災難の埋め合わせ
Ch.5 ED 心願成就
橘と平野の好意に甘える形で温泉旅館まで車で送り届けてもらった俺たちは、一連の事件の犯人である新町の身柄を預け、諸々の事後処理を一任することにした。警視庁の捜査官たちは、凶悪犯確保の手柄を良いところで横取りする形となってしまったことに一抹の罪悪感を覚えていたようだが、生憎俺たちはそんなものに興味はない。心美も此度の事件にて、世間に持て囃されることが必ずしも良いことばかりではないと気が付いたようで、暫く目立ちたくないとぼやいていた。
新町は往生際悪くも容疑を否認し続けているというが、奴の犯行手段と動機の自供は3階の宿泊客全員が耳にしていた。複数人によって事細やかに伝えられた証言は矛盾なく並び立ち、新町を逮捕するに足る情況証拠は十分に揃った。また、被害者の1人・松原の友人である二葉は新町に突き飛ばされた際に尾骨と手首を骨折したらしく、傷害の余罪についても厳しく追及される方針だという。最低でも、向こう数十年は塀の外に出てくることはないだろう。
「もう、終わった話は忘れましょ。折角こんなに良い景色なんだから……。」
「そうだな……。悪い。」
凡そ1日ぶりに通電した旅館の露天風呂にて、俺たちは芯まで凍り付いた身体を温めるためにゆっくりと温泉に浸かっていた。
3階を封鎖していた防火シャッターも無事に開いて、奪われた財布を取り返すことも出来た。その一方、大雪の影響は県外にも波及していたようで、電波を拾い始めたスマホで確認したニュースによれば高速道路は一時封鎖されてしまったらしく、現在の交通状況を鑑みれば車で直ちに帰宅することは困難だった。そんな宿泊客たちの窮状を察してくれた旅館の従業員の好意によって、有難いことに俺たちは無料でもう1泊することを許可された。
さらに、遺体が放置されたままの状態で証拠保全のために閉鎖された貸切風呂と大浴場は使えなくなったものの、旅館の最上階に設置されていた最も広い露天風呂を自由に利用して良いとの許しを得ることができたのだ。凍傷寸前まで冷え切って感覚の無かった俺と心美の身体は、月明かりに照らされた水面に反射する風情ある景観と共にじんわりと解かされていった。
「それにしても、平野さんが言ってた通りだな。探偵依頼でもなくただ遊びに来たってだけで、新年早々厄介事に巻き込まれるなんて。俺の神社でのお祈りは、神様には届かなかったみたいだ……。仕方なかったとはいえ、やっぱり神聖な境内で走り回ったのが印象悪かったか……。」
肩まで湯に身体を沈めて、自身の行いを反省する俺を余所に、心美は満更でもない様子で微笑んでいた。
「あら、私の方は無事に願いを聞き届けてもらってるわよ。堅慎は日頃の行いが悪いんじゃないの……?」
「だから、心美は神社で何をお祈りしたんだよ。」
悪戯っぽい笑みを浮かべて揶揄う心美に対して、俺は再び問い掛ける。
「貴方も日本一の探偵の相棒なら、偶には頭を使って推理してみれば良いじゃない?」
「その言い方だと、まるで俺がいつも頭を使ってないみたいだろ……。」
「ふふっ、冗談よ……!」
満面の笑みで軽口を叩く心美に対して、不服を訴える代わりに俺はまだ解け消えていなかった近場の雪をひと掴みして心美の湯浴み着の背中に入れた。昼間の悪天候は何だったのか、澄み切った外の心地良い夜風に吹かれながら一頻り遊んで疲れ果てた頃に、俺たちは波乱万丈の正月三箇日の終わりを名残惜しむように手の平を重ねていた。
§
明くる朝、雲ひとつない快晴のもとで、高速道路の除雪作業が完了して交通規制も解除されたとの一報が入ったため、俺たちは温泉旅館を後にして、返却予定日よりも随分と延滞してしまったレンタカーに乗り込んだ。紫外線対策のため分厚いコートとニット帽を身に着けた心美は、今度は暑いくらいだと嘆いていた。
「2泊3日の温泉旅行もこれで終わりかと思うと、何だか寂しいな。」
「また一緒に行きましょう。今度は有名な観光地じゃなくて、人気の少ない穴場を探してみるのも良いかもしれないわね……!」
「いずれにしても、旅行は暫く勘弁願いたいな……。茉莉花の名前の影響力は、今や俺たちですら与り知らないところで計り知れないほどに膨れ上がってたらしい。それこそ、人の倫理観すら簡単に狂わせるくらいにな。」
一夜明けて、降り積もった雪が除けられ、黒色の道路に擬態するかのように凍結した路面で滑らないため気を付けながら法定速度で慎重にハンドルを切る俺の隣で、心美は頬を膨らませながら不満そうに呟く。
「それって、私が悪いってことかしら。」
「いや、そうは言ってねぇよ……! ただ、図らずもメディア露出までしちまったからな。
俺の釈明を聞いた心美は納得してくれたのか、溜息を吐きながらひとつ頷く。
「そんなこと、分かってるわよ……。ただ私は、堅慎と自由に肩を並べて歩けないって言われるのが、寂しかったっていうか……。」
照れ臭そうに俯きながら、心美はもごもごと歯切れ悪く口籠る。俺は彼女が自分と同じことを考えてくれていたことが嬉しくて、小恥ずかしくとも想いを言葉にしてくれる愛おしい彼女の頭に左手を伸ばす。
「堅慎……! あ、危ないわよ……。」
そう言いながらも、満更でもなさそうに表情が緩むのを誤魔化そうと口元を隠す心美のいじらしい仕草を俺は見逃さなかった。
「だったらさ、邪魔が入った温泉旅行の埋め合わせ、これからさせてくれないか?」
「えっ……?」
