Ep.51 黒い茉莉花

「どういうことよ、心美……!?」


 心美の母・心寧は、始めから自身のことを疑っていたと主張する娘の言葉に耳を疑っている。


「どういうこともなにも、そのままの意味よ。私は最初から貴方が事件の裏で糸を引いていた殺人事件の黒幕だと考えていたから、堅慎と自分の身を護るために24時間、一瞬たりとも隙を見せないようにしていたのよ。」


 心美は大善宅で俺が寝ている間は眠気を我慢して一睡もせず、自分が寝るときは俺と一緒に眠ることを拒否していたのは、当初から母親が自分を殺そうとしていることを見抜いていたためだったのか。俺は漸く、心美の行動の謎が解けた。


「私が最初に貴方を疑ったのは、貴方が私たちの事務所に不法侵入してからよ。貴方はあの場で何か金目の物はないか、空き巣紛いのことをしていたんでしょう。そこで折悪おりあしく帰宅してきた私たちを前にして咄嗟に『依頼を持ってきた』と言って誤魔化したのよ。」


「……。」


「そうして貴方に言われるがまま車に乗せられてここまで連れて来られた私たちは、帰り際に再び貴方の車に乗り込んだ。その時を狙って貴方は私たちを殺すために、雇ったごろつき共をけしかけた。でも、とんだ誤算だったわね! 貴方の良く知る昔の私はか弱いただの女の子だったかもしれないけれど、堅慎と出会って大きく成長した私は、あんな素人集団には殺せないわ!」


「っ……!」


 心寧の顔色は段々と蒼白く変色していき、額には汗が滲んでいる。もうあと一押しだ。


「貴方が私を殺そうとした犯人であることの確信を得たのは、襲撃犯から奪い取ったはずの金属バットが部屋から忽然こつぜんと無くなっていたことがきっかけよ。まるで始めから凶器の保管場所が分かっていたかのように物色した形跡も残さず、私たちが紫音一家殺害事件の現場検証のために留守にしていた僅かな時間でバットを持ち去ることができたのは、貴方を置いて他に居ないわ。父は寝たきりで動けないはずだからね。」


 心美は本当に優しい娘だ。心寧を一目見た時から彼女が自身に殺意を抱いているのではないかと気付いてからというもの、数々の出来事を経て確信を得るまでに至ったというのに、そのことを相棒である俺にすら黙ったまま、曲がりなりにも自分の母親である心寧を疑いの目で見ることや犯人として警察に突き出すことへの葛藤に苛まれ続けていたんだ。俺は昨夜心美と会話して、彼女の様子がずっとおかしかった理由に漸く気が付くことができた。


 心美は、かつて娘である自分を棄てた両親も今になって良心の呵責かしゃくに苛まれ、心の何処かで後悔しているはずだと期待していたのだ。そんな想いも虚しく、母親に至ってはあまつさえ5年前から自分を殺そうとしていたという無情な現実を突き付けられ、裏切られたような気持ちになったはずだ。俺は、泣き腫らした目を擦りながら足を震わせている心美の手を握って、もう彼女が1人ではないことを伝える。彼女は俺の手を強く握り返しながら、涙声になりながらも言葉を紡ぐ。


「そうして貴方の指示によって2度目の襲撃を仕掛けてきた3人の男を確保した私たちは、彼らの顔を見て確信が裏付けられることになったわ。男たちは5年前、1人暮らしをしていた私を襲いに来たスーツの男と同一人物だった。まさかあの時から虎視眈々と私を殺すチャンスを窺っていたなんて、考えもしなかったわ……!」


 殺人教唆の動機を言い当てた俺と、犯行の絡繰りを看破した心美によって完全に追い詰められた心寧は、諦念の境地に達したようにげらげらと下品な笑い声を上げる。


「あーそうよ! ぜーんぶ貴方たちが言った通りよ! 大人しく殺されてくれれば良いものを、何処の馬の骨とも分からない男を連れてきたかと思えば、ホームレスとはいえ、武器を持った大人数人をいとも簡単に二度も退けるなんて、想定外もいいとこだわ!」


 殺人計画に想定通りも糞もあって堪るものかと、俺は心の中で悪態を吐きながら心寧の自白に耳を傾ける。


、私と大善はいつまでも幸せな夫婦のままで居られたのに! 貴方は誰からも愛されないような忌み子なんだから、せめてとっとと私に殺されて金になる方が利用価値があったてもんよ、この悪──」


「ふざけるなっ!!」


 刹那、耳をつんざくような大声を放ったのは心美の父・大善だった。大善は叫ぶような声と共に吐血して、大量の血がベッドシーツに染み込んでいくことに目もくれず、ただひたすらに力の限り喋り続けた。


