暗い過去との決別
Ch.4 ED 茉莉花大善との約束
橘の車によって自宅兼事務所まで送り届けてもらった俺と心美は、事件解決の労をねぎらうべく、すぐに帰ろうとしていた橘を引き留めて事務所に上げ、温かいジャスミン茶と洋菓子をテーブルに並べた。
「これは、ご丁寧にどうも。」
俺の淹れたジャスミン茶を一口啜ってから大きく息を吐いた橘は、不思議そうに部屋全体を見渡した後、俺たちを交互に見比べる。
「なにか……?」
「いえ。茉莉花さんと岩倉さんの探偵としての実力は、確かにこの目で見届けさせて頂きましたがね。まさか、本当に
そう言って興味深そうに忙しなく視線を動かす橘に愛想笑いを返す俺たちは、改めて事件の話へと立ち返る。
「先程平野から電話がありまして、心寧さんの確保を知らされた実行犯たちは、自身の犯行を認めて大人しく取り調べに応じ、自供を始めたと言っていましたよ。申し上げにくいのですが、心寧さんは大量殺人の主犯格として、極刑もあり得るかと。いずれにせよ、二度と心美さんの命を狙うことはできないでしょうな。未だ特定に至っていない他の襲撃犯についても、心寧さんの逮捕によって芋づる式に確保できるかと思われます。」
「そうですか……。」
「ついでにお知らせしておくと、酷く窶れた様子の心寧さんを不審に思ったため尿検査を行ったところ、彼女の身体からは薬物反応が検出されたようです。頻りに金に執着していた原因は、つまりそういうことかと。」
心美の心中を慮れば、橘によって告げられた吉報を手放しで喜ぶことはできないが、不幸続きの彼女に漸く平穏無事な生活が戻って来るのかと思うと、これで良かったのだと心の底から思う。
「それにしても、本当に良いのですか? 家庭裁判所での検認手続を経なければ遺言書は有効なものとして扱われないかもしれませんよ?」
そう。橘の言うように、心美は結局俺たちの忠告を無視する形で、今この場で父・大善が残した遺言書を開封することに決めたらしいのだ。
「良いのよ。どの道父の遺産の法定相続人は私ひとりだけになってしまったから、遺言書の内容がどうあれ遺産は自動的に私へと相続されるわ。検認手続には相当の時間を要するでしょうから、面倒だもの。」
机の引き出しからレターオープナーを取り出して、遺言書の入った封筒を開封すると、心美は中の紙に書かれていた内容を読み上げた。そこには、俺の予想通り遺産を全て心美に譲り渡す旨が記されていたと共に、彼女をひとり故郷に残して失踪した不甲斐ない親としての謝罪が長々と綴られていた。心美は遺言書を読み終えた後、封筒に手紙を戻して丁寧に折り畳んだと思えば、驚くべきことに、何の躊躇もなくそれをゴミ箱に投げ入れた。
「なっ……!? いいのかよ心美!?」
「お父さんは私に、過去に囚われず生きろと言っていたから。これでいいのよ。」
一切の迷いを捨て去り、潔くきっぱりと言い切って、自信に満ちた表情でジャスミン茶をこくこくと飲み干した心美の顔には、もう今までのような悲愴感の面影など微塵も感じられなかった。きっと若くして天に召された父・大善も、破天荒な心美の振る舞いを見て、満足気に大笑いしているに違いないだろう。
「まあ、後のことは全て我々警察にお任せください。それにしても、結局貴方方にとっては、この忙しい年の瀬にもかかわらず厄介事に巻き込まれた上に、ただ働きをさせられただけとあって、同情を禁じ得ませんな。」
「構わないわ。私にとっては図らずも、薄暗い過去を清算する良い機会となった上に、資産家の父が残してくれた莫大な遺産を丸々引き継ぐことになったからね。」
年端も行かない少女にもかかわらず、豪胆な振る舞いを見せる心美の言葉を聞いた橘は、去り際に豪快な笑い声を上げながら「達者で」と、一言残して事務所を去っていった。俺は漸く、心美とふたりきりで家族水入らずの年末を過ごすことができるように相成ったという訳だ。
「さて。色々あったけど、終わり良ければ全て良しってところか?」
