袋の鼠の骸

Ep.57 断たれた退路

 ──ガチャ。


「誰だ!!」


 奇しくも温泉旅館の3階に幽閉されてしまった俺たちは、停電と悪天候によって暗闇に包まれた廊下を懐中電灯で照らしながら、怖ず怖ずと宿泊していた自室まで引き返してきたところ、不意にドアが内側からゆっくりと開かれた。深夜に響き渡った轟音によって叩き起こされた俺の脳は睡魔によってもやが掛かったようにぼやけたままだったが、唐突な第三者の登場により一気に血流が速まったことで覚醒して、心美の身の安全を案じるあまり怒気を孕んだ声で威嚇する。


「うぇえええ!! 怖いよぉおおお!!」


「んなっ……!」


 窓ガラスを揺らす吹雪の音にも劣らない叫喚と共に姿を現したのは、何と小さな子供だった。その声を聞き付けて、部屋の中から子供の両親と思しき男女が駆け寄ってくる。


魁人かいと! どうしたの!?」


「あ、貴方たちは……!」


 彼らの顔には見覚えがあった。それは昨日の日中、初詣に行った神社にて心美の存在に気が付いてサインを強請ねだっていた5歳前後と思しき男の子と、逃げる俺たちを付け回した子供を𠮟るために追走していた両親だったのだ。俺はまさかと思って、心美から懐中電灯を受け取って扉に刻印された部屋番号を照らして見れば、1つ隣の部屋を自室と勘違いしていたことに気付いた。


「昨日はうちの子がご迷惑をお掛けしてすみませんでした……! ほら、魁人も謝りなさい!」


 魁人と呼ばれている男の子の母親が心美の特徴的な白髪を見て正体に気が付いたようで、件の非礼を詫びて頭を下げる。心美はその家族の姿を見て先程まで感じていた恐怖が薄らいだのか、母親に叱責される魁人の肩に手を添えようと、膝を折って目を合わせる。


「謝るのはこっちの方よ。暗くて良く確認しないまま部屋を間違えてしまって、ごめんなさいね。貴方は何も悪くないから、泣かないで頂戴……?」


「うぅ、探偵の白いお姉ちゃん、ありがと……。」


「きちんとお礼が言えて良い子ね。暗くて怖いでしょうけど、心配しなくても大丈夫よ。」


 慈しみ深い眼差しで魁人の頭を優しく撫でる心美に、俺は非常事態にもかかわらず、幼い子供相手に一抹の嫉妬心を禁じ得ない。俺の心に巣食う醜い感情など露ほども知らない心美に対して、彼の父親が申し訳なさそうに礼を言う。


「ありがとうございます……。ところで、さっきの大きな物音は何事でしょうか?」


 俺たちはフロアを一周して得た情報を3人家族に共有した。とはいえ、徒に不安を煽っても仕様がないので、状況はすぐに良くなるだろうと希望的観測に基づく所見を添えておく。


「そうだったんですか。致し方ありませんね。私たちも朝まで休むことにします。」


「それが良いと思います。日が昇れば天候も回復するかもしれませんから。」


 俺たちは緊急時に互いを助け合えるように、最低限の個人情報を共有した。魁人の父親ははなぶさ蓮人れんと、母親は真央まおと名乗った。通信障害によって外部との連絡は遮断されてしまっているが、予備の蓄電池か何かがあったのかは分からないものの、運良く生きていた旅館のWi-Fi回線を使えば通話アプリで連絡を取ることも出来るので、念のため連絡先も伝え合っておくことにした。


「それでは、おやすみなさい。」


「ばいばい、お姉ちゃん……!」


 そう言って小さな手を懸命に振りながら部屋に戻っていく魁人に、心美は笑顔で手を振り返して別れを告げる。俺たちも今度こそ間違えないように部屋番号を確認してから自室へと帰還した。



 §



「全く、何でこういつも災難に見舞われるんだろうな、俺たちは……。」


 緊張と緩和の乱高下で若干眠気が覚めてしまった俺たちは、ベッドに横になりながらも気持ちを落ち着かせるために雑談に興じていた。


「こればかりは私たちの不運を呪うしかないわね。私だって旅館を予約する前に周辺の天気予報は確認したのよ……? スタッフの方も予想外の積雪だって言ってたから、仕方がないわ。」


「それもそうだな。」


 かく言う俺も人間だ。怯える心美を余計に怖がらせたくないので、不安や緊張はなるべくおもてに出さないように気を付けてはいるものの、ここ最近立て続けに巻き込まれている事件による疲弊は、徐々に俺の肉体をむしばんでいる。特に、長年苦楽を共にしてきた勘の鋭い心美を相手に、それは隠し切れなくなってきているのだ。


