Ep.55 アクシデントはいつも唐突

 暫くして、車内で座ったまま外の景色を眺めているのも飽きてきたため、俺と心美は冷たい空気に当たりながら酔い醒ましがてら日光の観光スポットを巡り歩いくこと4時間ほど、宵闇に包まれた寒空の下を引き返して駐車場まで帰って来る頃には、すっかり体調も元通りになっていた。


「どうかしら、そろそろ運転できそう?」


「あぁ、もう大丈夫だ。行こうか。」


 俺は心美の道案内に従って車を走らせること30分、関東有数の名湯・鬼怒川温泉へと辿り着いた。川沿いの温泉街を美しい白で染める不香ふきょうの花は、夕闇をきらびやかに反射して情緒ある風景を演出している。


「これだけの壮観を眺めながらの露天風呂なんて、きっと最高よね……!」


「あぁ、楽しみだな。」


 すると心美は、豪華絢爛な外飾が施された大型の温泉旅館を指差して俺に左折を促す。駐車場には誘導灯を持った警備員が立っていて、その案内に従って空車の目立つ駐車場の片隅に車を停める。良く見れば、近くの看板には「第1駐車場」と書いてある。すなわち、この場所以外にも駐車場を何箇所か有しているほどの大型施設だということだ。


「なあ、心美。ここって凄い高級な旅館なんじゃないのか……?」


「まあね。でも、折角の新年なんだから、良いじゃない。」


「それもそっか。」


 亡き大善氏から相続した多額の遺産もあることだ。これまで散々苦労してきた心美が、正月旅行に少しばかり贅沢することを、彼女の父も咎めはしないだろう。俺は天国の大善へ向けて心の中で手を合わせ、心美の御相伴にあずからせて頂くことを感謝した。受付でチェックインを済ませると、風情ある広々とした3階の和室へと通されたと同時に、ウェルカムドリンクとして温かい抹茶と温泉饅頭が振舞われた。


「昨日から続く降雪予報の影響で、他に予約のお客様はございませんので、貸切露天風呂のご利用予約は必要ございません。いつでもお好きなタイミングで利用して頂けますので、ご入浴の際は係りの者までお申し付けくださいね。」


 そう言い残して、丁重にもてなしてくれた仲居はそそくさと部屋を後にした。部屋を予約した本人である心美は驚く素振りを見せないものの、風光明媚な温泉街の景色が一望できる部屋の眺めと内装を見れば、ここが如何に高級なものかは一目瞭然だ。俺たちは漸く人目を気にせずに羽を伸ばすことができる喜びを噛み締めるように、だらしなく姿勢を崩して荷物を下ろした。



 §



 夜のとばりが下りる頃、旬の食材や地の物がふんだんに使用された会席料理に舌鼓を打ちつつ様々な地酒を堪能した俺たちは、程良く酔いが回ってきたため、眠くならないうちにそろそろ温泉を満喫しようかと思い立った。1階まで下りて受付で貸切風呂を利用する旨を告げると、バスタオルと使い捨てのアメニティグッズを受け取って浴場へと向かう。だが、俺はここでふと、ある1つの疑問が浮かんだ。


「それじゃ、行きましょ……?」


「え、ちょっと待った! こういうのって、男湯と女湯に分かれてるもんじゃないのか!?」


 そう、心美が俺の手を引いて向かった先の浴場は、一般客向けの大浴場には当然に存在しているはずの男女を区別する隔壁かくへきがないのだ。


「貸切風呂なんだから、そんなものないわよ。恥ずかしがらないの。」


「い、いやいや! そういう問題じゃないだろ……!」


 言わずもがな、貸切風呂とは言え他の宿泊客も利用する温泉に服を着たまま入る訳はないので、必然的に俺たちは互いに生まれたままの姿を曝け出すことになるということだ。


「俺は後から入るから、今は遠慮しとくよ……!」


「ここまで来たんだから観念しなさい! 逃がす訳ないでしょうが!」


 凄まじい力で腕を掴まれ、引き摺られるように浴場の脱衣所へと連れてこられた俺は、もはやこれ以上の抵抗は無駄だと悟って諦観の境地に至った。


「っ、分かった! 降参だよ……。」


 露天風呂と脱衣所を隔てる透明なガラスの引き戸は、濛々もうもうと立ち込める湯気によって曇っている。俺は黙々と服を脱ぎ始めた心美から距離を取ってなるべく視界に入れないように、着ていた衣服を畳むことも忘れて手早く籠に放り投げ、先に浴場へと入ってシャワーで身体を洗い始めた。


 ──ガララッ……。


 遅れて心美が浴場の引き戸を開けて入ってくる音がする。俺は仕事柄、視界の外から聞こえてくる物音に敏感なため、癖で思わず振り返ってしまいそうになるが、ぐっと堪えて平常心を保とうとシャンプーを手に取って髪を洗う。取り敢えず、シャンプーを泡立てて髪を洗っている間は、彼女の柔肌を目に入れてしまう心配はない。だが、まぶたを閉じて視覚を遮断していると、今度は聴覚が過敏に周囲の物音を拾い上げようと研ぎ澄まされる。心美の素足が浴場の湿った石畳とぶつかる足音が俺のすぐ後ろまで近づいてきたかと思えば、今度はシャワーによる水音が響いてくるのが分かる。彼女の一挙手一投足に、俺の鼓動は高鳴るばかりだ。