「いいえ、まだ終わってないわよ。」
俺の座るソファの隣に腰を下ろして、藪から棒に意味深なことを言う心美を見て首を傾げる。
「最期にお父さんが言ってた『岩倉君は心美を幸せにすると私に約束してくれた』って、どういうこと……?」
口に含んだジャスミン茶を危うく吹き出しかけた俺を見ながら、悪戯っぽく微笑みかける心美は何かを期待するような眼差しをこちらに向ける。父の死に目にあれだけ取り乱していたというのに、彼女の記憶力は全く衰えていなかったようだ。この際、隠し通すことは無駄だと判断した俺は、大善と交わした会話の中で聞いた心美の両親が失踪した経緯と、俺が心美の家族として彼女を人生を賭して幸せにしてみせると誓ったことについて、正直に白状した。
「んー、でも、私は今も十分幸せよ?」
「いや、そうじゃねえよ。その、こう、何て言うか……。」
言葉に詰まって何も言えない俺を急かすことなく、黙ったまま誠実に俺の双眸を見つめる心美の無言の圧力に観念した俺は、正直な想いを吐露することに決めた。
「心美、驚かないで聞いてくれるか……?」
「えぇ。絵物語のような出来事を散々体験してきた私たちだもの。今更何を聞かされたところで、驚くことなんてないわ。」
心美の一言に勇気を貰った俺は、ゆっくりと深呼吸してから、積年の思慕の情を吐き出すべく口を動かし始めた。
「俺な、最近心美と一緒に居ると心臓が鷲掴みにされるような、今までの人生で一度も経験したことがない感覚に襲われることがあるんだ。」
「……!」
「心美と一緒に居られなかった時は死にそうなほど寂しかったし、心美に触れていられる時間はいつも一瞬に感じられるくらいに特別だった。今こうやって隣に座って顔を見つめてるだけでも、ちょっと緊張するようになっちゃってさ。」
「うん……。」
「始めのうちは、心美はきっと今まで孤独に暮らしてきた反動で男女の距離感を分かっていないのかと思って、あくまで家族として接するように努めてたんだ。家族として、心美の信頼を裏切る訳にはいかないって。でも、一緒に暮らして、色んな苦難をふたりで乗り越えて、色んな楽しい思い出を作っていくうちに、どんどん溢れ出てくる感情の奔流を抑えきることができなくなってったんだ。」
「私もよ……。」
話が長くなればなるほど、脳が勝手に気持ちを誤魔化そうと悪い方に働き始める。俺はきっちりと自分の想いにけじめをつけるため、改めて心美の宝石のような深紅の双眸を覗き込みながら、誠心誠意、有りっ丈の気持ちを込めた言葉をぶつける。
「心美、俺はお前のことが好きだ。ひとりの女性として、恋愛対象として好きなんだ。」
「っ……!」
心美は俺の直情的な愛の告白に言葉を失っている。失敗した。そもそも心美にその気がないなら、ひとつ屋根の下で暮らしていく俺たちの今後の生活が気まずくなるだけじゃないか。後先考えず、身勝手に育み続けた恋情を心美に伝えてしまった己を恨みかけた──その時だった。
「もう、遅いわよ! 堅慎のばかっ……!」
涙を浮かべながら隣に座っていた心美は勢い良く俺の腰に手を回して、強く抱き締めてくる。ここに来て臆病になってしまった俺はその真意を図りかね、彼女の背中に手を回して良いものか悩み、所在なく両手をぶらつかせていた。
「私だって、堅慎のこと、ずっと好きだったわよ……!」
その言葉を聞いて、俺は漸く心美の背に手を回すことができた。彼女はいつものように掠れた声で泣き始めてしまうが、抱き締めた彼女の身体は今度こそ震えていなかった。想いが通じ合った幸せな時間を何分も堪能した俺たちは、ゆっくりと離れて目を見合わせる。うるうると潤んだ紅い目を細めてにっこりと微笑む彼女は、本当に可愛いと心の底から思うことができた。
「心美は、いつから俺のことが、その、好きだったんだよ……。」
「そう言う堅慎は?」
「分かんねえよ……。でも、気が付いたら、目が離せなくなってたんだ。」
「でしょ。私も同じ……。」