「心美が誰からも愛されていなかっただと……!? 違う! 少なくとも私は、心美を心の底から愛していた! 墓場まで持っていくつもりだったが、それだけは言っておかねばならん! 心美のために戦ってくれた岩倉君もそうだ! 彼だって心美を幸せにすると私に約束してくれたほどに、心美のことを愛していることを知っている! 心美はもう、私たちの知るあの頃のか弱い人間ではない、自分で道を切り開いていく力を持った未来ある若者だ! お前のような心がどす黒く濁り切った女に、心美を侮辱する資格などない! ごほっ──」


 弱り切った身体に鞭打って数十秒にもわたる間、病人とは思えないほどの怒号を上げ続けていた大善は遂に限界を迎え、今までとは比較にならないほどの多量な出血と共に力なく倒れる。


「大善さん! 大丈夫ですか!」


 傍で様子を見ていた橘が、ぐったりと動かなくなったの大善の肩を揺すって声を掛けるも、返事はない。


……!」


 遂に大善のことを本人の目の前で父と呼んだ心美は、瀕死の大善のもとへ駆け寄って手を取って話し掛ける。


「ここ、み……。こんな父親で、済まなかったな……。」


「喋らないで! 今救急車を呼ぶから──」


「無駄だ……。もともと医者に宣告された余命は疾うに過ぎている……。これでも十分、持ち堪えた方だろう……。」


「そんな!」


 いよいよ本当に今際いまわの際が訪れたと悟った大善は、心美に一封の封筒を手渡す。


「これは……?」


「心美──娘であるお前に対して、もはやこんなことしかしてやれない無力な私を許しておくれ……。これからは、もう過去に囚われることなく、私たちのことなどすぐに忘れて、前を向いて、希望を持って、生きて行きなさい……。」


 最期にそう言い残した大善は、娘の手を握って安らかな表情で臨終を迎えた。心美は、俺たちの目を憚らずに大声で泣き叫びながら父の旅立ちを見送った。やはり心美も、口では両親には何の情も湧かない赤の他人と言っておきながら、心根では唯一の肉親としての愛情を捨てきれていなかったのだろう。俺は心美の背中を擦りながら肩を抱いて、そんな両親を同時に失うことになってしまった彼女を慰めようとする。


「それでは、貴方は茉莉花紫音一家殺人事件と茉莉花心美さんに対する2件の殺人未遂における殺人教唆容疑で、これより署まで御同行願います。おい平野、車回せ!」


「はい、橘さん!」


 俺たちの背後からは、一部始終を見届けた刑事たちが慌ただしく黒幕である心寧を連行するための準備をしている。橘は心寧の両手首に手錠を掛け、平野は家を飛び出して外に停めてある車にエンジンを掛ける。その様子を無視して、死に際に大善から手渡された一封の封筒の中身を見ようと封を切ろうとしている心美を、俺は手で制止する。


「心美、おそらくだが、お父さんはお前に遺産を残す旨の遺言書を自筆で残していると思うんだ。これはまだ開封せずに、家庭裁判所に持って行って検認手続を受けないと遺言書の偽造を疑われて、その有効性も疑問視されかねない。」


 大善の残した最期の意思を法的に有効なものとして扱うためにも、ここはぐっと堪えて、公正な手続きを経てから内容を確認しなければならない。


「っ、分かったわ……。」


 すると、暫くして複数人の警察官と共に橘が大善宅へと戻って来る。


「お待たせしてすみません。これより、大善氏の死亡確認手続に入らなければならないので、応援を呼んでおりました。」


 橘と共にやって来たのは監察医だったようで、大善氏の死亡を確定させる死体検案書を発行するために作業を始めた。


「犯人は……?」


「心寧さんでしたら、平野の運転で複数名の警官と共に署へ移送しております。本当に、良くぞ一連の事件の真犯人を特定してくださいました。警視庁を代表して、お礼申し上げます。」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆ったままの心美に、橘は深々と頭を下げる。その時、心美の着ていた上着のポケットからひらひらと1枚の紙切れが舞い落ちる。俺はその紙切れを拾い上げると、そこには見覚えのある字でこう書かれていた。


 ──事件解決後に報酬金100万円を支払う。茉莉花心寧


 今思い返せば、心寧は事件解決など望んではおらず、その前に心美を殺害する計画だったのだから、100万円ですら支払うつもりはなかったのだろう。全く、最期の最期まで腹の立つ女だ。すると心美は、俺から紙切れを引っ手繰たくってびりびりに破き、近くのゴミ箱に捨てた。


「私はお父さんの遺言通り、もう2度と過去には囚われない……!」


 袖口で涙を拭って、決意に満ちた瞳で真っ直ぐに俺を見つめる心美は、何処か吹っ切れたような清々しい表情をしていた。

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