Ep.68 探偵特効のハニートラップ

 翌々日の夕暮れ時、俺は夕飯の食材を買い足しに行くためトートバッグを肩から下げて、今にも自宅を出発しようとしていた。リビングで温かいジャスミン茶を啜りながら、お気に入りのミステリー小説を読み耽って寛いでいるであろう心美に大声で呼び掛けようとした瞬間、当の彼女はどたどたと慌ただしい足音と共に玄関まで廊下を駆けてきた。


「丁度良いところに。これからちょっと買い物行って来るから留守番頼──」


「私も行く……!」


 窓から槍とでも言うべきか、心美は高々数百メートル先の近所のスーパーに日課の買い物に行くだけだという俺に同行すると申し出る。見れば彼女は、普段着ているような過ごしやすさを重視した薄手のルームウェアから、紫外線対策万全の厚手の外着に着替えている。


「な、なんだよ突然……。」


「別に、何でも良いでしょ……?」


 決まりが悪そうに誤魔化しながらも、確固たる意志をその紅い瞳に宿している。俺は愛してやまない心美と1分1秒でも長く一緒の時間を過ごせるというだけで心が躍るし、そんな彼女の申し出を諸手を挙げて歓迎したいと思うのが本音である。だが、心美のことを大切に考えているからこそ、ここで首を縦に振る訳にはいかないのだ。


「あのな、心美。お義父さんの事件からまだ半年も経ってないんだ。正月の殺人事件もあったことだし、メディアは未だ何処もお前の話題で持ち切りだ。余熱が冷めるまでは、なるべく目立たないように暮らしていこうって決めたろ?」


「でも……。」


「分かってくれ。俺たちの住処が世間にバレれば、いよいよ本当に引っ越しすることになるぞ。お義父さんの遺産も方々に寄付しちまったから散財はできないんだぞ……?」


「うぅ……。」


 そうなのだ。著名な資産家だった大善氏の遺した財産を動機として殺人事件が発生する事態にまでなったため、いつまでも大金を手元に置いておくことに不安を抱いた心美は結局、相続した多額の遺産のほとんどを匿名で各所に寄付してしまったのだ。出所を明かさずにあまりにも高額の寄付をしてはかえって怪しまれてしまうと危惧した俺たちは、人権団体や環境保護団体、果ては国際人道支援団体など、世界中のあらゆる寄付先に満遍なく財産を譲渡したため、金は手元にほとんど残っていない。


 斯く言う心美はここでの生活を気に入っているようだし、気の置けない友人たちとも晴れてご近所同士となれたことだ。我が探偵事務所の財政事情を抜きにしても、そう易々と転居することは望ましくない。


「成る丈早く帰って来るようにするよ。帰ったら一緒に夕飯作ろうな。」


「……。」


 心配性の恋人の手を取って、その細くしなやかな指先に軽く触れるようなキスを落として顔色を窺うも、彼女のおもてから不安の色は消えない。そんな彼女を1人家に残して出掛けることに、得も言われぬ罪悪感を覚えるも、俺は可及的速やかに用事を済ませて帰宅しようという方向に決心してしまう。──その違和感の正体に、真摯に向き合っていれば。


「暗くならないうちに、急いで行って来るよ。」


「いってらっしゃい……。」


 踵を返して玄関扉を開く俺の背中には、黄昏時の夕闇に溶けて消え入るようなか細い声が突き刺さった。俺は後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、振り返ることなく大股で敷居を跨いで外界へと飛び出した。



 §



 逸る気持ちに突き動かされるように歩を進め、いつもよりも数分早く辿り着いた日常的に通っている馴染みのスーパーの入口前には、俺と同じように夕飯の食材や日用品を買い求める主婦層を中心に盛況を呈していた。心美を連れて行かないという俺の判断は、やはり間違っていなかったようだ。それなのに、無性に焦燥感を掻き立てるこの胸騒ぎは、一向に収まる気配がない。


「とにかく急ごう……。」


 俺は入口の自動ドア前に群がる人混みに向かって直進して、買い物かごを掴むと店内を目指して人間の荒波に割って入る。せめて心美の機嫌を伺うために彼女の好物を作ろうかと思い付くも、彼女は好き嫌いなく何でも食べる。また特にこれといった食物アレルギーもないため、長年一緒に暮らしていて心美の好みの傾向を意識したことはない。


「まあ、帰ってから本人に直接聞いてみるか。」


 そう考えた俺は、肉や魚、野菜に果物といった生鮮食品を買い漁る。これだけ食材を買い揃えたなら、向こう数日間は買い物に行く手間も省けるだろう。朝食用にヨーグルトや牛乳などの乳製品も買い足しておけば万全だ。俺は重たくなった買い物かごを軽々と片手で持ち上げて、一直線にレジへと足を運ぼうと、多種多様な商品が置かれた陳列棚の角を曲がった。


