Ep.58 難航する捜査
銘々手に持った懐中電灯で辺りを照らすも、旅館の大浴場を見渡すには
「皆さん落ち着いてください! 此方はあの茉莉花探偵その人で間違いありません!」
気まずい沈黙に包まれた浴場内にて率先して口を開いたのは、電話で俺たちを呼び出した張本人である英魁人の母親・真央だった。彼女は昨日の午前中、神社の境内で心美がテレビ局の連中に追いかけ回されていたという目撃談を一同に向かって説明してくれる。すると、真央の話に黙って集中していた聴衆の中から、1人の男性客が声を上げた。
「それなら、生中継されていたので僕も見ました……! まさか茉莉花さんがすぐ近くを訪れていたとは思わなかったので、凄く印象的でした!」
男性客の証言によって、ゆくりなくも心美の身分は証明できたようだ。──まてよ、昨日の騒動は生放送されていたのか。何と言う事だろう。俺は心美との生活の安泰を守るため、帰宅次第すぐにテレビ局を特定して撮影された映像の削除を依頼しようと考えていたのに、もはや時既に遅しということか。落胆のあまり頭を抱える俺を余所目に、心美は再び宣言する。
「改めてお願いします。これより女性の死亡現場である浴場全体を隈なく調査致しますので、関係者以外は自室に戻ってください。」
しかし、心美の呼び掛けに応じる者は居なかった。尤も、心美の正体を訝しんでいたために敵意を露わに反発していた先程とは打って変わって、各々が神妙な面持ちながらも確固たる意思を持ってその場に残っていた。
「皆さん……?」
不穏な空気を察知した心美が一同に再度声を掛けると、心美の探偵としての身分を疑っていた女性客の1人が恐る恐る挙手をしてその重い口を開いた。
「
「はい……?」
「奈々は、私と一緒に温泉旅行に来た友人です……。」
刹那、長い黒髪を蓄えた背の高い女性客によって暴露された意外な事実に驚きを隠せない一同の持つ懐中電灯が一斉に彼女の方へと向けられる。その眩い光に手を
女性客はまず、自らを
「昨晩、豪雪の影響でかなり大きな物音が響きましたよね。その時、私たちは3人で夜通し喋ってたんです。部屋の照明も付けっぱなしだったんですけど、停電で明かりも消えてしまったので仕方なく眠りに就こうかと思っていたら、奈々は温泉がまだ温かいうちに最後に一度だけ入ってくるって言い出して……。」
確かに、温泉は停電直後1時間程度であれば配管内に残った源泉が流れ出てくるため、入れないことはない。松原は折角の温泉旅行にもかかわらず停電によって二度と風呂が楽しめなくなることが名残惜しくて、入浴できるうちにしておこうと考えたのだろう。
「私と楓はどの道そろそろ寝ようかと話していたところだったので、懐中電灯を持って部屋を出ていく奈々を見送って床に就いたんです。朝起きて、まだ部屋に帰ってきていなかった奈々を捜しに浴場まで来たら、こんなことに……。あの時、奈々を止めておけばこんなことには……。」
柊はそう言って二葉と共に泣き出してしまう。どうやら、死亡した松原の第1発見者は彼女たちのようだ。弱々しく肩を震わせる二葉と柊の姿に俺は思わず同情してしまうも、心美に言わせればそんな彼女たちも重要な容疑者候補として平等に怪しむよう釘を刺されそうなので、黙っておくことにする。
「貴方たちは……?」
心美は先程発言していた男性客の方を向いて問う。男性客の方は2人組で、まだ一度も口を開いていない方が喋り始めた。
「俺は
木本と名乗った恰幅の良い男の言葉に、黒髪を中分けした中肉中背の男・新町は首肯して入れ替わるように話し始める。
「そうなんです。俺たちは浴場に近い部屋に泊まっていたので、停電に驚いて廊下に出たら女湯から微かに物音が聞こえてきました。その時は吹雪の音も五月蠅かったから、自分の気のせいかと思っていたんですが、まさか松原さんだったとは……。」
「それは何時くらいの出来事だったかしら……?」
心美の質問に対して、新町は木本と確かめ合うような素振りを見せてから答える。
「おそらく、深夜2時くらいの出来事だったかなと。」
「二葉さん、柊さん。松原さんが部屋を出て行った時刻は覚えてる?」
新町の返答を受けて、心美は改めて被害者の友人たちに問い質す。
「すぐに寝てしまったので詳しくは……。でも確かそのくらいの時間だったと思います。」
目を見合わせて答える二葉と柊の主張に、嘘偽りは感じられなかった。確か3階にある客室は全部で4部屋だ。従って、俺たちが宿泊している部屋の他、英一家、二葉・柊、木本・新町がそれぞれ1部屋ずつ使っていることを考えれば、このフロアに閉じ込められたメンバーは、松原の遺骸を含めればこの場に集まった10人で全員だろう。
§
心美に対して持ち得る情報を全て暴露した各人は、現場の調査を俺たちに託して今度こそ大浴場を後にした。凍て付くような寒さと暗闇に支配された浴場の中で、浴衣の上から羽織っている丹前を濡らさないように裾を掴んでたくし上げながら、慎重に
「側頭部に挫創が見受けられるわね……。堅慎、持っててもらえる?」
