Ep.63 惨憺たる逃走劇
「犯人は貴方ですよね、新町恭介さん。」
稀代の名探偵として世間に名高い茉莉花心美によって、殺人の容疑者として指名された新町の周囲に立っていた宿泊客たちは、温泉の水面に落ちた水滴から波紋が広がるように、怯えた表情で後退りする。そんな聴衆の反応を見た新町は、苦し紛れの悪足掻きを始める。
「な、なにを馬鹿なことを……! 1階で人が死んでいたなんて、3階に閉じ込められていた俺にとっては寝耳に水ですよ! それに、松原さんはどう見たって事故死じゃないですか!」
「さあ、果たして本当にそうでしょうか?」
物凄い剣幕で捲し立てる新町に対して、心美は臆することなく堂々と反論を開始する。
「松原さんの遺体には、事故死を否定するに足る情況証拠が多岐にわたって残されています。例えば、彼女の死因を入浴中の事故死とするならば、何故服を着たままなのか、とかね。」
「そ、そんなもの──」
「ここで結論を出すには拙速に過ぎるわ。根拠はそれだけじゃないのよ。」
新町に弁明の機会を与えず、間髪入れずに心美は松原の遺体の頭部を指差して一層強い口調で話し出す。
「松原さんの致命傷となったのは、ご覧の通り、側頭部に負った挫創だと思われます。皆さん、転倒事故によって頭を打ち付けるとするならば、頭の側面に傷を負うというのは少々不自然だと思いませんか?」
集中して心美の推理に聞き入る聴衆は、松原が頭を打ったと思しき血痕の付着した木製の柱を見ながら、各々が脳内で浴室での転倒事故をシミュレーションする。
「自然に考えれば、多くの人は浴室の床に滑った時、前か後ろのどちらかに転ぶと思います。けれども、松原さんは横向きに頭を打った。」
「それは確かに、ちょっと違和感がありますね……。」
恐怖に震えて言葉を失っている大勢の中から、被害者の友人である柊が率先して反応を示す。
「百歩譲って、状況次第では側頭部を負傷して死に至るということもあり得るでしょう。ですが、これはどうでしょうか。」
新町の言い分を先回りして封じ込め、心美は松原の遺体が着ている浴衣の襟元を指してすぐさま次の証拠を示す。
「これは、灰の汚れですか……?」
初めて見た時の俺と同じリアクションで訝し気に見つめる二葉に、心美は自らの推論を補強するための証言を引き出そうと、ある質問を投げかける。
「二葉さん。松原さんは喫煙者だったらしいですね。この染みは、彼女の煙草によるものではありませんか?」
二葉は即座に頭を振って否定する。
「あり得ません……。奈々は昨晩、温泉に入って浴衣に着替えた後は1本も煙草を吸いませんでした。私たちは寝るまで一緒に居たので、記憶は確かです。」
「ありがとうございます。同室に宿泊していた柊さんも異論ありませんよね?」
心美の確認に対して、柊ははっきりと頷く。
「であれば、この灰は一体誰が残したものなのか。英さん一家の部屋に灰皿はありませんでしたし、私たちも喫煙者ではありません。新町さん、まさか会社の同僚の木本さんに罪を
遂に追い詰められた新町は、全く観念する様子もなく往生際悪く言い逃れようとする。
「そんなの、夜中に温泉に入り直そうとする前に松原さん本人がどっかで煙草を吸っただけだろ! その程度の情況証拠で俺を殺人犯呼ばわりだなんて、名誉棄損も大概にしてくれ!」
「煙草の灰による染みだということには同意してくださる訳ですね。それにしても、名誉棄損とは大きく出ましたね。一度吐いた唾は、決して飲み込まないでくださいよ。」
新町の怒気の籠った大声に対して、心美は凍り付くような脅し文句を低い声で浴場内に響かせる。
「それでは、1階の事件に論点を移しましょう。私たちは従業員の方の協力によって、ビデオ通話で階下の露天風呂にて亡くなられていた女将さんの遺体を調査することができました。彼女の遺体には、松原さんとは異なり目立った外傷はなく、上半身が湯船に残った水に沈められていたことから窒息死だと思われます。」
心美はいつの間に保存していたのか、従業員とのビデオ通話中に撮影したものと思われるスクリーンショットで若女将の亡骸を画面に表示しながら、懇切丁寧に解説する。
