Ep.54 神威を喰らった名探偵

 駐車場を後にして、白い息を吐きながら一面の銀世界に擬態するように溶け込んでいる心美のストレートヘアに見惚みとれながら、手を繋いで目的地へと歩いていくにつれて、疎らだった人影は次第に群れを成し、同じ方向に向かって穏やかに流れてゆく。互いに歩幅を合わせるようにして会話を弾ませながら10分ほど歩いた頃には、垂雪しずりゆきを纏った群生する杉の大木と悠久ゆうきゅうの歴史を感じさせる大きな鳥居によって彩られた、雅趣がしゅに富んだ景色が見えてくる。


「おぉ、これは……。」


「風流ね……。」


 初詣のために訪れた目的地・日光東照宮の境内へと続く入口に到着した俺たちは、想像を超えた美しい景観を前に、口々に詠嘆えいたんの声を漏らす。


「ほら、行きましょ! 立ち止まってたら人混みに呑まれちゃうから!」


 高揚感を含んだ心美の溌溂とした声に辺りを見回せば、いつの間にか俺たちは参拝客の人混みの中に取り込まれていた。適度に休憩を取っていたとはいえ、混雑を想定して早朝に出立したため現在時刻は午前10時にもなっていない。にもかかわらず、三箇日の境内は俺たちと同じく初詣に来た参拝客で既に相当な活況を呈している。俺は心美の手を引いて、雑踏からの脱出を図るために参道の端へと寄ろうと歩を進めた。だが、道の側端では大きなカメラを構えた男たちの前で女性が参拝客にマイクを向けて何かを喋っていた。


「心美、悪い!」


「ちょっと、なによ……!」


 平穏無事な生活をようやく取り戻した心美をメディアに露出させる訳にはいかない。俺は即座に振り返って心美を押し返し、人の流れに逆らわずに歩み続けることにした。


「多分、テレビ局か何かの取材中だったみたいでさ。」


「なるほどね……。」


 これほどまでの群衆に紛れていては、周囲の参拝客たちに心美の存在を勘付かれる可能性は非常に高い。とはいえ、誰もが目を奪われるような麗しい白髪の女性がテレビカメラに映り込んでしまえば、それが茉莉花心美であるということは直ちに特定されてしまうだろうから、やむを得ない。


 しかし、既にすぐ近くを歩いている何人かの参拝客が忍び声で会話しながら刺すような視線を心美に向けてくるのを感じて、俺は心中穏やかで居られない。俺の脳内では、心美の身の安全を預かるボディガードとして仕事モードに切り替えるべきか、心美との初デートを存分に楽しむ恋人としてプライベートモードを継続するべきか、緊急会議が招集されていた。


「ちょっと、堅慎……? 何をそんなに怖い顔してるの?」


「え? あぁ、悪い。後ろの人たち、心美の存在に気付いたかもしれない……。」


 俺は心美の耳元で囁くように告げる。


「もう、そんなこと気にしなくて良いわよ……。私とのデートは、そんなに退屈かしら?」


「まさか! 分かったよ、もう考えないようにする。」


「仮に私の正体が割れても、神聖な神社の境内で無粋にも話し掛けてくるような良識を欠いた人間はそう居ないはずよ。下手に動揺してたら、かえって怪しまれちゃうんだから堂々としてて。良いこと?」


「承知しましたよ。お姫様。」


 心美は変わった。去年までの彼女は探偵としてのさがも手伝って、何事においても常に最悪の事態を想定して用心深く行動するほど警戒心が高かった。それなのに、今の彼女は物事を楽観的に捉えて前向きに考えようとするなど、本来の底抜けに明るい性格が前面に出てくるようになった気がするのだ。俺はそんな自然体の心美と共に堂々と肩を並べて歩ける日が来るとは考えていなかったため、彼女からちょっとしたお叱りを受けてしまったにもかかわらず、何だか感慨深い気分だ。