心美は俺に懐中電灯を渡して、空いた手でスマホのカメラを起動して現場周辺の写真を撮影しながら、遺体を注意深く観察し始める。松原は頭から血を流して既に生気を失った瞳を見開いたまま仰向けに倒れている。右半身は大きな湯船に浸かっていて、停電の影響ですっかり冷め切ってしまった温泉には彼女の血が混じって濁っているようだった。
「まさか、暗がりの中で足を滑らせて床に頭を打っただけの事故死なのか……?」
湿った浴室の床を歩くためか素足のまま亡くなっている松原を見て率直に思ったことを口する俺に対して、心美は検分に集中したまま返事する。
「先に遺体を見ていた他の宿泊客たちもその可能性が高いと考えたからこそ、私の説得に応じて部屋を出て行ったんでしょうね。」
心美の物言いは、あたかも死因は別であると暗に意味しているようだった。俺の疑問を察した彼女は、自ずから推理を披露し始める。
「まずは松原さんが浴衣を着たまま倒れていること。入浴中の転倒事故が死因なら、死体は当然裸であるはずよ。それにもかかわらず、彼女は服を身に纏っている。」
水気を吸って着崩れてしまっている松原の浴衣を指差しながら、心美は冷静に分析する。確かに、脱衣所でならまだしも、浴場内を着衣したまま
「次に違和感があるのは、松原さんの死因と思われる挫創の位置が側頭部であるということ。」
すると心美は、俺の反論を受け流すように、松原の頭に残された打撲痕を写真に収めながら淡々と告げる。傷の位置が事故死を否定する材料になるのか、俺は関連性が見出せないまま首を傾げると、心美はまた別の方向へとカメラを向けるので、その先を懐中電灯で照らしながら目で追うと、べったりと血痕が付着している木製の大きな柱があった。
「松原さんは、この柱の角に頭をぶつけて……?」
「そうみたいね。だけど想像してみて。例えば堅慎が浴室の床で滑って転んだ時に、倒れ込む方向はどっちかしら?」
俺は浴室で転倒した経験など一度もないので、脳内で再現映像を再生するのに少々時間を要する。思うに、湿った床のタイルで足を滑らせるという事態は、多くの場合歩いている最中に起きることだろう。つまり、勢い余って前方へとつんのめるか、あるいは倒れまいとして咄嗟に重心を後ろに運んだ結果、尻餅を突くように後方へとひっくり返るかの2択ということになる。
「その通りよ。それ
言われてみれば、風呂場でのスリップ事故で横向きに倒れて側頭部を打ち付けるという光景は、中々に想像し難い。さらに心美は、松原の襟元に付着した謎の染みを認めてカメラのフラッシュを焚く。
「最後はこれ。松原さんの着ている浴衣の胸元に何かの染みが付いている。」
「これは、灰か……?」
心美の目線を辿って松原の少し
「堅慎、灰といえば何が考えられる?」
「えぇと……。」
俺は日常的に灰を目にする訳ではないので、心美による唐突な質問に困惑してしまう。人の死に灰という組み合わせから、まず最初に連想できるものは線香だろう。だが、死体となって発見された松原を見て騒ぐでもなく、取り敢えず線香を焚こうなどと考える常識外れは居ないだろう。次に身近な灰の発生源を考えるならば、煙草だろうか。
「かと言って、近くに煙草の吸殻らしきものは見当たらない。もし松原さんが浴場を独り占めできる開放感から、非常識にも温泉に入りながら煙草を吸おうとしていたならば、事故死した拍子に煙草の吸殻を何処かに放り投げたはずよ。」
「つまり、松原さんの死亡現場には少なくとも、煙草を吸っていた第三者が現れた形跡があるということか。」
灰による汚れは不溶性なので、ちょっと温泉に浸かったくらいでは溶け消えない。右半身を湯船に浸しながらも、なお染みが残り続けていたのも納得が行く。
「だったら、やっぱり……。」
「えぇ。温泉旅行に来ていてお風呂を楽しみにしていた女性が自らその場で命を絶つとも考えられないから、現時点では他殺が最も有力な説であるというのが、私の見立てよ……。」
心美によって列挙されたいくつかの情況証拠を総合的に勘案すれば、大浴場に現れた松原を意図的に殺害した何者かが存在した可能性が濃厚である。そして、防火シャッターの誤作動によって階段が封鎖され、停電によってエレベーターも停止しているため3階に閉じ込められている以上、松原殺害の犯人が俺たちを除く先程の7名の中に紛れているということになる。
「まだ幼い魁人くんが松原さんを殺したとは考え難い。必然的に、容疑者候補は英夫婦、二葉さん、柊さん、木本さん、新町さんの6名まで絞られるわね。」
正月三箇日の最終日、宿泊した温泉旅館で奇しくも大雪に見舞われ、軟禁されてしまった俺たちの前に現れた謎の他殺体によってもたらされた混沌に、流石の心美も当惑の色を隠せない。温厚篤実だった6人の宿泊客の中に、嘘を吐いている凶悪な殺人者が潜んでいるという事実に、俺たちは悪寒を感じながら浴場を後にした。
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