「私たち、もう付き合ってるんだから、そんなに恥ずかしがることないのに。」


 黙り込んだまま念入りに髪を洗う俺の後ろから、心美が深い溜息と共に呆れた声で話し掛けてくる。


「そんなの、頭では分かってても無理に決まってるだろ……。」


 愛する恋人の一糸纏わぬ姿に動揺しない男は居ない。むしろ俺からすれば、何故に心美は一切恥ずかしがることなく平然として居られるのか分からない。そんなことを考えながら悶々とした気持ちを持て余していると、浴場に響いていたシャワーの音が鳴り止んで、湯船から湯が一気に溢れる音がする。


「いつまでぼーっとしてるのよ。身体冷えちゃうわよ?」


 湯船に浸りながら気持ち良さそうな声を漏らす心美の言葉に意識を取り戻した俺は、身体に纏った泡を洗い流してシャワーを止める。恐る恐る後ろを振り返れば、立ち上る湯気の中、恍惚こうこつとした表情でリラックスしている心美の姿があった。必死に視線を逸らそうとする俺の理性とは裏腹に、男としての本能が見目麗しい恋人の艶姿に釘付けとなってしまう。すると、心美の肩の辺りを見遣った拍子に、何故か紐のような何かが掛かっていることに気が付いた。


「なっ、心美、それ──」


「あぁ、これ? 湯浴み着よ。受付で貰ったの。」


「えぇ……!?」


 何と心美は、湯着を着たまま風呂に入っていたようだ。俺は貸切風呂という密室で恋仲となった心美と2人きりだという事実に踊らされて、互いに服を着ていないものだと早合点していたらしい。通りであの心美が落ち着き払った態度を崩さなかった訳だ。


「堅慎の分も借りておいたわよ。」


 そう言って心美は、タオルと一緒に置いてあった俺の分の湯着を投げ渡す。俺は顔を真っ赤に染めながらそそくさと受け取った湯着を身に着けて、心美の身体に触れないようにそっと湯船に身を沈めると、氷点下の夜空に曝されていた身体が露天風呂の湯に芯から温められていくのを感じて気持ち良い。もっとも、景色を楽しむ余裕はない。無闇に辺りを見渡せば心美の濡れた髪や艶やかな項が視界に映り込んで目の毒だ。


「堅慎ってば、見たことないくらい大慌てだったけれど、何を勘違いしてたのかしらねー?」


「お、お前ぇ……!」


「勝手に早とちりして裸のまま慌てふためいてた堅慎、凄く面白かったわ……!」


 以前のような酩酊状態とは行かないまでも、そこそこ酔いが回っている様子の心美は、俺の一連の滑稽な行動を思い返しながら腹を抱えて大笑いしている。照れ隠し半分、仕返し半分のつもりで俺は心美の顔目掛けて湯を手の平ですくい飛ばす。そんな子供じみた応酬を何度か繰り返すうちに、温かい湯に包まれた俺の身体に張り詰めていた緊張感がじんわりと溶解していくのをしみじみと感じる。


「堅慎、もう少しこっちに来て。」


「いや、それは──」


「いいから!」


 俺は心美に言われるがまま、そっと彼女の身体に手が届く距離までにじり寄る。すると彼女は、熱い湯によって上気した頬を膨らませながら、ぼそぼそと何かを呟く。


「全く、私だって相当勇気が要ったんだから。意気地なし……。」


「え、なんか言ったか……?」


「別に。」


 止めどなく流れ出てくる温泉の音と五月蠅い心臓の鼓動に掻き消されて、心美の声は俺の耳には届かなかった。ただ蕭々しょうしょうと降り注いでは湯船に溶けていく粉雪と水面みなもに反射する月明かりが美しく、心身に溜まった疲労が染み出していくような心地良さがあった。



 §



 その後、どちらが先に湯船から上がって着替えるのかで一悶着を経て危うくのぼせかけたが、何とか部屋に戻ってくることが出来た。結局俺たちは初詣と言いながら、朝から晩まで観光地を巡り歩いていたため、どっと疲労感が押し寄せてくる。倒れ込むようにダブルベッドへ身を投げ出すと、途端に瞼が重くなるのを感じる。それは心美も同じようで、隣で浴衣を着たまま横になった彼女は既に半分目を閉じている。


 酔いと眠気で極限まで警戒心が薄れた心美の緩んだ胸元から覗く真っ白な鎖骨に、俺の理性は酷く掻き乱される。心美の信頼を裏切る訳にはいかないため、俺はほつれた彼女の浴衣のえりを正して、襲い来る睡魔に身を委ねるように目を閉じた。



 §



 ──ドーン……!


 それから、どのくらいの時間が経過したのだろうか。俺たちは腹の底に響くような凄まじい轟音によって、心地良い夢の世界から叩き出されることとなった。暗闇に包まれた部屋の中で俺が見たものは、窓から僅かに差し込む月明かりを反射して輝く宝石のような心美の紅い双眸だけだった。

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