Ch.5 温泉旅館監禁連続殺人事件

謹賀新年

Ep.53 煩悩塗れの初詣

 五臓六腑が縮み上がり、肌を刺すような冷たい空気に身震いして目を覚ます。探偵事務所兼自宅の寝室の角に設置されたキングサイズのベッドの中で、俺の身体を湯湯婆ゆたんぽ代わりにして眠る六花のように儚げで麗しい恋人の髪を撫で付ける。


 今まで通りであれば、仕事のことばかり考えていた俺はすぐにベッドから起き上がって探偵依頼のメールが来ていないか確認したり、朝食の準備をしながら朝に弱い眠り姫のためにジャスミン茶を淹れたりと忙しなく働き始めるところなのだが、先日遂に恋仲となった愛おしい彼女を目の前にして、その安らかな寝顔を1分1秒で長く脳裏に焼き付けておきたくて、俺は全く動けない。動きたくないんだ。それに、今日は元日だ。ベッドの上で怠ける俺をとがめる者など、何処にも居やしない。


 白く美しい睫毛まつげを眺めながら、彼女の体温を感じるために背中に腕を回すと、眠ったまま無意識に彼女の方も俺の腰の後ろに手を回して、ふっと口元を綻ばせる。その仕草が、堪らなく愛おしく感じてしまう。新年早々に訪れた幸せを噛み締めながら、慈愛に満ちた彼女の優しい表情と温かな感触に安心し切った俺は、今まで蓄積してきた疲労が氷解する感覚と共に、ゆったりとした微睡まどろみの中に落ちて行った。



 §



「──ん……。」


 これから毎日愛する恋人を間近で見られるんだ。何という幸せだろうか。


「──しん……。」


 新年一発目に見る、所謂初夢と呼ばれるものは、その年1年の吉凶を占うと言われているけれど、大好きな彼女の夢を見た俺は、おそらく今年一番幸せな男ということに違いない。──ああ、いつまでも彼女の夢を見ていたいな……。


「堅慎! 起きなさいよ!」


「うわぁ!! こ、心美……!?」


「いつまで寝てるつもり!? もう昼過ぎよ!」


 そう言って頬を膨らませながら、ベッドから飛び起きた俺を見下ろしているのは、さっきまで夢の世界で会話していた俺の恋人・茉莉花心美だった。尤も、彼女との関係に恋人とという称号が追加されたのは、ごく最近の話だ。心美は親を失くした俺の唯一無二の家族でもあると同時に、茉莉花探偵事務所の所長として肩書上は上司でもあり、実際は頼れる相棒だ。また、幼少期からの気心知れた竹馬の友であることも加味すれば、俺たちの関係性は一言で表すことなど到底出来ない。


「え、昼って……?」


「折角今日は一緒に元日詣に行こうねって約束したのに。仕様がないんだから!」


 珍しく二度寝をしたまま寝過ごしてしまった俺の額を指で弾く心美の後を追ってベッドから這い出ると、俺は彼女の背後から腕を回して、肩に顎を乗せて囁く。


「っ、ごめん。埋め合わせは必ずするから。」


「ちょっと、本気にしてないわよね。別に怒ってる訳じゃないのよ……?」


「あぁ、分かってる。偶には、まったり家で過ごそうか。冷蔵庫に昨日届いたおせちが入ってるから、一緒に食べよう。」


「そうね、お腹減ったわ!」



 §



 テレビで正月の特番を見ながら、クリスマスイブの日に予約していた高級なおせち料理に仲良く舌鼓を打っていた俺たちは、心美の父・茉莉花大善の残した遺産について話していた。


「どうやら預貯金だけでも数億円規模──それに加えて生前所有していた不動産が何件も。正直に言って、手に余るわね……。」


「マジか!? 一生遊んで暮らせる額だぞ……。」


「うーん。でも、私は今の堅慎との暮らしを気に入ってるから。お金なんて、いくらあったところでまた予期せぬ危険に巻き込まれるだけだわ。」


 確かに、心美の言う事にも一理ある。金を巡って散々な目に遭ってきた俺たちにとって、億単位の金を得たところで生活が潤っても、何らかの厄介事に見舞われるのではないかと怯えながら過ごすのは御免だ。それに俺だって、懐が寂しくとも心美さえ隣に居てくれればもう寂しくないのだ。これ以上の高望みは、罰当たりというものだろう。


