探偵不在の大事件
Ep.70 宿敵の再来
「俺が事件解決に協力します!」
警視庁に所属する顔馴染みの年配刑事である東條によって、衆議院議員総選挙中に現職の内閣総理大臣が暗殺犯の凶弾に倒れたとの一報を受けた俺は、茉莉花探偵事務所の一職員として、相棒に代わり大事件の解決に乗り出すことを高らかに宣言した。
何もしないままで居たところで、昨日家を飛び出して行ってしまった心美のことばかり考えて、塞ぎ込んでしまうだけだ。今の俺には、頭の中から余計な思考を追い出して、心にゆとりを持つきっかけが必要なのだ。
「失礼ですが、岩倉さん。貴方は──」
「分かってます。凶悪犯の追跡において、名探偵の助手に過ぎない俺では力不足だと仰りたいんですよね。」
「決してそのようなつもりは……。」
選挙活動に際して与党出身候補者の応援演説中に銃撃された総理大臣は今なお死の危機に瀕しており、十分に殺傷力のある銃器を携帯した暗殺犯が街に身を潜めているとあって、警察は猫の手も借りたいほど躍起になっている。総力を挙げて捜索活動に当たっているとはいえ、その努力が実を結ばなかった時に備えた保険として、日本が誇る名探偵である心美の助力には大いに期待していただろう。心美の不在を知り、あからさまに肩を落とす東條に対して、俺は自らの考えを披露する。
「良いんです。でも、総理大臣を襲撃した犯人に繋がる手掛かりについて、俺には細やかながら心当たりがあります。」
「なんですって……!?」
先程まで事件の顛末すら知らなかった俺によって暴露された衝撃の事実に、警察として積年の見識を兼ね備えた東條も驚きを隠せない。
「さっき俺が話したこと、覚えてますね?」
「茉莉花女史失踪の経緯について、ですか……?」
その言葉に大きく頷いて、俺が不貞行為に走った動かぬ証拠だと勘違いしたまま心美によって撮影された写真を1枚、東條の座るソファの前に差し出す。
「ここに写っている女性を連れ歩いているところを目撃されたために、茉莉花女史は貴方のもとを去ったとのことでしたね。」
「えぇ。そしてこの女性こそが、事件解決の重要な糸口になるのではないかと踏んでいます。」
「はい……?」
唐突な顔馴染みの来訪に意表を突かれ、冷静さを取り戻した俺の脳裏にはたった今、ある1つの仮説が浮かんでいた。
そもそも、俺と心美が探偵事務所を構えている郊外の土地は交通の便が非常に悪い。電車やバスに乗ろうと思っても徒歩圏に駅はなく、この近辺に住まうのであれば車や自転車といった自前の移動手段が不可欠といっても良い。それなのに、あの忌々しい女性は最近になって周辺に引っ越してきたと言う反面、彼女を自宅に送り届けた際に見た限りでは徒歩以外の交通手段を持ち合わせていないようだった。さらに、女性の住んでいたマンションの部屋の内装は、荷解きも済んだと言っていたにもかかわらず、まるで生活感のない陰気臭さがあった。
「俺の考えが正しければ、この女性は何らかの目的があって意図的に俺を狙って接近してきた。そして衆院選中の首相暗殺未遂の発生、タイミングが良過ぎると思いませんか?」
「どういうことですか……?」
「つまり、ともすれば警察よりも厄介な存在たり得る心美の動きを封じるため、
意気軒昂たる態度で十分に信憑性のある推論を立てた俺を見て、東條は目を丸くしている。
「な、なるほど。御見逸れしました……。失礼ながら、以前仕事でお会いした時は年相応の半人前といった印象でしたが『男子三日会わざれば刮目して見よ』とは、良く言ったものです。」
「誰よりも近くで心美を見てきたんです。俺だって、いつまでも天才探偵様の腰巾着では居られませんから。」
いずれにせよ、これは好都合だ。総理大臣暗殺の一味である可能性が浮上した例の女を追えば、事件に関連する情報を入手することが期待できる上に、心美に自らの潔白を信じてもらうための証拠を見つけ出すことができるかもしれない。東條と俺の利害関係は、奇しくも一致したという訳だ。
「この女性の家なら、ここからそう遠くない場所にあります。早速向かいますか?」
「そうしましょう。もはや一刻の猶予もない。」
カレンダーを見遣れば、今日は日曜日のようだ。女性が自宅に居る可能性も比較的高いだろう。逃亡犯確保に向けて方針を立てた俺と東條は、因縁深い女の自宅マンションを捜査するため慌ただしく立ち上がって玄関で外履きに履き替え、依然として降り止まない雨の中を早足で歩み始めた。
§
「共用玄関、どうやって突破しましょうか……。」
女の住まう部屋番号は当然知っている。だが、警察を引き連れて再び舞い戻ってきた俺が何食わぬ顔で共用玄関のインターフォンに部屋番号を入力して、馬鹿正直に「開けてください」といったところで、女が素直に応じるとは到底思えない。まして、予想通り女が首相暗殺に関与している何者かだった場合は、相手の警戒心を徒に煽るだけだ。
「問題ありませんよ。」
そんな俺の懸念を歯牙にも掛けずに、東條は適当な番号を押して呼び出しボタンを迷わず押した。
「ちょ、何してるんですか!?」
「いいから、黙っていてください。」
程なくして、東條によって呼び出された部屋の主がインターフォン越しに応じる。
──はい、どちら様でしょうか?