 俺は心美に言われた通り、平常心を心掛けて人流に沿って歩み続ける。その後は順調に、重要文化財の五重塔や三猿で有名な神厩舎を巡って、本殿に詣でることができた。


「ねぇ、堅慎は何をお願いしたの?」


「そりゃあ、今年も無事に暮らせるように、無病息災をな。」


「それだけ?」


「それだけって、俺たちにとっては掛け替えのない貴重なもんだぞ。高望みはできねえよ。」


「そういうことじゃないわよ。ばーか。」


 心美の個性的な風貌は、一箇所に留まっていればたちまち他の参拝客の衆目を集めてしまうので、俺たちは参拝を終えるとすぐに来た道をなぞるように引き返して歩き出す。


「そういう心美は、何を祈ったんだよ……?」


「教えなーい。はぁ。堅慎ってば本当に鈍感なんだから。」


「えぇ……?」


 なんて口では照れ隠しとして適当なことを言うが、人間とは愚かで強欲な生き物だ。そんな俺も御多分に漏れず、今もこうして心美との幸せな時間を過ごしているにもかかわらず、それに満足することなく欲深くも彼女との幸せが未来永劫続いて行くようにと、心から祈ってしまった。願わくば、手を繋いだまま顔を背けて機嫌を損ねてしまった彼女も、俺との将来について考えていてくれたら良いのにと都合良く考えてしまうのも、俺の煩悩に塗れた業の深い心のせいだ。


 境内を外に向かって歩いていると、参道の外れには沢山の参拝客でにぎわう露店が並んでいた。粉物や海鮮の鉄板焼きや温かい甘酒などが売っている屋台から立ち上るかぐわしい香りに、沢山歩いていたうちにすっかり空腹となったことを自覚する。


「もう昼時だな。心美、ここで何か食べてくか?」


「いいわね! あ、でも私が行ったら流石に……。」


「大丈夫だよ。俺が適当に見繕ってきてやるから、心美は端っこの方で目立たないように座って待ってな。っと、マフラーずれてるぞ。」


 俺は心美を参道の端に設置されたベンチに座らせて、肌の露出を極力抑えるためにマフラーを直してやる。ものの数分で帰ってくれば、流石の心美でも正体が見破られることはないだろう。


「すぐ戻ってくるよ。」


「焦らなくて良いわよ。ありがとね。」


 俺は心美のため、いくつかの露店を渡り歩いて、たこ焼きや焼き鳥といった軽食に熱々の甘酒を買って、予告通り5分前後で彼女の待っているであろうベンチの辺りに戻って来た。だが、驚くべきことに彼女の姿はすっかり見えなくなっていた。その代わりに、彼女が座っているであろうベンチの周りには異様な人集ひとだかりが出来ていた。


 ──おい、茉莉花さんだってよ……!


 ──ウソ!? 最近ニュースでやってたあの……?


 ──ばか、そんな訳ないだろ! 心美さんだよ! 探偵の!


 ──マジで!? サイン貰いに行こうよ!


「おいおい、マジかよ……。」


 両手が塞がった状態では群衆の中を掻き分けて心美のもとまで辿り着くこともままならない。俺は紙コップに入っていた甘酒を一気に飲み干してゴミを捨てて片手を空けると、勇猛果敢に心美のもとへと一直線に突進する。


「心美!」


 ミルフィーユのように層を成して心美を取り囲む人混みの最深部に近づくと、彼女の着ている赤いコートを視界に捉える。


「堅慎……!」


 心美は有象無象の中から俺の姿を認めると、俺の手を取って比較的手薄となっていた脇から包囲網を突破する。だが、分別のある大人はともかく、心美のことを知っていた子供たちを中心に、逃げる俺たちを追いかけ回す集団が現れた。


「白いお姉ちゃん! サインちょーだい!」


「待ってよー! 探偵のお姉ちゃん!」


 さらに、神聖な境内で走り回る子供たちを制止すべく、彼らの両親と思しき大人たちまでがその後を追い始めた。その騒ぎを聞き付けたのか、行き道すがらに見た大きな機材を抱えたテレビカメラクルーがこちらに気付いて、リポーターの女性がマイクを持ってこちらに近づいてくる。


