Ep.64 崖上の友軍

 襲い来る豪雪に身を震わせながら、俺たちは新町が残した足跡と血痕を頼りに突き進む。浴衣の上から防寒用の丹前を羽織っているとはいえ、停電によって暖房器具が機能せず、もともと低くなっていた体温は外気に曝されたことで一層激しく奪われていく。降り積もった雪の中に前足を膝まで突っ込んでは、後足のももを上げて引き抜く。その繰り返しによって、碌に食事も摂れずに血糖値の下がった身体は悲鳴を上げる。視界はぼやけ、筋肉は痙攣して、あっという間に息が切れてしまうのだ。


「心美、大丈夫か……!?」


「『このくらい何ともない!』と言いたいところだけれど、止めておけば良かったと後悔してるところよ……!」


「冗談が言えるうちは平気そうだな……。」


 身に着けている浴衣の裾は、俺たちの体温によって解かされた雪を吸い取って次第に重さを増していく。そして、纏わりついた水気がさらに俺たちの体温を奪うという悪循環に苦しめられる。俺と心美は猛吹雪の風切り音に負けじと声を張って互いを励まし合いながら、余計な思考を切り捨てて、ただひたすらに足を前へと運ぶことだけを考えた。


「冷たい……! もう指先の感覚がないんだけど……!?」


「多分奴も同じ気持ちのはずだ! こっから先は根競べになる!」


 2件の殺人について犯行を自供した新町はもはや、死に物狂いで逃げるか、大人しく捕まるか、二者択一を迫られている状況だ。多少の無茶もいとわないだろう。放っておけば降頻る大雪に新町の走り去った痕跡が掻き消されてしまう上、奴自身が言っていたように殺人の物的証拠もない限りは現行犯逮捕が理想的だ。複数人の宿泊客による証言があるとはいえ、身柄を拘束できなければ全ての努力が水泡に帰するかもしれないのだ。そんなことを考えていると、次第に自分の足取りが無意識のうちに重くなっていることに気付く。どうやら、新町の行方を追って無我夢中で歩を進めていた俺たちは、傾斜のある坂道へと差し掛かっているようだ。


「くっ、ここに来て上り坂か……!」


「っ、堅慎! あそこを見て!」


 突然の急斜面と極度の寒さに朦朧とする意識の中で地面ばかりを見ていた俺とは対照的に心美は頭を上げて、曇天に向かって真っ直ぐ延びていく雪道の先に立ち竦む人影を見つけたようだ。今のところ、相変わらず日の光は出ていないが、日中の紫外線量はどの程度か想像もつかない。心美を無防備な格好でいつまでも外に出しておく訳にはいかないので、俺は最後の力を振り絞って斜面を駆け上がる。


「くそっ……! 来るんじゃねぇ!」


 目と鼻の先に佇んで敵意を剥き出しにする新町は、何故かこれ以上逃げようとしない。とにかく、この千載一遇の好機を逸する手はないと考え、足場の悪い雪道を猪突猛進する。前進すればするほど細くなっていく道を見渡して漸く気が付いたが、ここはどうやら鬼怒川沿いにそびえる断崖となっているようだ。俺と同じように、高く積もった雪に視界が遮られたことで行き止まりに気付かなかった新町は文字通り、物の見事に崖っぷちへ立たされたという訳だ。


「いい加減に観念するんだな。これ以上抵抗したところで見苦しいだけだぞ!」


「はっ! だったら、こいつがどうなっても良いのか!?」


 何を仕出かすのかと思えば、呆れたことに新町は懐から2つの革財布を取り出して俺たちに見せつけるように高々と掲げ、崖の先へと腕を突き出す。案の定、俺たちの宿泊していた客室に忍び込んで財布を盗んでいたのは新町だった。


「下がれ! 近づいたらお前らの財布はこっから投げ捨ててやる!」


「笑止千万ね……。」


 幾度となく修羅場を掻い潜って来た俺たちに、今更そんなハッタリが通用するとでも思っているのか。あの財布は心美の相続した大善氏の財産に繋がる唯一の手掛かりとなる口座のカードが入っている。おそらく、新町もそれを盗み見たからこそ財布を盗む程度で満足したのだろう。つまり、あの財布は言葉通り新町が人生を賭けて手に入れようとした財宝だ。そんなものを易々と手放す訳もない。


