Ep.67 布石

 季節は廻り、うららかな春の訪れを感じさせる暖かい日のこと。風光明媚な満開の牡丹桜が立ち並ぶ、川沿いの遊歩道を闊歩していた俺の頬を柔らかい風が撫でるように吹き抜けて、紙吹雪のように桜の花びらが宙を舞う。俺は自宅兼事務所で自分の帰宅を待ち続けてくれている愛おしい恋人の顔を思い浮かべ、彼女にとってはまた過ごしにくい季節が始まってしまったものだと、独り言ちる。


「それにしても、でっかい建物だなぁ……。」


 桜並木の隙間から顔を覗かせているのは、先日遂に竣工と相成ったアイーシャの経営する警備会社・GBSの日本支社ビルだ。地上60階まであったオーストラリア本社と比べれば流石に見劣りするものの、閑静な郊外の土地にひっそりと聳え立つビルは異質な迫力を放っている。


 これだけの高層ビルをたった数か月の間に建設できるものかと疑問に思って、アイーシャに聞いたところによれば、どうやら日本に支部を創設する計画は随分と前から構想段階にあったようで、建設工事自体は既に着手していたらしい。件の犯行予告状を巡る中国スパイにより惹起じゃっきされた事件の影響で、完成寸前まで進んでいた工事は中断されていたのだとか。俺は知らぬ間に近所で高層ビルの工事が進んでいたことに驚いたが、良く考えれば探偵としての仕事に明け暮れているうちに自宅を留守にすることも多かったため、全く気が付かなかったのも致し方ないだろう。


「今頃陽菜ちゃんとアイーシャさんは、あのビルで同僚として仕事に追われてるのか。何だか感慨深いな……。」


 新年度を迎え、晴れて大学を卒業した陽菜は、向こう暫く日本支社で陣頭指揮を執るアイーシャと共に、GBSの従業員として立派に働いている。何故か支社ビルの竣工の際には、部外者である俺と心美も内々で執り行われた落成式に参加させられたが、彼女たちの新たな門出を祝うのに良い機会となった。──その実、社の代表であるアイーシャが酒宴を催す口実が欲しかっただけだと、すぐに分かったのだが。


 とはいえ、職場環境は非常に良好で、陽菜はとても幸せそうだった。私服での出勤が可能な上、太陽に照らされて美しく輝く長めの茶髪を蓄えていた陽菜は、就職に際して髪を染め直すのに一抹の抵抗感を覚えていたようだったが、それも杞憂だったらしい。流石は新進気鋭の海外企業といったところか、自由な社風が成功の秘訣なのだろう。陽菜と同時に入社した同僚たちの顔も、皆一様に明るかった。


「平和だなぁ……。」


 人気の少ない川沿いの遊歩道を暫く歩き、穏やかな春の陽気に心が洗われていく。俺は少し休憩を兼ねて、ゆっくりとベンチに腰掛ける。友人・知人の笑顔に囲まれ、大好きな心美とひとつ屋根の下で平穏無事な生活を享受することが出来ているこの時間に感謝しながら、肩から下げていたトートバッグをベンチの片隅に下ろした。バッグの中身は、主に今日の夕食の材料だ。俺はたった今、日課の買い出しに出掛けたその帰路にて、気紛れに寄り道している最中なのだ。


「たまにはこういうのも、悪くないよなー……。」


 人前では決して見せられない、油断し切った状態で大きな欠伸をしながらベンチの背凭れに寄り掛かって全身で伸びをする。このまま目を閉じて小川のせせらぎに耳を澄ませながら、朗らかで心地良い春の日差しと嫋々じょうじょうたる優しい微風に身を任せていれば、いとも簡単に眠ってしまいそうだ。しかし、あまりにも長時間道草を食っていては、心美を心配させてしまう。そう頭では理解していても、一度力の抜けきった身体は地面に根を張ったかのように動かない。気が付けば、俺の瞼はゆっくりと視界を覆って、意識は闇に飲み込まれていった。



 §



「はっ……!」


 寝過ごしてしまったことに気付いて慌てて目を覚ますと、桜の花びらが浮かんだ川の水面に夕闇が反射して、情緒的で煌びやかな光景が広がっていた。普段であれば思わず心奪われてしまいそうな美しい景色だが、俺の帰宅を心待ちにしているはずの心美をひとり家に残したままだということに罪悪感を覚える今は、それどころではない。過保護だというのは百も承知だが、俺の短い生涯において、心美を1人きりにしてしまったことによる後悔は枚挙に暇がない。過去の自分と同じてつを踏む訳にはいかないのだ。


「急いで帰らなきゃな。」


 俺は脇に置いていたトートバックを慌てて手繰り寄せようとするも、昼寝明けの冴えない頭は思い通りに機能せず、手元が覚束なくなったことで食材が入ったバッグの中身を落としてしまう。


「あーくそ。何やってんだか……!」


 刹那、速やかに落とし物を拾い上げようと手を伸ばすと、何者かの手が重なり合って、驚きのあまり飛び退いてしまう。得も言われぬ苛立ちによって視界が狭まっていた俺の傍には、体格の良さには定評のある自分とほぼ目線の高さが変わらない長身の若い女性が佇んでいた。