「堅慎、ごめんね。私のせいで今まで辛い思いばかりさせてきてしまって……。今回だって、私が日光に行くだなんて言い出さなければ、こんなことには……。」


 心美は俺の表情から微細な変化を読み取ったのか、思考を先回りして謝罪の言葉を口にする。


「そういうことは、もう二度と言わない約束だぞ。俺だって心美と遠出するのを楽しみにしてたんだから、お前だけの責任じゃない。」


「うん。だったら、せめて……。」


 すると心美は、暗黒の中を手探りで俺の首元に腕を回して、そっと自分の方へと抱き寄せたかと思えば、俺の短い黒髪をわしわしと撫で付ける。


「な、なんだよ急に……。」


「んー、別に? ただ、私が魁人くんと話してる時に、どっかの誰かさんが恨めしそうな目で睨んでたから。」


 ──まさか見られていたとは。俺は益々、心美に隠し事など不可能だということを痛感する。同時に、露天風呂で一緒のシャンプーを使っていたのにもかかわらず、心美の白髪から漂って来る香水のように甘い香りが俺の思考能力を奪っていくのを感じる。そして、意識すればするほどに、俺を抱く彼女の身体から跳ね返ってくる柔らかい感触が俺の理性をもてあそぶ。


 そんな状況に、部屋の暗さも相俟って、動物の雄としての本能が反応を示そうとするのを必死に堪えて心美から距離を取ろうと試みるのだが、その意志とは裏腹に、俺はまるで樹液に集まる夏の甲虫のように、心美の傍を離れられなかった。


「……。」


 どれだけの時間が経過しただろうか。けたたましい豪雪の音は既にバルコニーへと降り積もって巨大な壁となった氷塊によって部屋まで届かず、時計の針が進む音だけが響き渡る。同じように、一定のリズムを刻みながら俺の背中を優しく撫でてくれる心美の慣れ親しんだ息遣いや体温に包まれて、俺の瞼はいつの間にかゆっくりと重さを増していった。



 §



 数時間後の早朝、目を覚まして辺りを見回せば、停電による影響は未だ改善の兆しもなく、相変わらず暗晦あんかいが一面に広がっている。それでも、体内時計とは便利なもので、電波障害により役立たずとなったスマホを拾い上げて時計を確認すれば、普段の起床時間と大差ない。


「心美は……。無理に起こすこともないか……。」


 舞い狂う猛吹雪によって軟禁状態となった旅館で早起きしたところで、出来ることと言えば3階にも設置されている一般客向けの公衆浴場にて温泉を堪能することくらいなものだ。もっとも、停電時には源泉から湯を汲み上げているポンプは稼働を停止している上、 温度管理システムも作動していないだろうから、それすら叶わない。


 そのようなことを考えながら、スマホも触れない、テレビも見れないといった状態で暇を持て余しつつ、人間の娯楽文化が如何に電子機器に依存しているものかを実感していると、俺という湯湯婆ゆたんぽを失った心美が寒そうに身震いしながら身体を起こす。


「さっむい……! エアコンは、つかないんだった……。」


「生憎だが、温かいジャスミン茶も淹れてやれないからな。」


 エアコンどころか、湯を沸かすための給湯器や電気ストーブすらも機能しない。俺たちは部屋の中で天候回復に伴う停電復旧まで、凍り付くような寒さを耐え忍びながら、ただひたすらに座して待つほかないのだ。


「場合によっては死活問題だな。いつになったら晴れるのやら……。」


「大雪による停電なら、大抵は雪崩による倒木や電線トラブルが原因でしょうね。停電復旧のために設備の修理や接触物の除去が必要なら、天候が完全に回復するまで待つ必要はないにしろ、最低限の安全確保が出来るようになってからだと思うわ。」


「数日の立ち往生おうじょうも覚悟する必要がありそうだな……。」


 肩を落とす俺の隣で何やら物音がしたかと思えば、心美は枕元に置いてあった懐中電灯で唐突に自身の美顔を下から照らして大声を出すといった古典的な手法で俺を驚かせようとする。だが、2つの意味で一寸先は闇となっている今の窮状に意識が集中していた俺にとって、その不意打ちは存外に効果的だった。