「あ、貴方は! あの茉莉花探偵ではありませんか!?」


「人違いです! カメラ向けないで!」


 俺の手を引いて全力疾走する心美に引き摺られながら、後方から迫ってくる大勢に向けて苦し紛れの言い訳をするも、全く通用する気配がない。


「先日貴方の父君である大善氏が急逝し、母君である心寧氏が逮捕されました! そのことについて、何か一言お願いします!」


「頼むからほっといてくれ……!」


「茉莉花さん! こちらの男性とはどのような関係なのでしょうか!?」


 記者による詰問を全て無視して、俺たちは誠不本意ながら、脱兎の如き全力疾走で慌ただしく神社を後にすることとなった。



 §



 メディアと参拝客による二重の猛追を躱し切った俺たちは、念のため来た道をそのまま引き返すのではなく、わざとうろうろと30分くらい周辺を散策した後、自動販売機で水を買ってから駐車場に停めておいたレンタカーまで辿り着いた。助手席に乗り込むなり、心美は身に着けていたマスクを取って大きく深呼吸する。


「全く、何を間違ったらあんなことになるんだよ……。」


「ごめんなさい……。最初にっちゃい子が私に気付いて、特別に1つだけサインを書いてあげたら、次々に友達を呼んできたみたいで……。」


 そして子供たちを捜しにきた親によって心美の存在が知れ渡り、周囲の人々を巻き込んだ人集りが形成されたのだと、心美は弁解する。初詣を地元の神社で済ませようとしなくて本当に良かった。テレビカメラに姿を捉えられてしまったが、本拠から遠く離れた日光で目撃情報が出たからといって、自宅までは特定されまい。


「まさか世界遺産の神社にまつられた神をそっちのけで追いかけ回されるなんて、傑作だな……! どうよ、世間に神格化される気分は?」


「確かに、一度で良いからちょっとくらい目立ってみたいなーとは思ったけど、ここまでは望んでないわよ!」


 心美は額の汗をタオルで拭いながら語気を強める反面、呆れたような苦笑いを浮かべる。徹底した合理主義でクールな性格をしている心美にも、一人前に自己顕示欲があるものなのかと、俺は少し意外に思う。


「まあ、珍しい体験が出来て良かったな。色々軽食買って来たから、温かいうちに食べよ。」


「そうね。散々歩き回って疲れちゃったわ……。」


 暖かい車内のフロントガラスから美しい正月の雪景色を眺めながら、愛おしい彼女と一緒に食べる少し早めの昼食は特別な味がした。これまで催事の際に露店で食べる飯など無駄に値が張るだけで質素なものだと思って忌避していたが、今ならその価値が理解できる気がする。俺は得も言われぬ心地良い陶酔感を覚えながら隣に座る心美を見遣ると、何故か彼女の輪郭がぼやけて目に映る。


「なによ……? どうしたの、ぼーっとして。」


「いや、何か分からないけど、頭がくらくらするんだ……。」


 俺はこの正体不明の浮遊感に覚えがあった。それは数週間前の誕生日、心美と一緒に酒を飲みながら夜通し語り明かしたあの時と良く似ている。──まさか。


「さっき心美を迎えに行く前に甘酒を買ったんだけど、只事じゃなさそうだったから持ち帰るのを諦めて急いで飲み干したんだ……。」


「えぇ!? それで酔っ払っちゃったって訳? 甘酒のアルコール度数なんて大したことないはずだけど……。」


 少々迂闊うかつだったが、露店で売っていた甘酒は酒粕を原料にした比較的度数の高いものだったようだ。加えて、紙コップ一杯に入った2人分の甘酒を一気にあおり、人混みから逃れるために全力で走り回ったことが手伝って、すっかり酔いが回ってしまったようだ。特段気分が悪い訳ではないが、少なくとも暫く車の運転は控えるべきだろう。


「それは悪いことをしちゃったわね。大丈夫……?」


「あぁ、気遣ってくれてありがとな。そんなことより、温泉旅館のチェックインには間に合いそうか……?」


「それなら心配要らないわ。夕食の時間帯までに向かえば良いから。」


 俺たちは唐突なアクシデントに見舞われながらも、ゆっくりと昼食を取って車内の喚起ついでに窓を開けて冷たい空気を感じつつ、俺の酔いが醒めるまで休憩を挟むことにした。

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