「そうだな。だったら、どうするんだよ。折角お父さんが残してくれた遺産を相続放棄ってのも何か、なあ……?」


「それなら、必要最低限の生活費だけ受け取った上で、残りは何処かに寄付でもしましょう! 一度遺産を受け取ったなら、それをどのように処分しようが私の自由よ。それなら父への義理に背いたことにもならないはず。その上、あの茉莉花心美が多額の寄付をしたとあれば、世間での私の評判は再び右肩上がり! 敵対勢力も一躍時の人となる私の命を益々ますます狙いにくくなって、まさに一石二鳥だわ! ああ、自分の才能が末恐ろしい……!」


 鼻高々にそう宣言する心美に、俺は驚きのあまり、十数秒の格闘の末に漸く箸で掴むことが出来たひとつぶの黒豆を再び皿の上に落してしまう。意外と図太い性格をしている心美の思い付きそうなことだと納得が行く一方で、数億円規模の金をあっさりと手放そうとする豪快さには、開いた口が塞がらない。


「ははっ……! 心美と一緒に居れば、一生退屈せずに済みそうだな!」


「当たり前でしょ! ちゃんと付いて来てよね!」


 生涯において常に足枷となり続けていた悪しき過去の因縁を断ち切った心美は、見違えるほど明るく、元気を取り戻すことが出来たようだ。暴れ馬の如く奇想天外な心美に振り落とされないように踏ん張るのは骨が折れそうなミッションだが、そうでなくては面白くない。俺は改めて、心美と過ごしてきた日々に想いを馳せて、彼女と出会うことができた幸運を神に感謝した。


「さて。食べ終わったことだし、後片付けでもするかな、っと。」


「あぁ、後片付けなら私がやっとくから、堅慎はレンタカーの予約をしといてくれる?」


「お、おう。良いけど、どっか行くのか?」


とぼけないでよ。明日こそは初詣に行くの! 予約しておいたから。日光の温泉旅館!」


 ──日光だと。これまた混雑しそうな場所を選んだものだ。果たして心美は初詣に来た他の参拝客に面が割れることなく、1日を過ごすことができるのだろうかと、俺は逡巡する。だが、心美の期待に満ちた表情を前にして、無粋なことを言う訳にはいかなかった。


「分かったよ。色々と準備してくれてありがとな。楽しみにしておく。」


「うん! 私も楽しみだわ、堅慎との……!」


「っんな……!」


 急激に赤面する俺の表情を見て、心美はしたり顔で悪戯っぽく笑う。確かに、恋人となってから初めての外出なのだから、初デートという言い方は間違っていないのだろう。だけど、今まで色々な場所に2人で出掛けてきた俺たちの間柄において、今更そのようなかこつけは果たして適切なのだろうか。ぐるぐると脳内を駆け巡る雑念によって脳が沸騰した俺を揶揄うかのように舌を出して、心美は空になったおせちの重箱と皿を持ってキッチンへと向かっていった。


「こんな煩悩ぼんのう塗れの状態で神社に行ったら、神様に見放されそうだな……。」



 §



 今度こそ早起きすることができた正月三箇日さんがにちの2日目、心美が予約してくれた日光の温泉旅館に向かうためには、高速道路も使いながら2時間以上は掛かる長い旅路をドライブデートだ。俺は心美と一緒に身支度を済ませると、最低限の着替えなどが入ったリュックを背負って家を出る。人混みを想定して、心美は冬にもかかわらず入念に変装をして、橙色のニット帽を被って真っ赤なコートを羽織っている。