俺は自宅までの道程を一直線に快走していた高速道路にて本来降りるべき出口を通り過ぎて、心美が計画してくれた温泉旅行の礼代わりに、少々寄り道をしていくことに決めた。
§
「着いたぞー。降りてくれ。」
「ちょっと……! 目立つのは控えようとか言っておいて、どうして都心に来てるのよ!?」
心美の言った通り、俺たちは都内某所のとある施設を訪れていた。俺は今度こそ心美の姿が衆目に曝されないように細心の注意を払って、特徴的な白髪を彼女の赤いコートの中に仕舞い込んで、ニット帽を目深に被ってマスクとサングラスをしてもらう。
「ねぇ、どう考えてもこの格好はかえって目立つと思うんだけど。」
「大丈夫、ちゃんと可愛いよ。」
「そういう問題じゃないし、貴方から私の顔はほとんど見えてないでしょ!」
「ははっ……。そういうところが、本当に可愛い。」
「な、なによもう……。」
素直な褒め言葉に毒気を抜かれた心美は、俺の差し出した手を取って大人しく付いてくる。俺は近くの券売機で施設に入場するためのチケットを2人分購入して、入り口で待機しているスタッフに手渡す。スタッフは通り一遍の注意事項を説明するも、訳が分からないといった様子の心美は上の空でほとんど内容を理解していなかった。靴を脱いで荷物を預け、スマホを専用の防水ケースに入れて首から下げれば、いよいよ入場だ。
「「行ってらっしゃいませー!」」
元気良く手を振りながら俺たちを送り出してくれるスタッフに会釈して、薄暗い施設の中へと足を踏み入れる。横で戸惑いの表情を向けながら俺の手をきつく握る心美の珍しい姿に、俺はどこか嗜虐心が擽られるような気分だったが、いつまでも不安を煽り続けるのは可哀想なので、種明かしをするために歩を進める。
「ほら、これだけ暗かったら他の人に心美の存在は分からないだろ?」
「それはそうだけど、ここは何処なの……? 何で裸足のまま……?」
「下を見てみろよ。」
「これは、水……!?」
淡い光でライトアップされた足元には緩やかな水流があった。真冬の水の冷たさなら昨日まで身を以て痛感していたところだ。心美はおっかなびっくり、中々足を踏み出さないので、俺は彼女の背中をそっと押した。
「きゃっ……! あ、あれ、温かい……。」
「だろ?」
それは冬場の冷え切った足を優しく包み込むような温水だった。壁伝いに一本道を奥へと進めば、先程まで真っ暗だった空間には色鮮やかな光と共に美しいデジタルアートが浮かび上がってくる。
「綺麗……。」
素性が知れ渡る心配も無くなったので身に着けていたものを全て取り払って、恍惚とした表情で空間全体に映し出された光の世界を見上げながら溜息を漏らす心美は、俺にとって如何なる芸術作品よりも美しく価値ある存在だった。
「体験型ミュージアムってやつだよ。いつか心美と一緒に行ってみたいなーと思ってたんだよな。」
「だからって、停電した温泉旅館に閉じ込められた後に選ぶ場所にしては趣味が悪いんじゃないの……?」
「じゃあ、来ない方が良かったか?」
「ううん……。とっても素敵だわ。ありがとう、堅慎……!」
冗談を交えながら、プラネタリウムのように幻想的なデジタルアートが一面に映写された空間を心ゆくまで楽しんで、記念写真を撮りながら数時間にわたって遊び尽くした俺たちがずぶ濡れになって車に戻ってくる頃には、もう既に日が傾き始めていた。
服が乾くまで車内で待機しながら、暫く都会を訪れることもないだろうと話し合った結果、少し高級なレストランで久方振りのまともな食事を済ませた俺たちがレンタカーを返却しに行く頃には、煌々と光り輝く月が顔を覗かせていた。
§
レンタカーショップの店主に対して正直に事情を説明した上で平身低頭に詫びた後、静寂に包まれた数日振りの事務所兼自宅に帰還して温かいジャスミン茶を淹れると、すっかり平穏無事な日常へと戻って来たことを実感することが出来た。
「はぁー。やっぱり、堅慎の淹れてくれるジャスミンが一番落ち着くわね……。」
普段は姿勢良く上品な佇まいをしている心美も、連日の疲労と安堵感からか、だらしなく高級ソファに寝転がって足を伸ばす。
「あ、こら。お客さんも座るところだぞ。」
「今日くらい許してよ。ほら、堅慎も。」
手招きする心美に従って、俺は彼女の隣に腰を下ろした。暫しの間、無言のまま呆然としていると身体中が筋肉痛を訴えているのを初めて思い知らされる。深い溜息と同時に、膝と肘をくっ付けて前のめりになりながら脱力していると、ふと顔に心美の細く白い五指が添えられたかと思えば、不意に唇を伝わった柔らかな感触と共に仄かなジャスミンの甘い香りが鼻腔を擽った。
「んなっ……!?」
「素敵な初デートを演出してくれて、私の願いを叶えてくれたお礼よ。やられっぱなしなのは、性に合わないの……!」
漸く身体が休まったかと思えば、俺の心臓はまだまだ休むことを許されないらしい。俺は負けず嫌いな恋人の仕掛けた勝負を買って、ささやかな反撃に打って出ることにした。
愛の在るべき形を教わったことのない未熟な俺たちだが、だからこそ飾り気のない素直な感情を持ち寄って、自由なペースで愛を育み続けることができていると心底感じる。俺は心美との幸せな将来を、早くも確信し始めていた。
──そう、あの時までは……。
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