「下らないお遊びに付き合ってやる暇はない。お前も経験豊富な探偵としての心美を、メディアを通じて見聞きしてきたんだろ。俺たちは今より遥かに危険な事件にも介入してきた。お前みたいな素人丸出しの一般人の仕掛けたペテンに引っ掛かってやるほど、甘くはないんだよ。」


「堅慎の言う通りよ。それに今の私たちにとって、お金を失うことなんて大した問題じゃないわ。財布のひとつやふたつ、欲しいんだったら最初から恵んであげたわよ。尤も、犯罪者に成り下がった今の貴方にくれてやるお金なんて鐚一文びたいちもんもないけれどね。」


「くそがっ……!」


 すると次の瞬間、新町を完全に追い詰め、後は確保するのみといったところで再び目標の男に接近しようとした俺は、背後から雪を踏み締めながらこちらに近づいてくる複数人の気配を吹雪の轟音の中で微かに感じ取った。予想外の敵襲に備え臨戦態勢に移ろうとしたのも束の間、振り向き様に見た新町の青褪めた顔から、後方の足音の正体を察した俺は警戒を解いて向き直る。


「茉莉花さん! 岩倉さん! ご無事ですか!?」


「貴方たちは……!?」


 足音の主たちの姿を視認した俺と心美は、心底驚いて開いた口が塞がらなくなってしまう。ぜえぜえと白い息を吐きながら、分厚い雪の中で何度かバランスを崩しそうになりつつも何とか坂道を上ってきたスーツ姿の男たちは、俺たちのもとに駆け寄ってきたかと思えば慌ただしく暖かそうなコートを着せてくれる。


「まさか半月も経たないうちに再開することになるとは、不幸体質はご健在のようですな。」


「茉莉花さん、その節はどうもお世話になりました! それにしても、探偵依頼のみならず、いよいよプライベートでも事件に巻き込まれることになるなんて、新年早々ツイてないですねぇ……。」


「橘さんに、平野さん……!? どうしてここに……!?」


 肩で息をしながら俺たちを追いかけてきたのは、先月発生した心美の叔父である茉莉花紫音一家惨殺事件の際に協力して真相究明に当たった、警視庁捜査一課の捜査官・橘平蔵とその部下・平野忠成だった。


「岩倉さんの名義で有償貸渡された車が期日までに戻らなかった上に電話が繋がらなかったことを不審に思ったレンタカー会社から、警察まで通報がありましてね……。貴方に限ってそれは奇妙だと、勝手ながら少々調べ上げさせて頂きました……。」


 息も絶え絶えに、絞り出すような声で経緯を説明する橘に代わって、若さ故か既に呼吸を整え終わった様子の平野が続ける。


「茉莉花さんたちが、すぐそこの温泉旅館を予約した履歴に辿り着きまして。現場に急行して従業員の方に事情をお伺いしようと車を降りたら、いくつもの足跡が折り重なった上に血痕が残されていた雪道が見えたので、只事ではない雰囲気を察知してここまで飛んで来たんです。」


 念のため防寒着を携帯してきて良かったと、敬愛する茉莉花探偵との再会を喜ぶ平野とは対照的に、ベテラン捜査官である橘は崖の先に立ち竦む新町の異様な雰囲気を感じ取ったのか、神妙な面持ちで心美に尋ねる。


「詳しい事情は後でお伺いします。今は取り敢えず、何かお手伝いは必要ですかな?」


 心美は寸分の迷いもなく告げる。


「あの男は2件の殺人及び窃盗を単独で行った凶悪犯よ。直ちに拘束して……!」


「承知致しました。おふたりとも車で旅館までお送りするので、後部座席に乗り込んでください。」


 貫禄のある強面で肩を怒らせながら歩み寄る橘の威圧感に震え上がる新町は、最後の抵抗を試みる。


「ふ、ふざけるな! あんたら警官なのか何なのか知らないが、国家権力が一般市民の言いなりだなんて問題だぞ! これは不当逮捕だ!」


 すると、いつも朗らかな表情で大人しい平野が顔色を一変させたかと思えば、橘に羽交い絞めにされている新町に近づいて、凄みのある低い声で吹雪の音にも劣らぬ怒声を上げる。