「傷の無い五体満足の人間が風呂場で窒息死だなんて、まさか……。」
魁人の母・真央は、旅館の若女将が何者かによって殺されたということを理解したようで、幼い息子に聞かせて良い話ではないと、魁人の前に立ちはだかって彼の耳を塞ぎながら呟く。
「えぇ。おそらく女将さんは宿泊客が寝静まって利用者の居なくなった露天風呂で停電の影響を確かめるために浴場に出て、孤立したところを殺人犯に狙われて犠牲になったものと考えられる。そして、女将さんの死亡推定時刻は松原さんよりも早い時間帯だったことが分かってるのよ。」
心美はそう言って、俺たちが推理した松原と若女将の死亡推定時刻の前後関係を説明する。
「つまり殺人犯は、1階で女将さんを殺害後、3階に上がって防火シャッターを意図的に誤作動させ、自分ごと宿泊客を外界から隔離して、容疑者候補から除外するように偽装工作を行った。」
「待てよ! 防火シャッターを起動させるなんて簡単に言ってくれるが、停電中に自動化された防火設備を起動させるなんて、出来る訳ないだろうが!」
意外にも至極真っ当な異議を唱える新町に対して、俺は再反論するための言葉を見失う。だが、心美の表情や態度から余裕の色は消えていなかった。
「馬鹿ね。実際に火災が発生した場合に備えた防火シャッターなんだから、停電を想定していない訳がないじゃない。通常は防災電源設備が別途設置されていて、停電時にも防火設備が稼働するようになっているはず。現に私たちが連絡を取る際にも活用した旅館のWi-Fi回線は生きていたし、予備の電源設備があることは明白よ。」
「っ……。」
完膚なきまでに言い負かされた新町に対して、心美は追撃を続ける。
「貴方は1階で女将さんをその毒牙に掛け、停電していた3階の階段を封鎖してアリバイ工作をするために防火シャッターの前で煙草を吸ったんでしょう。おそらく煙感知式だった防火シャッターは貴方の煙草の煙を感知して起動、事実上3階は巨大な密室となった。」
心美は先程防火シャッターの近くで撮影した煙草の灰が落ちた床の写真を聴衆に見えるように高々と掲げながら自らの推理を披露する。松原の遺体の着用していた衣服に煙草の灰が残されていたのも、そのためだったのだ。
如何なる異論も通用せず、日本一著名な探偵である茉莉花心美によって矛盾なく並び立てられた数々の証拠を目の前にして旗色が悪くなったことを自覚したのか、新町は諦観の境地に達したように漸くその固く閉ざされた口を開いた。
「あぁ、そうだ。全部俺がやったんだよ!」
「お前……。」
新町の同僚である木本は、未だ半信半疑といった眼差しで化けの皮が剥がれた凶悪犯の醜悪な姿を見つめる。
「会社の同期と楽しく観光に訪れていた中で、何故2人も殺害しようという発想に至るの?」
「魔が差したんだ……! 茉莉花心美が日光に居るというニュースを見てな……!」
新町曰く、昨日の午前中に俺と心美が初詣のために日光東照宮を訪れた際に、境内で生中継していたテレビ局のカメラに捉えられたことが全ての発端だったらしい。
「そん時は何も思わなかったよ。珍しいこともあるもんだって。だけど、あんたの特徴的な髪色を見かけて、まさかと思って顔を覗いたら、あの茉莉花探偵が同じ温泉旅館に泊まってるって知って、思い付いちまったんだよ……。」
「何をだよ……!」
勿体振って中々核心に触れない新町の態度に苛立ちを覚えた俺は、急かすように言う。
「茉莉花大善の遺産を強奪する計画だよ……!」
「何だと……!?」
新町が語る犯行動機は、俺の予想の斜め上を行くものだった。
「ここ最近の報道機関が伝える内容は茉莉花探偵、あんたのことばかりだ。栄泉リゾーツの風評被害解決に始まって、スパイ防止法制定の裏で暗躍していただの、海外の大企業を倒産の危機から救っただの、日本国民の英雄に仕立て上げたいのか何なのか知らないが、あり得ないような絵空事ばかりをニュース記事にしやがる。全く、嫌気が差すよ……!」
「……。」
