも、国民に対して『警察は逃亡犯の所在を掴めていない』とアピールするようなものですから、期待はできないでしょう。」


 ともすれば国家存亡の危機にも発展しかねない憂慮すべき事態だというのに、警察は国民のイメージばかり気にして悠長に構えている。正直なところ、俺は先程まで警察の力を信用していたこともあって、本気で事件を解決に導こうとは考えていなかった。しかし、どうやらここからは本腰を入れて逃亡犯確保に乗り出す必要がありそうだ。


「なら、一体どうすれば……。」


 今頃、まだ人生で一番付き合いの長い俺に裏切られたと思い込んで泣いているだろう心美のことを思い浮かべる。彼女だったら、この絶望的な状況をどのように切り抜けるのだろうか。彼女はいつも、俺が考えも付かないような奇想天外な方法で幾度となく難事件を解明してきた。そんな彼女を誰よりも近くで、誰よりも長く見てきた俺ならば、何か妙案を捻り出すことができないものか。


「今までの事件、心美はいつも危険だと分かっていながら、それを顧みずに堂々と正面から立ち向かっていった……。」


 目を閉じて、瞼の裏に英姿颯爽とした愛しい恋人のことを思い出していると、まるで天啓にうたれたかのような衝撃が全身を駆け巡った。


「そうか! 東條さん、逃亡犯を追うのはもう止めにしましょう!」


「は、何だってそんな……。」


「追うのではなく、誘き出すんです!」


 逆転の発想により生み出された俺の考えはこうだ。まず、体裁の維持を気に掛けている警察がメディアに対して、総理大臣の容態について詳しい事情を公表していないことを逆手に取り、銃撃を受けて瀕死の重体となっている総理と瓜二つの替え玉を立てる。次に、これからも続く衆院選の街頭演説に用意した影武者を登壇させる。すると、政権掌握を目論む中国スパイは暗殺は失敗したのだと錯覚するため、偽の総理大臣を狙った銃撃事件を再び仕掛けようと舞い戻ってくる可能性が高く、そこを狙って襲撃犯を捕らえようという寸法だ。


「この作戦の難点は主に2つです。1つは、誰に総理大臣の影武者を任せるのかということ。」


「確かに、そう都合良く背格好や顔つきの似た人間を用意できるとは限りませんし、命の安全が保障されない役回りを引き受けてくれる人物が居るかどうか……。」


 尤も、その点については俺にがある。問題なのは、次の事項だ。


「もう1つは、作戦失敗が即ち、二度と国民の信用を取り戻せなくなることを意味しているということです。犯人を誘き出すためには、向こう側がある程度暗殺を実行しやすいように敢えて隙を見せる必要がある一方で、もし影武者まで銃撃されてしまえば、一度ならず二度までも首相暗殺を許した無能として、警察の信用は不可逆的に失墜するものかと。」


 要するに、場当たり的な思い付きにより立案された俺の作戦は、諸刃の剣と呼ぶべき危険なものなのだ。犯人逮捕と共に国民の信頼を取り戻すためには、たった1人の犠牲も許されない。


「分かりました。このまま足踏みしている訳にもいきませんからね。岩倉さんの作戦に乗りましょう。」


「あ、ありがとうございます……!」


 意外にも東條は、すんなりと俺の提案を受け入れた。一介の探偵助手の意見をベテラン警察官が無条件で鵜呑みにするという、その異様ともいえる物分かりの良さは、現況が如何に逼迫ひっぱくしているものかを雄弁に物語っていた。


「大仕事の前に、私は一度警視庁に戻って、事の次第を報告しに行かなければなりません。岩倉さんは影武者を立てるための、そのとやらを当たってみてくださいますか?」


 その言葉に首肯して、俺と東條は暗殺犯の協力者と見られる明星の部屋を後にして、それぞれ下準備に奔走するため、一旦別れることにした。マンションの外では、依然として肌に纏わりつくような煙雨が強風を伴って、俺たちの服を湿らせる。日中とは思えないほどに薄暗い曇天の下を確かな足取りで突き進み、俺は一目散にを目指していた。

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