「うぁああ!? 何だよ、いきなり吃驚びっくりさせないでくれよ……。」


「あっはは……! 何よその間抜けな声は……!」


「おのれ、やってくれたな……!」


 懐中電灯をベッドに放り投げて爆笑する心美に仕返ししてやろうと手を伸ばした瞬間、暗がりを照らすもう1つの光が、やかましい電子音と共に俺たちの間へと差し込んでくる。


「電話……? 英さんからかしら。」


 通信障害によって外部との連絡が遮断された今になって、心美の電話を鳴らすことができるのは同じ旅館のWi-Fiを使用している英一家をおいて他に居ない。隣の部屋に宿泊しているはずの彼らが何故わざわざ電話を架けてくるのかと不思議に思いながらも、心美はスマホの着信ボタンをタップして電話口を耳に当てる。


「はい、茉莉花です。」


「……。」


「えぇ、如何なさいましたか……?」


「……。」


「なんですって!?」


「……。」


「今すぐ向かいますから、何にも触れずにそのままの状態で待機してください!」


 別れの挨拶もそこそこに、乱暴に通話を切ってスマホを浴衣のポケットにしまい込んだ心美は、懐中電灯片手に慌ただしくベッドから立ち上がる。


「ど、どうしたんだよ。何かあったのか……?」


「直接見に行くのが早いわ。付いて来て、堅慎!」



 §



 昨晩とは打って変わって俺が心美に手を引かれる形で廊下を足早に進み、彼女に付き従うまま連れてこられたのは、依然として防火シャッターが下りたままになっている階段付近の大浴場だった。心美はあろうことか、躊躇なく男の俺を連れたまま女湯の敷居を跨ぐ。鬼気迫る彼女の表情に気圧された俺は声を上げる暇もないまま脱衣所を抜け、一直線に浴室へと辿り着くと、昨晩出会った英一家の他に、複数名の宿泊客が一堂に会していた。


「茉莉花さん! こちらです……!」


 蓮人に呼ばれて心美は湿り気を帯びた浴場の床板で滑らないように気を付けながら歩を進めると、懐中電灯が照らす先には虚ろな目をした1人の女性が浴衣を着たまま横たわっていた。


「こ、これは……!?」


 俺は怖気を震って立ち竦む。それは、既に事切れてしまっている女性の亡骸なきがらだったのだ。しかし愕然がくぜんするのも束の間、直ちに思考を切り換えた俺がとった行動は、心美の身柄を他の宿泊客から遠ざけ一歩前に出て、彼女の身の安全を護るために厳戒態勢を取ることだった。


「け、堅慎……!? どうしたの……?」


「防火シャッターの誤作動と急激な悪天候で俺たちは3階に軟禁状態のはずだ。この状況下で死体なんて、殺人犯がこのフロアに居るって言ってるようなもんじゃないか……!」


 そう、最早この場に居る全員が警戒すべき殺人の容疑者なのだ。そんな奴等を前にして呑気に背中を見せるほど、俺も平和惚けしていない。


「待って。事故や自殺の可能性も捨てきれない以上、いがみ合っても仕様がないわ。まずは現場を封鎖して詳しく調査しましょう。」


「っ、そうか……。」


「皆さん。私は茉莉花心美──ご存じの方も多いかと思いますが、探偵業を営んでいる者です。回復の兆しが見られない悪天候と防火設備の誤作動によって3階に閉じ込められてしまった今、私が捜査機関に代わって現場を調査致しますので、浴場から速やかに退室願えますか。」


 落ち着き払った声で淡々と告げる心美の声は、広々とした大浴場に良く響く。だが、俺たちの予想に反して、現場に居合わせた宿泊客からは色好い反応が返ってくることはなかった。


「まさか、貴方があの茉莉花探偵だって、そんなの信用できません!」


「そうですよ! 仮に貴方が茉莉花探偵だったとして、貴方自身は身の潔白を証明できるんですか!?」


 英一家の隣に立っていた女性客2名が口々に心美に対して懐疑的な意見を述べて反発する。これまでは心美の特徴的な髪色や抜群な推理力によって、事件の当事者から不服を唱えられて反発されることなど無かったため、俺たちは動揺を隠せない。おそらく、暗闇によって彼女のアルビノとしての外見的特徴は周囲に伝わり辛くなっていて、実物が世間のイメージと合致していないのだろう。また俺たちは眼前に転がる死体について、何の関与もしていないことの証拠を持ち合わせていない。


 先行き不透明な現況を嘆く暇もなく生じた新たな問題に、歴戦の勇士である俺たちも流石に苦戦を強いられ始める。だが、それは前途多難な事件の序章に過ぎなかった。

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