Ep.69 遅効性作用
心美の居なくなった広い事務所の片隅で、俺は生気を吸い取られて魂を失ったかのように、寝食を忘れてソファに座ったまま茫然と床を見つめていた。真夜中の静まり返った部屋の中とは裏腹に、野外ではまるで俺の心模様を映し出しているかのように、春嵐が大雨を伴って桜の木から花弁を巻き上げている。何物にも代え難い大切な恋人を失ったことで、俺は己の短い生涯において味わったこともないほど深い悲しみに打ち拉がれ、何も考えることが出来ていなかった。
「……。」
心美は帰宅が予定よりも大幅に遅くなった一昨日から、俺の周囲に別の女の影が潜んでいることに気が付いていた様子だった。そして今日──正確には日付を跨いで昨日だろうか、不貞行為を疑った彼女は日課の買い出しに出掛けた俺を尾行して、その証拠となる写真を撮影した。尤も、俺は何と言われようが心美のことを誰よりも深く愛している。それを証明するためならば、自らの命を捧げることさえ厭わない。だから俺は心美に詰め寄られたあの場で、彼女に対して反証する機会が欲しかった。
せめて俺を口汚く罵ってくれれば、面と向かって「死ね」とでも言ってくれれば、申し開きをするきっかけが得られたかもしれないのに。結局のところ心美は、恋人に裏切られたという苦痛を1人で抱え込んで、自らを傷つけたはずの俺を恨んで傷つけ返そうとはしなかった。俺はそんな彼女の諦念の境地に達したかのような涙にたじろいでしまい、咄嗟に後を追うことが出来なかった。
「っ……。」
俺の脳裏に浮かぶのは、自分を不埒な浮気者に仕立て上げた謎の女性のことばかりだ。一体何の目的があって、俺と心美の仲を引き裂こうというのだ。まさか見ず知らずの俺のことを恋愛対象として略奪してやろうという訳ではなかろう。どれだけ記憶を辿ろうとも、あの女性とは本当に面識がない上に、こんな絶望を植え付けた張本人である彼女に対する俺の心証は最悪だ。憎んでも憎み足りない。
「ここみっ……。」
俺は一晩中、薄暗い部屋の中で静かに涙を流し続けた。1時間毎に彼女のスマホに電話を架けても、メッセージを送ってみても返答はなかった。身の潔白を証明することも
§
それから一睡もすることが出来ないまま、カーテンを閉め忘れていた窓から薄らと差し込む太陽の光によって、漸く朝を迎えたことに気が付いた。涙が枯れ果てるまで泣いた俺と同じように雨脚は次第に弱まっているものの、依然として大粒の雫が窓を叩き続けている。心美が何処に行ってしまったのかは分からないが、せめて曇天から降り注ぐ紫外線を避けられるような場所に居てほしいと願うばかりだ。そんなことを考えていると、不意にテーブルに置いたままで充電が切れかけていたスマホの液晶が点灯して震えだす。
「まさかな……。」
心美が連絡を寄越してくれたのではないかという一縷の望みに縋って画面を見遣るも、俺の期待は敢え無く外れてしまう。だが、画面に表示された意外な人物の名前に、俺は迷わず着信ボタンをタップした。
「もしもし──」
「岩倉くん……!? やっと繋がった! 心配したんですよ!?」
電話口に出た声の主は、心美との共通の友人・菊水陽菜だった。
「やっとって……?」
「夜通し何度も電話を架けたんですよ? 気が付かなかったんですか?」
篠突く雨と強風の音に掻き消された着信音は、絶望に呑み込まれていた俺の耳には届かなかったようだ。
「ごめん、それが──」
「事情は知ってます。心美ちゃんは、うちで預かってますので。」
なんと、心美はここを飛び出して陽菜の家へと転がり込んだらしい。彼女の無事を知らされた俺は一先ず安堵するも、心美から事の顛末を聞き及んでいるという陽菜の言葉に委縮する。今度こそ慎重に言葉を選んで、何とか誤解を解くよう努めなくては最後の頼みの綱が失われてしまう。
「信じてくれ! 俺は誓って浮気なんて──」
「それも分かってますよ。あんなに幸せそうだった岩倉くんが浮気だなんて、何かの間違いだって言ったんですけど、心美ちゃんも相当切羽詰まってるみたいで塞ぎ込んじゃって……。」
俺はまたしても弁解の機会を得られないまま糾弾されるものだとばかり思っていたため、先手必勝、大慌てで誠意を伝えようと声を荒らげるも、陽菜は俺の言い分を聞くまでもなくあっさりと信用してくれた。とはいえ、俺が見ず知らずの女性と肩を組んで歩いていた現場を目撃した心美の猜疑心はそう簡単に払拭できるものではなかったようで、彼女は精神的にかなり参っているらしい。
「取り敢えず、何があったのか詳しく教えてもらえませんか……?」
「も、勿論だよ!」
俺はどのようにして心美に不貞行為を疑われるに至ったのか、事の次第をなるべく詳細に伝えようと直近3日間の記憶を総動員して口を動かし続けた。俺のたどたどしく拙い長話を、陽菜は邪魔することなく黙って聞いてくれた。
