Ep.59 同時多発殺人
一見して事故死だと思われた松原の死亡現場を調査した俺たちは、急遽彼女の死を他殺であると結論付けた。それは換言すれば、捜査に当たって人払いを必要とした俺たちの求めに従順で、温柔敦厚だった宿泊客の中に松原殺害の犯人が紛れ込んでいることを意味している。
自殺を偽装していたことで犯人の思惑がある程度透けて見えていた栄泉リゾーツの一件とは異なり、殺人犯の目的が分からない以上は、新たな事件発生の可能性に怯え続けなくてはならない。懐中電灯で足元を照らしながら、慎重に大浴場を後にして脱衣所を抜け、女湯の暖簾を潜って廊下に出た俺たちは、3階と他のフロアを結ぶ階段の踊り場へと続く道を遮る防火シャッターの奥から、停電による暗闇と静寂が支配する空間に響き渡る物音を聞いた。
「あ! お客様でしょうか!?」
すると、激しく狼狽した様子の女性従業員がシャッター越しに俺たちの存在に気が付いたようで、大声で呼び掛けてくる。その声の主は、深夜に俺たちへ旅館を取り巻く状況を説明してくれた従業員と同一人物のようだが、その声色は数時間前とは打って変わって、焦燥や不安といった感情が滲み出ている。とはいえ、此方も事情が事情だ。俺たちは端的に巨大な密室と化した3階で発生した殺人事件について、判明している限りの情報を説明した。俺たちによって告げられた驚くべき報告を受けた旅館の従業員は一層取り乱しながらも、更なる驚愕の新事実を暴露した。
「お客様のところでも、でございますか!?」
「っ、どういう事でしょうか……!?」
含みを持たせた言い方をする従業員に対して、俺は思わず反射的に聞き返す。
「先程1階の露天風呂で、当館の若女将が溺れて亡くなっているのを発見したのです……。」
「「なっ……!?」」
従業員によって藪から棒に言い放たれた新たな死者の存在に、俺も心美も、それ以上の言葉が出なかった。3階の宿泊客の中に冷酷無慈悲な殺人鬼が隠れていたとして、その全員が身動きできない以上、間を置かずに外部で凶行に及ぶことなど不可能なはずだ。急展開を迎えた事件の全貌が見えずに戦慄する俺を余所目に、心美は既に思索を巡らせ始めていた。
「貴方、突然で恐縮だけれど、連絡先を教えてくれるかしら?」
「は、はい……?」
心美の申し出の真意が分からない従業員は、怪訝そうに聞き返す。心美は自身の探偵としての身分を明かして、松原と若女将の不審死に事件性を感じ取ったため、解決に向けて協力する旨を伝えた上で、提案する。
「電話回線の通信障害はどうにもならないけど、旅館内のWi-Fiは生きているから、通話アプリを経由すればインターネット回線で連絡を取り合えるでしょう。それで私とビデオ通話をしながら、若女将の死亡現場へと案内してほしいの。」
なるほど、心美が真央と通話した時と同じように、防火シャッターの向こう側に居る従業員の連絡先と共通の通話アプリさえあれば、スマホの画面を通して間接的に若女将の遺体を調査できるという訳だ。いち早く平常心を取り戻して、冷静沈着に打開策を模索しようとする心美に、俺は改めて感服する。従業員は心美の求めに応じて、口頭で連絡先を伝えた。
「それじゃあ、到着したら私のスマホを鳴らして頂戴。暗くて怖いと思うけれど、貴方にしか頼めないの。ごめんなさい……。」
防火シャッターのもとを離れて階段を下っていく従業員の足音を聞き届けた俺たちは、先に自室へと帰っていった宿泊客たちの客室を通り過ぎる度に得も言われぬ恐怖心に苛まれながら、一言も交わすことなく部屋へ戻った。
§
自室に戻って扉に鍵を掛けると、俺たちの間に張り詰めていた緊張の糸は解れ、大きな溜息が漏れる。ベッドに倒れ込みながら頭を抱える心美の傍に寄って、俺は従業員の女性によって告げられたもう1つの事件について考え始めていた。
「まさか1階でも事件が起きるなんてな……。犯人は複数居るってことか……?」
「取り敢えず、1階の事件現場を見てみないことには何とも言えないわね。少なくとも、旅館の若女将と宿泊客を殺す犯人の動機に、同一性は見出だせない……。」
真っ暗な部屋で難解な2つの事件の関連性を模索していると、心美のスマホの液晶から放射状に光が放たれると同時に、軽快な着信音が響き渡る。電話を取った彼女のスマホの画面上には、雪雲に覆い隠された太陽の淡い光が差し込む薄暗い露天風呂の景色が映し出された。どうやら、そこは昨日俺たちが利用した貸切露天風呂の浴場のようだ。何かを懸命に伝えようとする従業員の言葉は猛吹雪による風切り音で掻き消されて、断片的にしか聞き取れない。