「私は、こういうものです。少々お伺いしたいことがございますので、ご協力願えませんか?」
──警察……? 何かあったんですか?
「話は中でさせてください。」
東條は備え付けのカメラに警察手帳を翳して身分を明かすと、住人は訝し気に声色を変えるも、最終的に共用玄関の扉を開錠してくれた。捜査一課所属である橘や平野といった捜査官ならいざ知らず、警備部警護課からやってきた東條の
透かさず扉を開いて堂々と歩き出す東條に黙って付き従っていくと、向かった先は1階最奥に位置する女の部屋ではなく、その1つ手前だった。再度玄関前のインターフォンを押すと、出て来たのは30代前後と思しき、眠そうに欠伸をする男性だった。
「突然お邪魔してすみません。」
「いえ。それで、聞きたいことって……?」
どうやら男性は、先程東條が共用玄関で呼び出した住人と同一人物のようだ。半開きの扉から不安そうな顔を覗かせる男性を安心させるように、東條が話を切り出す。
「貴方の隣の部屋に、最近若い女性が入居したかと存じます。彼女について、何か知っている事はありませんか?」
「は、はい……?」
突拍子もない警察からの質問に、男性は寝耳に水といった表情で聞き返す。
「何時から隣に住んでいるのか。彼女の第一印象や会話の内容、出会った時間など、些細なことでも構いません。」
その言葉に、男性はゆっくりと記憶を探るように時折上を向きながら口を開く。
「彼女──
明星──それがあの女の苗字らしい。昨日は心に余裕がなかったため視野が狭くなっていて気付けなかったが、隣の部屋の玄関前に掲げられた表札を見遣れば、そこには確かに「明星」という氏が記載されていた。
「学生なのか、はたまた社会人なのかは分かりませんが、朝家を出る時間は良く被るので顔を合わせることも何度かありました。その時は『おはようございます』とだけ。特に変わった様子もなかったと思いますが、彼女、何かに巻き込まれてしまったんですか……?」
──突然警察が自宅までやってきて、隣人に関する情報を洗い浚い提供しろと持ち掛けた。そんな非日常的な出来事に直面しておきながら、明星が「加害者として何らかの事件に関与しているのではないか」と疑うこともなく、むしろ「被害者として危険に直面しているのではないか」と心配する男性の言動からは、明星がいかに近隣住民との間で良好な関係を築いていたのかが分かる。だが、その明星から面と向かって悪意の矛先を向けられ、首相暗殺に彼女が関与していると疑い始めた俺にとっては、それがかえって不自然に感じられた。
「本当に何も変わったことはなかったんですか? どんなに小さなことでも、疑問に思ったことや違和感を覚えたことを包み隠さず教えてください!」
堪らず横槍を入れる俺に対して、男性は不信感を露わにする。
「あの、失礼ですが貴方は……?」
スーツ姿の東條はさて置き、涼し気な半袖Tシャツにジーパンを合わせた私服を身に纏った若造である俺に対する男性の態度は懐疑的だ。そこで、見兼ねた様子の東條が割って入る。
「彼は私の仕事仲間のようなものです。お気になさらず。ですが、本当に不審な点は何もないんでしょうか?」
念には念をと、最後の質問をする東條に対して、男性は溜息と共に絞り出すように答える。
「まぁ。強いて言うなら、時折隣の部屋から日本語ではない声が聞こえることですかね……。」
「……!」
「うちのマンションは壁が薄いんで、隣人の声が聞こえてくることも珍しくないんですよ。明星さんの部屋の方から、たまに中国語っぽい発音の別の言語で誰かと会話する声がするんです。見知らぬ人が部屋に出入りするところは見たことがないんで、おそらく海外の友人と電話でもしてるんじゃないですか……?」