「そんなことが……。つまり、岩倉くんは悪意のある何者かによって
「そうなんだ。信じ難いだろうけど、第三者が徒党を組んで俺と心美を仲違いさせようと企んでいたことは明らかなんだ……!」
経緯を口に出して反芻すればするほどに、自分でもあり得ない出来事だと改めて思う。果たして陽菜にこんな空事のような主張が信用に足ると判断してもらえるのか、自信が無くなってきた俺は必死になって語気を強める。
「大丈夫! 岩倉くんは私の命の恩人ですから、ちゃんと信じてます。少なくとも、心美ちゃんを何の理由もなく悲しませるような人じゃないことくらい、分かってるつもりです。」
「う、うん……。」
動揺を隠せない俺の胸中を慮り、優しく諭すような声色で慰めてくれる陽菜の言葉に再び目頭が熱くなる。だが、ここで泣いてはいられない。心美の誤解を解くためにも、彼女の協力は必要不可欠だ。
「こうなったら陽菜ちゃんにしか頼めない。どうか俺の代わりに、心美に事情を伝えてくれないかな……?」
しかし、俺の期待に反して、陽菜から返ってきたのは消極的な反応だった。
「うーん。それは難しいんじゃないですかね……。」
「どうして……!」
「心美ちゃんは自分の目で岩倉くんの浮気現場を見て、確信を得た様子で悲観的になってます。そんな状態の彼女に何を言ったところで、確たる証拠でもない限りは体の良い言い訳として突っ
「そんな……。」
陽菜の理路整然とした考えは俺にとって非常に受け入れ難いものであったが、筋が通っていて認めざるを得なかった。とはいえ、かつて比喩的に「悪魔の証明」と称されたように、浮気をしていないなどといった消極的事実の証明は、想定され得るあらゆる可能性を虱潰しに反証する必要があるため、実質的に不可能である。
「どうあれ、一旦時間を置くしかないと思いますよ。心美ちゃんのことは私に任せてください。だから岩倉くんも、気を強く持って……!」
「分かったよ、ありがとう陽菜ちゃん。俺も自分なりに打開策がないか考えてみることにするよ。」
「その意気です。今までどんな難局も乗り越えてきた、相思相愛の2人じゃないですか。きっと何とかなりますから!」
「こんなこと俺が頼むのもおかしな話だけど、心美のこと、元気付けてあげてほしい……。」
その言葉に返事はなかった。どうやら、思いの外長電話をしていたようで、残り僅かだったスマホの充電は枯渇して電源が切れ、中途半端に連絡が途絶えてしまったようだ。依然として先の見えない複雑な窮状に立たされていることに変わりはないが、身近な理解者の存在はとても心強かった。
「そうは言ったものの、どうするべきかな……。」
悪天候の影響で冷え切った物静かな空気が再び部屋に充満して、改めて孤独を実感させられる。心美の信頼回復に向けて、何から取り組むべきかと漸く理性を取り戻した脳で思考を巡らせ始めた、その時だった。
──ピンポーン……。
静寂を破るように鳴り響くインターフォンによって、俺の意識は一気に現実へと引き戻される。一度考えることを止めて重くなった腰を上げ、突然の来訪者を迎えに玄関まで廊下を突き進む。
「どちら様でしょうか……。」
ドアを開け放った俺の前に立っていたのは、昨年の事件を思い出させるような黒いスーツを身に纏った老年の男性だった。されど、その立ち姿や顔つきには名状し難い覇気が感じられた。
「こちらは、茉莉花女史の探偵事務所でお間違えありませんな。」
「なっ……!?」
過去に探偵依頼を持ち掛けてきた者やその関係者を除いて、茉莉花探偵事務所の場所を知る人間はそう多くない。その言葉に思わず身構えるも、警戒心を露わにする俺の変化に気付いた様子の男性は慌てて懐から何かを取り出して目の前に突き付ける。
「失礼、申し遅れました。私はこういう者です。」
「貴方は……!」
年配男性の提示した身分証は、下部に黄金色に輝く「警視庁」の紋章が刻まれた警察手帳だった。そして、その上部に記載されていた名前と顔写真には見覚えがあった。全てを悟って開いた口が塞がらない俺の様子を見た男性は、険しかった表情を綻ばせて握手を求める。
「岩倉さん、4年ぶりですね。」
「
俺の言葉に首肯する年配男性は、名を東條
「何故、貴方がここに……。」
「話せば長くなります。少々お時間よろしいですか。」
「え、えぇ。どうぞ中へ。」
小気味良い音を響かせるドアベルを鳴らしながら玄関扉を閉めれば、雨音が遮断されて部屋には冷たい静けさが戻る。東條は差していた紺色の傘を丁寧に折り畳んで水気を切ってから傘立てに入れると、金属製の水受け皿に石突がぶつかって小さな音が木霊した。来客用のスリッパを用意して、すたすたと廊下を歩いてリビングに向かい、東條にソファに座るよう促してから温かいジャスミン茶を淹れるために茶箱を開ければ、鼻腔を