「多分だけど、この悪天候の中で長居は出来ないと言いたいんでしょうね。こちらの声は届くと思うから、手早く女将さんの遺体を映してもらいましょう。」
心美の指示によって、通話相手である従業員のカメラと懐中電灯は、若女将の亡骸へと向けられる。その背格好は、昨日この温泉旅館を訪れた俺たちを客室まで案内してくれた仲居のものだとすぐに分かった。生前の面影が色濃く脳裏に焼き付いているため、その非現実的な光景を受け入れ難いものの、時間を掛けてはいられない。俺たちは早速、カメラ越しの若女将の遺骸を徹底的に観察する。
「これはまた、どうして……。」
その死体は、3階の浴場で見た松原のものと同様に、異質と言わざるを得なかった。温泉旅館の従業員の正装と思しき和服を着たままの状態で、上半身全体が露天風呂に張ったままの水に浸かっていて、外側に飛び出した下半身には分厚い雪が積もっていた。心美は若女将の亡骸を覆い隠す雪を退けるように従業員へと頼むと、彼女はそれに応じてスマホを片手に雪を払い除けた。
「目立った外傷はなさそうね。見たところ、直接の死因は窒息かしら……。」
松原に関しては事故死の線も完全には否定できない状況だった一方で、若女将の死体には凍傷によって蒼白く変色した皮膚を除いて特筆すべき点はなく、風呂に沈められたことによる溺死のようだった。何の理由もなく無抵抗のまま上半身を死ぬまで温泉に沈める人間は居ない。従って、若女将の死は明らかに何者かによる他殺だと考えられる。心美の表情から察するに、俺の推察は彼女の見解とも一致しているようだ。
「凶器らしきものはなく、現場が浴場なだけに争ったような形跡も見当たらない。これ以上有力な情報は得られないでしょうね。」
事件現場から得られる情報はもうないと判断した心美は、殺人犯が下の階にも潜んでいる可能性を考慮して単独行動は慎むように言い添えてから、謝意を述べて通話を終了させる。停電復旧の見通しが立たない今は、階下の人間と自由に連絡を取る唯一の手段であるスマホの充電残量すら貴重だ。心美は電源を切ってサイドテーブルに自分のスマホをそっと置くと、改めてベッドに身を預けて頭を悩ませ始める。
「解明すべき問題は犯人の正体と居所ね。殺害現場の類似性や凶器を使わずに物的証拠を残そうとしない犯人の行動原理から推測するに、私は同一犯による犯行の可能性の方が高いと思うわ……。」
連続殺人が発生している以上、新たな事件発生を未然に防ぐため、犯人の特定は喫緊の課題であり、その動機や手段は二の次だろう。被害者はどちらも風呂場で孤立したところを襲われ、凶器が使われた形跡はない。下のフロアに宿泊している客や従業員の中に3階に潜む殺害犯の協力者が存在していることを否定する材料は今のところないが、心美はそれ以上に単独犯による犯行を疑っている。
「でも、階下に繋がるルートには全て防火シャッターが下りてるから、松原さんを殺害した後に若女将を殺害するってのは無理があるんじゃないか……?」
「その防火シャッターが誤作動ではなく、犯人によって意図的に下ろされたものだったとしたらどう? 単独犯ならむしろ停電や通信障害といった旅館を取り巻く状況を利用して、自身のアリバイを偽装しようとするはずよ。」
確かに、2件の殺人事件の犯人が同一人物だったとすれば、どちらか一方の事件の容疑者から外れるために防火設備を利用したということも考えられる。
「だったら、3階が密室だという前提が覆ることにならないか……!?」
そう、どちらか一方の殺人事件を引き起こした上で防火設備を作動させて、事件現場と物理的に隔離されることで犯人は自身に犯行は不可能であったと対外的にアピールしたかったという事ならば、今となっては密室となってしまった3階は、殺人の犯行時点ではまだ密室ではなかったということになる。
「つまり、犯人が3階に潜んでいるのか、その他のフロアに居るのかを判断するためには、2件の殺人事件の時系列を推理する必要があるわ。要するに、被害者たちの死亡推定時刻を判断するの。」
なるほど、俺は被害者の発見された順に殺害されたものという先入観があったが、心美の主張によれば2つの事件の前後関係を整理し直す必要があるということだ。俺たちは殺人事件の真相究明に向けて、犯人の正体及び、隔離された2つのフロアで別の事件を引き起こした絡繰りについて推理を始めた。
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