「不当逮捕かどうかは後でじっくり聞いてやるから安心しろよ。僕たち警察はな、お前みたいな凶悪犯を幾度となく見てきたから、人を見る目や犯罪者を嗅ぎ分ける鼻が鍛えられてるんだ。茉莉花さんも同じだよ。僕は同業者として、彼女のことを心から信用してるんだ。少なくとも、お前の下らない妄言よりも余程信頼に値する。分かったら大人しく着いて来い。」


「うっ……。」


 温厚で優しそうな印象を与える雰囲気を纏っている平野の豹変っぷりに気圧された新町は、蛇に睨まれた蛙のように硬直して言葉に詰まる。その様子を見た平野はいつもの調子を取り戻して、笑いながら手錠を掛ける。


「まあ、僕たち警察も間違える時は間違えるから、絶対ってことはないんですけどね! ハッタリっていうのは、このくらいやらないと効果ありませんよ?」


「お前、さっきの俺たちのやり取りを見てたのかよ……。」


 どうやら平野は、新町が俺と心美の財布を崖から投げ捨てようとしている時点で、既に現場まで到着していたようだ。俺は改めて、平野が捜査一課に所属する捜査官の端くれであることを理解させられた。


「まぁ、殺人事件については一切言及していなかったから分からなかったけど、どうやら窃盗については言い逃れできなさそうだね……?」


 手錠を掛けられた新町の身柄を自分の上司に託した平野は、彼の放った圧に怯んだ新町の手から零れ落ちて雪面に落ちた2つの革財布を拾い上げて、スーツの裾の内側で雪を払ってから俺たちに手渡してくれた。


「本当なら証拠品として押収したいところですが、それだと茉莉花さんたちが困っちゃいますもんね。良いですよね、橘さん?」


「あぁ、そのくらい構わないさ。ほら、行くぞ。」


 橘は新町を強引に路肩に停車してある車まで歩かせる。気が付けば俺たちは、犯人を追って随分と遠いところまで来ていたようだ。橘と平野の救援によって防寒着を着ていなければ、帰り道を引き返すだけの体力が残っていたかどうか分からない。俺は改めて、捜査官の2人に有りっ丈の謝意を表する。


「礼には及びません。茉莉花さんと岩倉さんのために、一応防寒着を持って行った方が良いのではないかと提案したのは平野ですから。まぁ、腐っても鯛と言うように、こいつも茉莉花女史ほどではありませんが、冷静に状況を分析するだけの洞察力に長けた優秀な一捜査官ということです。」


 そう言って照れ臭そうに赤くなった鼻の下を擦る橘は心なしか、部下の成長した姿を嬉しそうに見つめているような気がした。


「橘さんが俺を褒めてくれるなんて……。明日は大雪でも降るんですかね!?」


「大雪ならずっと降ってるだろうが! まだ仕事中だ。気を抜くな若造が……。」


 旅館へと戻るため、平野の運転する車に乗り込んだ俺たちは、凡そ1日ぶりに当たる暖房の風に文明のありがたみをしみじみと感じた。新年早々に探偵稼業とは全く関係のないアクシデントに巻き込まれたことで、一時は如何なることかと得も言われぬ不安に苛まれたものの、無事に犯人逮捕に貢献することができた上、事件を収束に導くことに成功した達成感に酔いしれた。


 俺たちの心模様を反映するかのように、宿泊する温泉旅館へと帰還した頃には先程までの猛吹雪が嘘のように落ち着いてゆき、雲の狭間から太陽の光が差し込んできた。俺は心美を日光から覆い隠すように、慌てて彼女と共に旅館の中へと転がり込んで、捜査官2人の協力を経て従業員に事情を説明した。程なくして電力供給体制の復旧した旅館内で、俺たちは今度こそゆっくりと温泉に浸かることが出来たのだった。

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