こんな時までクールに振舞う心美の物言いに、俺は今後も頭脳明晰な彼女の手の平の上で踊らされ続けることを覚悟した。まあこれも、惚れた弱みというやつか。俺はまさか正式に心美と恋仲になることができる日が訪れるとは夢にも思っていなかったが、正々堂々彼女に受け入れられた今ならば、じっくりとその美しい顔を見つめることができる。
そして、いじらしく微笑む心美の表情に許されている気がした俺は、彼女の目を見つめながらゆっくりと顔を近づける。俺の意図を理解した様子の心美は驚いて目を見開いた後に、観念したように目を閉じた。一切抵抗しない心美に確信を得た俺は、心美の座るソファの奥の肘掛けに手を突いて、色白の肌に良く映える薄紅色を目掛けて身を寄せようとした。
──カラン、コロン。
突如として、事務所の玄関扉に備え付けられたドアベルが来訪者の存在を知らせる。
「すみませーん。ネットでこちらの探偵事務所を知ったんですけど、ここであってますかー?」
「「今日は休業日です!!」」
俺たちは突然部屋に鳴り響いたドアベルと来訪者の声に飛び上がって、気まずそうに互いに距離を取る。ぶつくさと文句を垂れながら来訪者が事務所を去ってから数秒の間を置くと、俺たちはどちらからともなく、くすくすと笑い合った。
§
数日後に迎えた
「今年は本当に、色々なことがあったな……。」
「細く長く生きていくためには、来年こそ慎ましい生活を送っていきたいものね。」
温かい蕎麦汁を飲み干してから、安らかな笑顔でほっと一息、心美は新年の抱負を口にした。
「だったら、厄払いも兼ねて初詣にでも行こうか!」
「良いわね! 折角だったらちょっと有名な神社まで足を伸ばして、1年の労をねぎらうために温泉とかにも行けたら最高じゃない?」
「心美はやっぱり天才だなー! 行こう行こう!」
幸せ一杯の年末も残り僅か。俺たちは初々しい恋人というよりも、言うなれば熟年の夫婦といった感じで、今までよりも一層気兼ねなく互いに甘えられる関係になった。そして俺は、ある程度素直に心美への好意を言動として形にできるようになってから、自分が今までどれだけ重たい感情を心の内に秘め抱え続けていたのか、痛感することになった。
「心美……。」
「ん、なあに……?」
「大好き。」
「なによ、急に。気持ち悪いんだから……!」
にこにこと笑いながら俺の愛の囁きを茶化すようにあしらう心美を逃がすまいと、俺は真剣な眼差しで訴えかける。俺の誠意を込めた表情に絆されたように、心美は食べ終わった年越し蕎麦の入っていた椀を片付けることも忘れて、俺の膝元へと誘われる。無言のまま互いの指を絡ませ合って手を繋いだ俺たちは、まるで全力疾走でもしたかのような激しい鼓動に急かされるまま、そっと目を閉じ、顔を近づけ、数日前のリベンジを果たした。勢い余ってかちりと互いの歯が当たってしまったことなど気にも留めず、貪るように初恋の味を確かめ合う。
「っ、下手くそ……!」
「そっちこそ、初めての
前言撤回──俺たちはまだまだ正直に感動を伝え合うこともままならない、初々しい恋人の域を出ていなかった。でも、それで良いのだ。だって、十数年もの長い間、紆余曲折を経て
明日も明後日も変わらず愛する彼女の笑顔を拝むことができる幸運を天に感謝しながら、大きめのブランケットを分け合い、冷えた身体を温め合うように心美と身を寄せ合った。そして、電源を切っていないままだったテレビから流れてくる新年のカウントダウンと共に、俺たちは互いの感触を名残惜しむかのように、心ゆくまで幾度となく唇を重ねるのだった。
数瞬の間を置いて、再びかちりと硬い音が響く。互いの吐息が感じられる距離まで近づいて、胸元でぶつかった彼女からの贈り物であるシルバーのペアネックレスは、固く結ばれた俺たちの新たなる門出を祝福するかのように、液晶から漏れる淡いブルーライトを反射して、煌びやかに光輝いていた。
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