「でもな、その中で漸く信憑性のある記事が舞い込んできたじゃないか。あんたの実父・茉莉花大善の訃報だよ。聞けば、地元では高名な資産家だったんだってな。元妻の逮捕と共に、そのニュースが全国を駆け巡ったのは知ってるだろ。大善氏の遺産を相続したあんただったら、一生掛かっても使い切れないような金を持ってるだろうと思ってな。」
「まさか、お前は金のために2人もその薄汚い手に掛けたってのか!」
「違う! 最初は1階で殺人事件を起こせば宿泊中の茉莉花探偵に白羽の矢が立って、暫く旅館に滞在しながら解決に協力するだろうと踏んで、その隙に金目の物を盗むつもりだった。あんたの言う通り、まずは階下で女将を殺した後に3階に上がって防火シャッターを全て起動させ、俺は容疑者候補から外れることができた。後は虎視眈々と、あんたから金品を盗むための隙を窺うだけで良かったはずなんだ!」
「そこで折悪く停電直後に大浴場の温泉に入ろうと廊下に出て来た松原さんと鉢合わせて、その姿を目撃されたために、慌てて女湯に連れ込んで殺害することを余儀なくされた、そう言いたいんでしょう……?」
「殺すつもりはなかったんだ! 何とか説得しようと試みても、しつこく俺を疑いの目で見てくるから、気が動転しちまったんだよ! 不可抗力だったんだ!」
大善氏から相続した遺産を掠め取ることを動機として犯罪に及んだというだけでも胸糞が悪いのに、そのために行った殺人を悔いるどころか、何としてでも自己を正当化しようとする新町の見下げ果てた性根の悪さに、その場に居る全員が軽蔑の眼差しを向ける。
「どの道貴方が辿るのは破滅の一途よ。皮肉にも、貴方が殺人の容疑から逃れるために誤作動させた防火設備のおかげで、物理的な逃走経路は完全に遮断されているもの。」
すると、大人しく降参するよう勧める心美の傍を1人の人影が通り過ぎて、身勝手な申し開きを繰り返す新町に向かって行き、体重を乗せた平手打ちを頬に打った。
「貴方の下らない出来心のせいで、どうして奈々が殺されなくちゃいけないの!? お金欲しさに
涙声で憤慨するのは、被害者である松原の友人・二葉だった。身を引き裂くような深い悲しみと憎悪が籠められた心の底からの絶叫も虚しく、新町は薄ら笑いを浮かべて信じられない行動に打って出た。
「五月蠅ぇ! 何はともあれ、目的は達成したからな。物的証拠がない限りは何とか逃げ
「きゃっ……!」
有ろう事か、新町は目の前の二葉を突き飛ばして、大浴場を脱兎の如く走り去る。女湯に張り巡らされた石造りの硬い床へと尻餅をついて苦悶の表情を浮かべる二葉を他の宿泊客に任せて、俺たちは新町の後を追う。
「この、ふざけんな……! 待て!」
脱衣所を抜けて角を曲がり廊下に出ると、何と新町は廊下の窓を割って強引に飛び降りた。割れた窓の隙間からは、吹き荒ぶ暴風と共に大量の雪が入り込んでくる。
「馬鹿な……! 3階から飛び降りるなんて自殺行為だぞ……!」
そう思ったのも束の間、窓から地上を見下ろせば、低木の葉と新雪によって衝撃が吸収されたのか、新町は着地するや否や、膝の高さまで降り積もった雪の中を忙しなく足を動かして勢い良く逃げ去って行くのが見える。
「この野郎、逃がすか!」
「待って、堅慎!」
急いで後を追わんと窓枠を飛び越えようとする俺の腕を掴んで制止する心美に、俺は決意に満ちた瞳で訴え掛ける。
「新町の二葉さんに対する仕打ちを見たろ。あいつは絶対に許せない。止めないでくれ!」
「違う、雪の表面を見て!」
諭すように落ち着いて指摘する心美の目線を辿って外を見れば、新町の走り去って行った方向を示すような大きな足跡と血痕が散らばっていた。
「流石にこの高さから落ちて、無傷という訳にはいかなかったみたいね。新町は血を流してる。そうでなくとも、この積雪よ。足跡を消しながら逃走を図るのは無理がある。地の利はこちら側に傾いているわ。」
そう言いながら、心美は窓に掛かっていたカーテンを引き剥がしてきつく結び、1本のロープを作る。
「急場凌ぎにしては上出来でしょ?」
「なるほどな。流石だぜ相棒……!」
心美の作った即席のカーテン製ロープの先端を、近くにあった
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