Ep.45 雇用契約書は離縁の証

 大善の邸宅を後にしようと玄関まで辿り着いた俺たちは、殺害現場である被害者宅へと赴くために靴を履こうとしているところで、ぱたぱたと足音が近づいてくることに気が付く。


「あら、お帰りですか……?」


 振り返れば、心美の母・心寧が昼食の準備をしていたのか、濡れた手をエプロンで拭いながら慌てて駆け寄ってきたようだ。


「ええ。この度、茉莉花女史は我々警察と共に、事件解決に向けて協力関係を築く運びと相成りましたので、よろしくお願い致します。」


「まあ、心美ったら、何だかんだ言っても私の依頼を受けてくれたのね……!」


 心寧は満面の笑みを浮かべながら懲りずに心美に触れようとする。伸ばされた心寧の手をね除けた心美は、堂々と言う。


「癪だけれど、別に貴方の依頼を受けたという形にしても良いわよ。その代わり、依頼と言うからには、それ相応の報酬を受け取ることになるわよ?」


 心美の主張は至極当然だ。家族の頼みならいざ知らず、赤の他人による探偵依頼ならば、それ相応の報酬が発生して然るべきだ。だが、あくまでも心寧は図々しい態度を貫いたまま、身勝手な論理を振り翳す。


「貴方は私の娘なのよ。親の頼みくらい、黙って聞いてくれたって良いじゃないの。確かに依頼とは言ったけれど、それは貴方の探偵ごっこに乗ってあげただけじゃない。まさか親である私から、金銭をむしり取ろうとでも言うつもりかしら?」


「この……!」


「どうしてもと言うなら、間もなく死ぬお父さんの遺産を報酬代わりにして頂戴。」


 なんと、この女は未だに悪びれもなく心美の母親を自称して、あまつさえまだ生きている資産家・大善の遺産を勝手に報酬として抵当に入れるような真似をするとは、傍若無人にもほどがある。第一、そんな暴論は通らない。


「そもそも、心美の父親が亡くなれば、心美は法律上は娘のままなんだから、法定相続人として自動的に遺産は彼女の手に渡る。あんたは心美の財産がそのまま心美の報酬だと、そう主張しているようなもんだ。そんな訳の分からない論理が、俺に通用すると思うな!」


 そう、俺はかつて家庭内暴力に苦しんだ母親による一家心中事件によって死んだ両親の遺産相続手続を経験したため、この手の法律関係には詳しいのだ。そんな俺の前で場当たり的な詭弁を弄するなど、言語道断だ。


「双方とも、そこまでです。」


 すると、俺たちと心寧の諍いを見兼ねた橘が、両者の間に割って入る。橘は一呼吸置いてから、凄みのある声で心寧に警告した。


「口頭契約とはいえ、一度依頼を申し出たのにもかかわらず、相手方がそれを承諾する意思を見せた途端に報酬を出し渋るというのは、社会通念上許容される行為には思えませんね。先の短い大善氏の遺産を報酬に代えて支払うというのも、今し方岩倉さんが指摘された事実の通り、認められませんな。」


「なんですって……!」


 流石はベテラン捜査官といったところか。橘による助け舟に、俺は感謝の意を表する。


「警察は民事不介入のはずよ! これは私たち親子の問題です! 貴方に契約問題を説く権利などないんじゃないですか!?」


 それでも意地汚く金に執着する心寧は、橘の仲裁にもかかわらず、どうにか食い下がろうとする。


「えぇ。ですからこれは、警察官としてではなく、あくまで偶然言い争いを目撃した一市民として、お節介を焼いているに過ぎません。ご迷惑でしたら私の忠告など無視して頂いても構いませんが、契約問題で心美さんに訴えられるようなことがあれば、泣きを見るのは貴方の方でしょうな。」


 橘による再三の警告によって、漸く観念した様子の心寧は、玄関前に設置されていた固定電話台でペンを取り出して小さなメモ用紙に何かを書き殴り、心美に突き付ける。


「これで満足かしら!?」


 ──事件解決後に報酬金100万円を支払う。茉莉花心寧


 メモ用紙に記された走り書きには、心寧のサインに加え、事件解決の暁には報酬として100万円を支払うとの文言があった。とはいえ、警察でも手を焼くような未曽有の難事件を解決に導くための技術料としては、不足があると言わざるを得ない。この女は著名な資産家・茉莉花大善の元妻なのだから、経済的に困ることなどないはずなのに、何故金を出し惜しむのだろうか。