「す、すみません。驚かせるつもりは……。」


 物腰柔らかに頭を下げる女性は、丁度在庫を切らしていたため買い足しておいた1リットル入りのオリーブオイルのペットボトルを俺に手渡す。すると女性は、落とし物を受け取ろうと差し出した俺の掌を両手で包み込むように触れるので、俺は反射的に手を引っ込めて礼を述べ、その場を立ち去ろうとした。


「いえ、謝るのはこちらの方です。ご丁寧にどうも。それでは──」


「この場所、素敵ですね。私、つい最近この辺りに越して来たばかりで。」


 女性はベンチに腰掛けて、俺の事情など露知らずゆっくりと話し掛けてくる。親切にしてもらった手前、彼女の話を無視することも出来ず、溢れ出る焦燥感を抑え込みつつ愛想良く返答する。


「え、えぇ。そうですね。この季節は特に……。」


「土地勘もなく苦労していたところ、綺麗な桜が咲いていたので、ここまで歩いてきたんです。本当に、心が洗濯されるみたいですね。」


 俺の目を見てにこやかに語り掛ける彼女は、目鼻立ちの整った顔つきに、桜色の背景が良く似合う美しい女性だった。スタイルの良さも相俟って、その見目麗しい容姿は一度目にしたら暫くは忘れられないだろう。尤も、今の俺には世界で一番美しく気立ての良い最愛の恋人が傍に居る。目の前の女性には悪いが、一刻も早く家路に就きたい俺は、別れの挨拶もそこそこに踵を返す。


「申し訳ない。急いでいるので、俺はこの辺で。」


「あ、待って──」


 女性は咄嗟に立ち上がって、今にも歩き出そうとする俺のもとまで駆け寄ってくる。


「お急ぎのところ引き留めてしまってすみません。もしよろしければ、この辺で手頃な食料品店なんかが近くにあれば教えて頂けませんか……? 不案内な新天地で、生活必需品を揃えるのも楽じゃなくって……。」


 唐突な女性の質問に拍子抜けしてしまう。確かに、見知らぬ土地で生活を始めようというのであれば様々な苦労があるのは想像に難くないが、今時は周辺に構えられた店の情報などインターネット上で検索するのが最も手っ取り早い。しかし、そんなことを敢えて口に出す必要はないし、先程の礼も兼ねてその程度の些細な情報を提供することはやぶさかではない。


「あぁ、それならお安い御用ですよ。俺も良く行くところがあるんで。」


 今日も自分自身が利用していた店舗の名前と簡単な道案内を済ませた俺は、今度こそ女性のもとを去らんと手を振って別れを告げる。


「それでは。さっきは助かりました。」


 すると、俺が言い放った別れの挨拶に女性は返事をするでもなく、こちらとの間合いを一気に詰めて、互いの吐息が感じられる距離まで顔を近づけてくる。その突然の奇行に、思わず身構えてしまう。


「花びら、付いてますよ?」


「っ! どうも、失礼します……!」


 俺の黒髪に纏わりついた薄紅色の花弁を摘まんで、女性は不敵な笑みを浮かべた。自らの美貌を誇示するかのように、わざとらしく首を傾げて口角を吊り上げながら急接近する彼女の仕草と謎の親切心のギャップに得体の知れない違和感を覚えた俺は、言い知れぬ怖気を感じて、逃げるようにその場を後にした。先程まで感じていた春の陽気は何処へやら、俺の背筋は正体不明の恐怖心によって完全に凍り付いた。



 §



 漸く帰路に就いた時には、既に太陽は地平線の向こう側に隠れようとしていた。トートバッグを肩に掛けて駆け足で来た道を戻り、家の鍵を開けて勢い良く扉を開けば、親の顔よりも見慣れた白銀を靡かせながら、今一番会いたかった人が忙しなく足音を響かせながら玄関まで駆け寄ってくる。


「堅慎、大丈夫……!? なんでこんなに遅かったのよ!?」


「悪い、心配掛けちまって。昼寝してたら完全に寝過ごしてさ……。」


 俺の下ろした荷物を受け取りつつ、不安そうにこちらを見つめる心美に対して帰宅が遅れた理由と経緯を説明する。だが、俺が足止めを喰らった要因の1つである不気味な女性との邂逅は伏せた。可能であればすぐにでも記憶から消し去りたかったし、いくら偶然の出来事とはいえ、恋人に向かって馬鹿正直に「外で女性と会っていた」などと言えるものか。


「夕飯も遅くなるかもしれない。本当にごめんな。」


「そんなこと……。堅慎に何事もなくて良かったわ。何度も電話したのよ?」


 玄関先で靴を脱いで、まずは心美に謝罪のハグをする。だが何故か、俺の背中に回された彼女の腕はいつもより元気がないように感じられた。それが妙に不安で、心美の機嫌を取ろうと季節外れの白雪に優しくキスを落とす。それでも彼女のリアクションは薄く、代わりに俺の右の肩口へと彼女の手が触れた感触があった。


「ん、なんだ?」


 心美を抱き締める腕を解いて、深紅の双眸を覗き込もうとすれば、露骨に目が逸らされる。


「い、いいえ。何でもないわ……。」


 そう言って誤魔化そうとする心美の顔には、形容し難い悲愴感にも似た色が浮かんでいるように見て取れた。

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