 ──ドン……。


 その時、焦慮に思考が支配されて視野が狭くなっていたためか、すれ違いざまに他の買い物客と肩をぶつけてしまった。日頃から研鑽を積んでいるため、一般人よりも屈強な体躯を誇る俺によって通行人は蹌踉よろめき、後方に倒れ込んでしまう。


「すみません! 大丈夫で──」


 俺は慌てて謝罪の言葉を口にすると共に、眼前の通行人の無事を確かめようと手を差し伸べたその瞬間、その人影の正体に唖然とする。


「ありがとうございます。また、お会いしましたね。」


「あ、貴方は……。」


 何の躊躇もなく俺の手を取って立ち上がり、満面の笑みで礼を述べるのは、一昨日の丁度今頃の時間帯に出会った女性その人だった。オフショルダーのブラウスにショートパンツを合わせた露出の多い服装をした美女との奇妙な再会に喜ぶどころか、俺は咄嗟に身構えてしまう。その理由を問われたとしても、上手く言語化できる自信はない。しかし、俺の探偵稼業を通じて培ってきた人の本質を見抜く慧眼と本能的な洞察力が、目の前の女性と関わってはいけないと警鐘を鳴らしているのだ。


「お怪我はありませんか……?」


 もっとも、いくら俺が内心で身勝手な人間不信に陥ろうとも、この女性には責めに帰すべき何等の非もありはしない。不注意によってぶつかってしまった非礼を詫びつつ相手の無事を確認するのは、加害者として負うべき最低限の責務だ。


「えぇ。私は──いたっ……!」


 小さな悲鳴を上げて途端にしゃがみ込む女性の足元に視線を向けると、彼女が履いていたハイヒールの踵が折れていて、その拍子に捻挫してしまったのか、足首を擦りながら痛そうに顔を顰めている。


「ご、ごめんなさい! あぁ、どうしよう……!」


 だが当の女性は、思いの外深刻な事態に直面してあからさまに当惑する俺を安心させるように微笑みかける。


「そんなに大した事じゃないですよ……! ただ──」


 俺は眼前の女性に怪我を負わせてしまったという罪悪感から、彼女の要求を鵜呑みにせざるを得なかった。



 §



「家まで送って頂いてありがとうございます。本当に助かりました。」


「いえ、そんな……。怪我をさせてしまった俺のせいですから……。」


 陳列棚の近くで会話を繰り返しているうちに他の買い物客の注目を集めてしまったため、俺は早急に商品をレジに通して、歩けなくなってしまった女性に肩を貸して彼女を自宅まで送り届けるように頼まれた。その申し出を断るという選択肢が俺に残されているはずもなく、苛立ちを抑えながら足を引き摺って歩く彼女に歩幅を合わせて家に到着する頃には、すっかり日も落ちていた。


「それじゃあ、俺はこれで。」


 彼女の分の荷物を下ろして、玄関先で別れを告げようとすると、すぐに呼び止められる。


「あ、待ってください! もしよろしければ中でお茶でも如何ですか? 靴のお礼も出来ていませんから。」


 俺は彼女の履物を壊してしまったため、スーパーに隣接している日用品店で当座の間に合わせとして歩きやすそうなスニーカーを購入した。彼女はその代金を支払うといって俺を自宅に招き入れようとするも、流石にその申し出に応じることは出来ない。


「本を正せば俺の責任ですから、お金は受け取れません。」


「そんなことありませんよ。あれはほとんど事故だったじゃないですか。」


「で、でも……。」


「それにこのスニーカーのデザイン、私の趣味にピッタリなんです。きっと自分でも買っていたと思うから、代金はきちんと支払わせてください!」


 断固として譲らない女性の主張に押し切られて、これ以上の反論は無駄だと悟った俺は大人しく彼女に付き従うことにした。家で俺の帰りを心待ちにしている心美を思い浮かべると、赤の他人である女性の家に上がり込むことについて耐え難い罪悪感に襲われるが、一刻も早くこの場から逃れるためには仕方ないことだと己を納得させる。


「今お茶を淹れるので少々お待ちくださいね。」


「いや、足を痛めてしまったんですからお構いなく!」


「このくらい何ともありませんよ。お優しいんですね……。」


 女性の自宅は、彼女の整った身形には似つかわしくないとさえ思える、質素なワンルームマンションの1階だった。部屋の内装も引っ越してきたばかりとはいえ、若い女性の1人暮らしにしてはあまりにも殺風景だ。職業柄、些細な違和感でも一度気になってしまえば、その疑問を解消せずにはいられない。


「新居の居心地は如何ですか。もう荷物も片付いたみたいですね。」


「おかげさまで、とっても良い感じです。に教えて頂いたスーパーにも早速行ってみたら、またこうして偶然お会いする機会に恵まれて、素敵なプレゼントまで頂いちゃって、何だか運命みたいですね……!」


「なに……!?」


 活気に満ち溢れた声で、不気味な笑顔を絶やさないままに女性の口から告げられたのは、何と俺の苗字だった。彼女は床に座り込んで呆気に取られている俺の前のテーブルに煎茶の入った湯呑を置いて、挑発的な視線で舐るようにこちらを見つめる。


