Ep.60 火事場泥棒
防火設備の誤作動と停電によって隔離された1階と3階の風呂場にて別々に発生した殺人事件だが、その手口の類似性とアリバイ工作の疑いから単独犯の可能性を視野に入れて捜査を開始した俺たちは、犯人の正体及び居所を掴むために2件の殺人の時系列を確かめようと、被害者の死亡推定時刻を推理することにした。
「まず、最初に発見した松原さんの死亡推定時刻は、他の宿泊客の証言から午前2時以降間もなくということになるわね。」
「そうだな。風呂に入る前に服を着たまま殺害されていたことを鑑みれば、そう遠くない時間帯だったはずだ。」
3階の殺害現場である大浴場に集合していた宿泊客たちの証言が正しければ、松原が同室の友人らに風呂場へ向かうことを告げ、女湯から物音がしたという時刻は2時前後だと聞いたため、それがそのまま松原の死亡推定時刻ということになりそうだ。
「問題は、1階の女将さんが殺害された時刻が、それよりも早いか遅いかということね。」
旅館の従業員曰く、若女将の死体発見は松原同様に朝だったらしい。松原の死体と比べて、若女将は比較的肌の血色も良く、死して間もない印象を受けたが、屋外だったことによる光の加減や気温状況が全く異なるため、見た目は全く当てにならないだろう。
「そもそも女将さんは、何故露天風呂で亡くなっていたのか……。」
「良い着眼点ね。おそらく、宿泊客が寝静まったタイミングで点検や戸締りをするために風呂場を訪れたところを襲撃されたんじゃないかしら。」
確かに旅館の従業員であれば、見回り以外で温泉を訪れる機会は思い浮かばない。そして、浴場の見回りをするタイミングは、通常であれば利用客の居なくなった夜の時間帯だろう。すなわち、普通に考えれば女将の死亡推定時刻は松原よりも早いことになる。
「だけど、単純に犯人が女将さんを殺害する際に、人目に付かない浴場まで強引に連れて行っただけということもあり得る。そうなれば、殺害時刻はもっと後だった可能性も否定できないよな……。」
明確な証拠がない以上、安易な憶測で死亡時刻を断定するのは避けるべきだ。即座に疑問を呈する俺に、心美は更なる根拠を述べる。
「堅慎、貴方は女将さんの遺体の温泉に浸かっていなかった和服の下半身に雪が降り積もってたのを見た……?」
「あ、あぁ。」
従業員とのビデオ通話を介して、被害者の亡骸は穴が開くほどに注意深く観察した。だが、俺の目には女将の死亡推定時刻を特定するための証拠など残されていないように思えたが、心美はその僅かな情報から何かを掴んだようだ。
「雪を払い除けてもらった後の女将さんが着ていた和服の下側は濡れていなかったのよ。これがどういうことか分かる?」
「え、ええっと……?」
湯船から
人間は生命活動を停止したからといって、直ちに体温を失う訳ではない。通常であれば、次第に遺体へと降り積もっていく雪は死亡直後の被害者に残った体温によって解かされ、水分が和服へと染み込んでいくはずだ。だが、被害者の着ていた衣服が濡れていなかったということは、積もるほどの大雪が降り始めた頃には女将の死亡から相当の時間が経過していたために、雪を解かすほどの体温は既に奪われ切っていたということになる。
「そういうこと。昨日私たちが眠りに就いた時には粉雪だったのに、夜が更けていくうちに激しさを増して降り積もるまでになった。でも、女将さんの死体に積もった雪は全く解けていなかった。すなわち、女将さんの死亡推定時刻は大雪が発生した時点よりも大幅に前だということになるわ。」
「てことは、松原さんが亡くなった午前2時よりも早い時間に女将さんは……。」
「おそらくね。その後犯人は3階へと上がって松原さんを殺害したと想定すれば、やはり殺人犯は3階の客室に宿泊している客のいずれかということになるわ……。」
事件の全容は俺たちが想定していたよりも一層複雑かつ深刻なものだったが、結果的に先程大浴場にて顔を突き合わせた宿泊客の中に凶悪犯が紛れているという結論に変更はなかった。そうと決まれば、次は3階の宿泊客の中から嘘で身を塗り固めている犯人を割り出すための算段を講じなくてはならない。
「多少の危険は伴うけれど、殺人鬼の恐怖に怯えて何日も過ごすよりかはマシよ。ちょっと休憩を挟んで、改めて関係者に聞き込みをしてみましょうか。」
「そうだな。停電だの電波障害だのと不吉な予感がしたと思ったら、朝起きて突然死者が2人も出たと聞かされて、挙句の果てには殺人犯と一緒に同じフロアで軟禁状態だなんて、リラックスできる時に気を緩めておかないといくら何でも身が持たないからな……。」
俺は部屋の片隅に備え付けられている電気が通っていない小さな冷蔵庫から水入りのペットボトルを2本取り出して、片方を心美に手渡す。暗闇の中に身を置いているので体内時計がうまく機能していないが、先程スマホの時計を確認した際に表示されていた時刻は、間もなく正午を迎えるところだった。とはいえ、殺人者の足音が身近に差し迫っているという緊張と不安、そして極度の寒気に襲われているため、不思議と空腹は感じない。すっかり常温となってしまった水が、今はむしろありがたい。
「堅慎も何か食べておいた方が良いわ。体内の血糖値が下がれば、思考能力も著しく低下して、いざって時に動けなくなるわよ。」