「なあ、凄く似合ってて可愛いと思うんだけどさ。それ、逆に目立たないか……?」


「っ、別に良いじゃない。仮に正体を明かすことになっても、もう私たちの命を無暗に狙ってくる輩はこの国には居ないわよ。多分ね……。」


「お前、さてはわざとバレて持て囃されたいと思ってるんだろ……?」


「……。」


 心美はあからさまに目線を逸らして、わざとらしく口笛を吹く。そんな古典的な誤魔化しが今時誰に通用するんだよと、心の中で突っ込みながら溜息が漏れる。


「確かにそうかもしれないけど、俺は折角のデートを誰にも邪魔されたくないだけだよ……。」


「へぇ……。堅慎がそこまで素直に自分の欲求を表に出すのは珍しいわね! やっぱり着替えてきてあげましょうか?」


「要らねえよ……! くそっ、楽しそうだなお前!」


 俺の心配を余所に自由気ままな振る舞いで俺を翻弄する心美に嫉妬した自分が急に恥ずかしくなったので、彼女の手を引いて雪解け道をすたすたと歩いていく。数分もしないうちに予約していたレンタカーショップへと辿り着き、契約書に一筆入れて代金の支払いを済ませて、心美を助手席に乗せて出発する。


「お願いだから、事故とかは勘弁してね?」


「誰が死に物狂いのカーチェイスの果てにお前を助け出したと思ってるんだよ……。」


 口では威勢の良いことを言うものの、慣れない車種に久々の高速道路ともなれば、心美の命を預かっているという責任感から、多少の緊張が生じる。とはいえ、三箇日の早朝の時間帯であれば車道も空いているだろう。安全運転を意識してゆっくり走ったとしても、そう時間は掛からないはずだ。


「眩しくないか……?」


「ん。大丈夫よ。」


 心美の眼球の虹彩こうさいには色素がほとんどないので遮光性が極端に低く、冬の弱い日差しも不快に感じてしまうかもしれないと心配したが、どうやら杞憂だったようだ。俺は温かいジャスミン茶が入った魔法瓶と膝掛けをリュックから引っ張り出して、彼女に手渡す。


「寒かったらいつでも言えよ。」


「心配性なんだから……。でも、ありがとね。」


 サービスエリアに立ち寄ってちょっと豪華な朝飯を食べながら休憩を取りつつ、一般道に下りて暫く車を走らせていると、冬化粧した風情ある雄大な自然と情緒溢れる古風な街並みが織り成す美しい景観が広がる。


「この辺りも雪が降ってたんだな……。」


「綺麗ね……!」


 口々に感嘆の声を漏らす俺たちだが、ここであることを思い出す。


「そう言えば、初詣シーズン真っ只中の今、車停める場所あるかな……。」


「ああ、駐車場なら予約しておいた場所があるわよ。ここからは私が道案内してあげる。」


 そう言ってスマホを見ながら道順を伝えてくれる心美の抜け目なさに、俺は改めて感心する。心美の案内に従って駐車した俺たちは車を降りて大きく伸びをする。必要最低限の荷物以外は車中に置いたまま、俺たちはゆっくりとした足取りで散歩を楽しみながら、有名な世界文化遺産である日光東照宮へと向けて、歩を進める。


「なあ、折角の初詣なんだから、着物とかレンタルしても良いんだぞ?」


「あら。帽子やサングラスにも似合う着物を堅慎が選んでくれるって言うなら、考えるわ。」


「おっと、これは失礼。」


 考えてみれば、心美はアルビノ体質のせいで人並みにお洒落をすることもままならない。誰もが羨む美貌を持っているとはいえ、その代償にしてはあまりにも酷だろう。一方で、彼女が仮にアルビノではなかったとしたら確実に運命の歯車は大きく変わっていただろうとも思う。そうだとしたら、心美は俺と恋仲になるどころか、出会う事すらなかったかもしれないと想像すると、彼女のアルビノ体質も含めて、俺にとっては全てが愛おしいものに感じられるのだ。


「堅慎……。」


 その声に左隣を見遣れば、心美が恥ずかしそうに俯きながら小さな右手を差し出してくる。


「さ、寒かったら言えって、さっき貴方が言ってたじゃない……!」


 一瞬だけ、いつもの仕返しだと思って分からないふりをしようかとも思ったが、この状況でそんなことをするのは、あまりにも意地が悪いだろう。俺は大人しく心美の意思を汲み取って、今までのように左手を彼女の手の平に翳す。


「はあ、50点ね……。」


「えぇ……?」


 何故か大幅な減点を喰らった俺は、訳が分からないといった表情で心美を見つめると、彼女は照れ臭そうにそっと手を握り直して、五指を絡ませて顔を赤くする。俺はその手を自分のコートのポケットへ誘い込んで、二度と減点されないように、彼女の補習授業を密室でじっくりと味わうことにした。

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