「あんた、何で俺の名前を……!」


「さあ。さっきお財布を出されていた時に隙間から免許証を盗み見てしまった、なんていうのはどうでしょうか……?」


 妖しげな眼光を放って淡々と返答する女性の反応を見て、予てから抱いていた不信感は奇しくも的中してしまったのだと確信した。もはや長居は無用。そう判断した俺は、透かさず立ち上がって別れの言葉を告げることもなく玄関へと直行する。彼女はそんな俺を呼び止めるでもなく、吐き捨てるように戯言を垂れる。


「一昨日は手応えがなかったので焦りましたよ。付き合いの長い恋人に飽きて女に飢えていると思っていたのに、期待していたよりも食い付きが悪かったものですから。それでも、早期段階で貴方の行動パターンが把握できたのは僥倖でした。おかげでの手筈も整った訳ですから……。」


「何を言ってる……!?」


「慌てなくとも、すぐに分かりますよ。」


 女性の放った言葉の端々からは、底知れぬ悪意が感じ取れた。突如として背筋に悪寒が走った俺は、急いで荷物を担いで彼女の家から飛び出して、不安感を掻き消さんと一心不乱に全力で心美の待つ自宅へと向かった。いつの間にか黒雲が空を覆い隠して、家路を走る俺の頬をぽつぽつと小さな水滴が叩いた。



 §



「心美、遅くなってすまん! ただいま……!」


 焦りと恐怖によって手が震え、鍵穴にうまく鍵を差し込めないことに苛立ちながらも漸く自宅に帰ってくることが出来た俺は、必要以上に大きな声で愛する彼女の名前を呼ぶも、返ってくるのは寒暖差が激しい春先の夜風の冷たさを改めて感じさせるような静寂だけだった。どういう訳か部屋の電気は全て消えていて、肝心の心美の気配も感じられない。


「心美……?」


「堅慎、おかえりなさい……。」


「うわ……!?」


 突如として背後から発せられた凍て付くように冷淡な声に驚いて後ろを振り返れば、家を出てからずっと会いたいと思い焦がれていた白髪の恋人が俯いたまま立ち竦んでいた。


「ど、どうしたんだよ。こんなところで……?」


 見れば彼女は、外履きを履いたままの状態で玄関扉を塞ぐように寄り掛かっている。俺が外出している間、彼女も何処かに出掛けていたのだろうか。


「ダメだろ。目立たないようになるべく外出は控えろっていったばかりじゃ──」


「それは貴方が私に隠れてをするためかしら!?」


 刹那、心美は俺に向かって数枚の写真を投げ付けた。そのうちの1枚が俺の頬を掠め、鋭利な紙の端によって肌が裂かれ、僅かに鮮血が飛び散る。俺は痛みも忘れて写真を拾い上げ裏返すと、そこに収められていた光景に絶句する。


「まさか貴方がこんな人間だったなんてね……!」


 それは、俺が先の女性を自宅まで送り届ける際に肩を貸して歩いていた最中の写真だった。


「待て……! これは誤解だ!」


「言い訳なんて聞きたくないわ!」


 心美は間髪入れずに、チャック付きの透明な小さい袋に入れられた1本の毛髪らしきものを俺に突き付ける。


「貴方は一昨日も帰りが遅かったけど、この毛髪は貴方が帰ってきた際に肩口に付いていたものよ。明らかに私の色ではないし、貴方の長さでもない……!」


「な、ちが──」


「それにこの匂い……! 一昨日も貴方は同じような匂いを纏って帰ってきた!」


 誤解を解く暇もなく俺を糾弾する心美は、次第に涙ぐんで嗚咽を漏らし始める。俺は彼女に泣いてほしくないがために距離を詰めようとするも、差し出した手は強烈な平手打ちによって叩き落とされる。


「信じたかった! だけど、居ても経っても居られずに貴方の後を付いて行ったら、スーパーを出て来た貴方は見知らぬ女性と一緒に歩いてた……!」


「心美……。」


「心の底から、愛してたのに……。」


 心美はそれだけ言い残して、勢い良く玄関扉を開け放って冷たい夜の闇の中に消えていった。俺にはその影を追うことが出来なかった。せめて罵詈雑言を浴びせてくれれば、俺は自分の脇が甘かったことを責めることが出来たのに。心美は優し過ぎるから、俺の浮気を疑っても最後まで汚い言葉で罵るような真似はしなかった。そのことが堪らなく俺の罪悪感を刺激する。


「一体、何が起きてるんだよ……。」


 放心状態で纏まらない思考の中でも唯一理解できるのは、俺は見ず知らずの女に悪意を以て嵌められたということだ。彼女の目的が何なのかは分からない。だが、漸く訪れた平穏を掻き乱す新たな脅威の足音が着々と近づいてきていることだけは確かだった。

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