「あぁ、ありがとう。」
そう言って心美は部屋のテーブルに置かれていた
「なんだよ……?」
「別に。暇だなーと思っただけ。」
ならば此方もと、俺は心美の白髪を手に取ってその感触を確かめる。絹のように柔らかで手触りの良い彼女のロングヘアに触れることは生活を共にする仲でも滅多にないので、思わず意識を集中させてしまう。初対面だったならば作り物かと勘違いしてしまいそうなほどに美しく透き通った一面の白に、俺はこれからも彼女の隣で歩み続ける長い人生で何度でも目を奪われてしまうのだろうと思う。
「ふふっ……! 私たち、白と黒でなんかお似合いって感じじゃない?」
「……。」
「ちょっと、聞いてるの……!?」
「あ、あぁ、悪い……。」
突如として視界に飛び込んできた緋色の
「もう一回言ってくれるか?」
「言わないわよ! はぁ、下らないこと言って損したわ……。」
不満そうな仏頂面で
「本当に悪かったって。正直なところ、オーストラリアで受けた切傷も完全に塞がってないうちにまた新しい事件が起きて、かなり疲れてて集中力が落ちてたんだ。許してくれ……。」
「別に怒ってる訳じゃないわよ……。それに、堅慎が少し
突然しおらしい態度を取る俺に、心美は慌てて向き直って体調を気遣うように冷たいままの俺の手を握って慰めてくれる。その細くしなやかで優しさの籠った指先に、心の芯からじんわりと温められていくのを感じる。
「ありがとう。心美にかかれば何でもお見通しって訳か……。」
「私だって全知全能って訳じゃないから、事件の犯人だって堅慎の協力がなければ突き止められない。ただ、大好きな貴方のことだったら、誰よりも長く傍に居ながら、無意識のうちについ目が離せなくなってしまうから、微細な変化にもすぐに気が付くの……。」
会話途中に自分が如何に小恥ずかしいことを口走っているかを理解した様子の心美は、次第に顔を赤く染めながら蚊の鳴くような話し声を最後に、布団で顔を隠してしまった。そう言われて初めて気が付いたが、心美のような優れた洞察力を持ち合わせていない俺が彼女の僅かな変化には日頃から目敏かった理由は、俺も随分と昔から知らず知らずのうちに彼女に対して好意を寄せていたために、日常的に彼女へと視線を向けていたからなのかと自覚して、これまでの自身の行動を振り返ってみると中々に恥ずかしい。きっと心美も、同じような気持ちなのだろうと思う。
「心美にはいつも助けられてばっかりだな。本当に感謝してる。俺も大好きだよ。」
掌中の
「うぅ、不意討ちは反則よ……! もう十分温まったでしょ、行くわよ!」
「あ、待てよ心美!」
居た堪れないほどの羞恥心から逃れるように布団から抜け出した心美を追って、俺もベッドから這い出て地に足を突け、彼女の後を追うようにして歩き出す。
「ってえ……!?」
次の瞬間、暗闇の中で焦って前へ出した俺の足の小指が運悪く何か硬い物に当たって、背筋から冷や汗が噴き出る感覚と共に、少し遅れて激痛が走る。
「何!? 堅慎、大丈夫!?」
俺の発した呻き声に反応して、慌ただしく駆け寄ってくる心美に俺は身振り手振りで無事を伝える。指先には集中的に神経終末が分布しているため、それだけ痛みも強く感じやすい。暫く言葉も出ない俺に代わって、床に落ちていた謎の物体を心美が拾い上げる。
「これは、私たちが持って来たリュックね。こんなところに置いたかしら……?」
俺の小指を強襲した物体の正体は、日光を訪れる際に自宅から持参してきたリュックから食み出すように転がっていた、温かいジャスミン茶を淹れていた空の魔法瓶だった。
「そんな、あり得ない……! 荷物はここに来た時から分かりやすいように椅子の上に置いてあったはずだ。勝手に動かす訳もない!」
「まさか……!」
心美はハンガーに掛けてあった赤色のコートに近寄って、何かを確かめるようにポケットの中を探った。その真意を読み取った俺は、急いでリュックの中身を確認する。
「な、ない! 財布がなくなってる!」
「私もよ。迂闊だったわね……。」
俺たちは松原の死体発見の一報を英真央から電話で受け取った際に、突然の事態に気が動転して鍵を施錠し忘れたまま部屋を飛び出していた。他の宿泊客が自室に戻った後も現場の調査や従業員とのやり取りに時間を割いていたため、貴重品の管理が杜撰になっていたことは否めない。無論、通常であればこんな失態はあり得ない。全ては連日の疲労を言い訳にして警戒を怠っていた俺の責任だ。
「違う、堅慎のせいなんかじゃない……! 私だって、まさか停電と事件の混乱に乗じて盗みを働く火事場泥棒が居るだなんて、想定できていなかったもの。」
「すまん……。それにしても、殺人の次は空き巣紛いの窃盗か。これは聞き込みついでに探りを入れてみるしかないな。」
次から次へと悪化する事態に、俺たちは中々本調子を取り戻せないでいる。だが、事件の捜査は着実に進展しており、意外なところから点と点が繋がりを見せようとしている。俺たちは意気込みを新たに、殺人及び窃盗の疑いで3階に宿泊している3組の客のもとへ聞き込み調査に向かって行った。
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