「それだ……! ご協力感謝します!」
男性の証言に確信を得た俺に対して、東條はいまいち得心が行っていないように首を傾げる。俺の独断によって、数分間にわたる質問攻めから男性を解放して扉を閉めると、東條に自らの考えを披露する。
「今回の首相暗殺未遂には、やはり明星が関与している可能性が高い。そしてその正体は、中国政府の組織から送り込まれたスパイ集団だと考えられませんか……!?」
「ま、まさか……。スパイによる日本侵攻計画があったことと栄泉リゾーツでの貴方のご活躍は私も耳にしましたが、もう随分と前の話ですよね。『スパイ防止法』も発効した中で、どうしてそう言い切れるのですか……?」
明らかに狼狽している東條に、俺は説明を続ける。
「東條さんがご存じないのも無理はありませんが、俺と心美は栄泉リゾーツの一件以来、水面下で中国スパイの日本侵攻計画を再三にわたって
「なんですと……。」
「おそらく、首相暗殺の狙いは中国による日本の政権掌握ではないでしょうか。保守派政権である与党議員の当選を後押しする旗振り役を担う首相を殺して、選挙の舞台から引き摺り下ろして勢いを削ぎ、衆議院における議席数を減らす。そしてあわよくば、親中派の議員を多数当選させて議院内で過半数の議席を取ることが叶えば『スパイ防止法』を廃止に追い込むための立法措置すら、合法的に取り得ることになる!」
現に、今回の衆院選では過激な主義・主張をSNSなどのプラットフォームを通じて効率的に世に広め、影響力を拡大している泡沫候補・政党が乱立しており、選挙の趨勢は混沌を極めていると聞く。その最中に発生した首相暗殺は、衆議院解散の契機となった与党政治家のスキャンダルの数々も相俟って、国民から既存の保守政権に対する信頼を失墜させるには十分過ぎるほどだった。
「考えてみれば、明星は心美に精神攻撃を仕掛けて事件から遠ざけるため、俺たちの住処を知っていた上で引っ越してきたはずです。探偵事務所の場所を知っているのは、過去に仕事を持ち掛けてきた依頼人や東條さんのような警察関係者を除けば、中国スパイを置いて他に居ない!」
「わ、分かりました。とにかく、岩倉さんの推理が的を射ているものかどうか、確かめてみなくてはなりません。行きましょう。」
東條は数歩進んで、中国スパイとの関係性が急浮上した明星の部屋の前に立って、インターフォンを押す。しかし、どれだけ待っても一向に反応はなかった。
「明星さん、ご在宅でしょうか!?」
直接の呼び掛けにも返答はなく、痺れを切らした俺は思い切ってそのドアノブに手を掛けた。
「あ、岩倉さん!」
どうせ施錠されているものと思って力を籠めずに手を掛けた扉は、意外にもすんなりと開かれた。だが、その先に広がっていた光景は俺たちの期待に沿うものではなかった。
「何も、ない……。」
もともと殺風景だった部屋の中は、最低限の家具や日用品すら引き払われ、完全に
「くそっ! 遅かったか……!」
早くも尻尾を掴みつつある首相暗殺における逃亡犯の正体だが、その足取りを特定するための糸口を探るために明星の自宅へと押し入った俺たちの前に、目ぼしい手掛かりは残されていなかった。このままでは暗殺計画の実行犯にまんまと逃げ切られてしまう。そうなれば、政府与党への信頼は地に堕ち、日本政権の転覆に伴う親中政権の誕生を画策しているであろうスパイ集団の目論見通りとなってしまう。中国スパイによる民主主義への挑戦を
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