「どうかされましたか? 茉莉花女史もご在宅でないようですが……。」
「こちらも話せば長くなります……。」
俺は湯が沸くまでの間、陽菜に説明したよりも簡潔に心美が居なくなってしまった経緯を東條に伝えた。
「それは、何と申し上げたら良いか……。」
「お気遣い痛み入ります。でも本を正せば、簡単に付け込まれるような隙を見せていた自分の不徳の致すところです。」
歯を食い縛って流れ落ちそうになる涙を押し殺した俺は、東條の座るソファの前のテーブルにジャスミン茶の入ったカップを置く。しかし、軽く会釈をしてカップを手に取った東條は苦虫を嚙み潰したような難しい面持ちのまま硬直する。
「もしかして、ジャスミンは苦手でしたか?」
「滅相もない。ただ──」
考え直してみれば、警視庁の人間が茉莉花の探偵事務所に訪れるということは、何らかの仕事の依頼だというのは容易に見当が付く。それなのに、心美が不在だというのは東條にとって想定外だったのだろう。
「テレビをつけてみてください。」
「はい……?」
「いいから。」
東條に言われるがままテレビの電源を入れると、朝のニュース番組が物々しい異質な雰囲気で凶報を伝えている。無意識に画面上に大きく表示されたテロップに目を
──内閣総理大臣暗殺事件 容疑者逃亡
「は……?」
突拍子もない文字の羅列に驚いた俺は、思わず間抜けな声を上げてしまう。その真偽を確かめるために適当にリモコンのボタンを押せば、どのチャンネルにおいても同様のニュースで持ち切りだった。
──衆院選応援演説中に緊急搬送 容態は不明
──民主主義の根幹を揺るがす卑劣な犯行 凶器は手製の銃器か
「……。」
「もう結構。ここからは私から説明致しましょう。」
呆気に取られて言葉も出ない俺の持つリモコンを引っ手繰ってテレビの電源を切った東條は咳払いをひとつ、神妙な面持ちで話を切り出す。
「菊水元衆議院議員によって政界の汚職が暴露されたことで、つい先日、衆議院内で内閣不信任決議案が可決されたことはご存じでしょうか?」
「えぇ、勿論。」
陽菜の父で昨年まで衆議院議員を務めていた菊水次郎が自室倉庫に保管していたスキャンダルの証拠は日本中を駆け巡り、優先事項だった「スパイ防止法」が発行した今年に入ってから衆議院では漸く内閣不信任決議案が野党側から提出され、内閣総辞職に伴う衆議院の解散に際して、目下衆議院議員総選挙の真っ最中である。
「昨日の夕方、衆院選の最中に辞職間近の総理大臣が地方の激戦区にて、街頭演説中の与党出身候補者の応援弁士として出張していた時のことです。」
ジャスミン茶を一口啜って唇を湿らせた東條は、堰を切ったように話し始める。
「なんと、聴衆の中に紛れ込んでいた何者かが総理大臣の命を狙って銃撃を仕掛けたのです。総理は未だ生死の境を彷徨う重体だという情報も入っており、容疑者は今現在も逃亡中です。」
それはニュース番組によって報じられていた内容の要約に過ぎなかったが、警察関係者である東條の口から直接告げられたことで、否が応でも現実を認識させられる。
「それで、何故東條さんは
その言葉を待っていたと言わんばかりに、俺の目を真っ直ぐ見つめながら落ち着き払って説明を続ける。
「我々警視庁警備部警護課に属する要人警護専門のSPは、大失態を犯しました。突然の襲撃者に成す術もなく、総理大臣に瀕死の重傷を負わせた挙句、犯人も行方知れずのまま。このままでは我が国の威信と警察の
当然だ。総辞職を目前に控えた内閣の総理大臣とはいえ、民主主義の根幹である選挙期間中に行政の長が命を狙われ、殺人犯を取り逃がしたとあれば日本は再び内憂に揺らぎ、ひいては選挙結果にも計り知れない影響が及ぼされる危険性がある。──というか、東條は今現在警視庁の警備部に所属しているのか。彼がこの探偵事務所にやってきたのは、差し詰め部下の不始末の対応に奔走している中間管理職が故だろう。
「無論、我々も可及的速やかな犯人確保に向けて、既に動き出しています。ですが、迅速な事件解決によって国民の信頼を少しでも回復するためには、あらゆる手段を尽くさなければならない。そこでプランBとして、茉莉花探偵の御力を拝借したく馳せ参じたという次第なのですが……。」
ところが、肝心の名探偵である心美の姿がなかったことに落胆を隠せない様子の東條に、俺は堂々と言い放つ。
「なら、俺が事件解決に協力します!」
衝動的な決意に突き動かされるように言い放った俺の申し出に、東條は目を丸くしてジャスミンを口に運ぶ手を止めて茫然とこちらを見つめていた。
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