「まあいいわ。これは貴方と私が、赤の他人であることの証明よ。貴方の言う通り、貴方がまだ私の家族であったなら、どんなお願いであろうと聞き入れたでしょうね。けれど、もはや他人となった貴方の頼み事など、仕事の依頼でもない限り傾聴に値しないもの。この走り書きは、事件解決までの雇用契約書として確かに受領したわ。」


 そう冷たく突き放すように吐き捨てた心美は、一応納得した様子でメモ書きをポケットにしまい、踵を返して玄関を飛び出した。俺も彼女の後を追うように敷居を跨いで、橘、平野と共に茉莉花紫音一家の殺害現場へと歩みを進め始めた。



 §



 捜査官・橘の助力によって心寧の横暴をやり過ごした俺たちは、若手捜査官・平野に先導されて被害者である茉莉花紫音一家の自宅と思しき、広い白壁の一軒家へと辿り着いた。資産家・茉莉花大善の邸宅からはそう遠く離れていない徒歩圏に居を構えていたようで、15分ほど会話しながら歩いているうちに、あっという間に到着した。事件発生から3日間が経過した現在も周辺には黄色いバリケードテープが張り巡らされ、敷地の境界である門扉の前には何名かの警察官が駐在している。


「橘さん、平野さん、お疲れ様です。」


「うむ。ご苦労。」


 橘と平野が駐在の警察官に軽く会釈して門扉を通り抜ける。俺たちもそれに続いて、紫音宅の玄関まで歩いていく。俺たちは紫音宅まで移動してきた道程にて、2人の捜査官に深夜発生した素人集団による襲撃事件の被害に遭ったが返り討ちにしたこと、その過程で犯人が携帯していた1本の金属バットを奪い取ったことを明かした。現場検証に俺たち部外者を帯同する捜査官たちへの、情報の前払いといったところだ。


 襲撃事件の話を聞いた橘と平野の反応は、紫音一家惨殺事件との関連性を疑った俺たちの見解と相違なかった。同じ地域に住んでいる2世帯の茉莉花が立て続けに狙われるなど、同一犯による何らかの意図的な目論見があってもおかしくないというのは、ごく自然な発想だ。


「それでは、こちらになります。お分かりかと思いますが、くれぐれも現場に残されたものを勝手に触ったり動かしたりしないようにお願いしますね。」


「心得ているわ。行きましょう。」


 既に鍵の掛かっていない玄関扉を開けて、俺たちは紫音一家の殺害現場へと足を踏み入れた。廊下を抜けて奥のリビングへと向かえば、そこにはおびただしい量の出血痕と共に、倒れたり壊れたりした家具がそのままの状態で乱雑に放置されている。おそらく橘の言っていた通り、紫音は招かれざる殺人者に対して激しく抵抗したのだろうと思わせる痕跡が随所ずいしょに残されていた。


「これは、酷いな……。」


「順を追って説明しましょう。」


 橘の話によれば、一家殺害の犯人は、早朝の時間帯にゴミ捨てや朝刊の入ったポストの確認などで頻繁に外に出ていた被害者・紫音氏が家に鍵を掛けないまま外に出た隙を突いて、被害者を刃物で脅しながら堂々と玄関から侵入したという。


 橘はまず、リビングの白い壁紙にべっとりとこびりついている赤黒い血痕を指差して、ここが実際に家主の紫音が妻を庇って殺害された場所であることを告げる。そして、傍に居た平野はスマホで俺たちに紫音の死体を収めた写真を見せる。無論、死体そのものは既に警察の手によって回収されているものの、写真の背景は、確かにこの血痕が付着している場所と一致している。


「紫音氏は刃物によって腹部を複数回にわたって刺されたことによる失血死でした。おそらく、すぐ傍に居た奥様を護るために決死の抵抗を試みたと思われ、犯人は被害者を無力化するために何度もナイフを突き立てたのでしょう。従って、複数個所の刺傷があるとはいえ、怨恨の線は薄いですな。」


 捜査官としての所見を添えて、橘は冷静に事実を告げる。


「続いてはこちらです。」


 橘が振り返った方向を見遣れば、リビングの反対側には、また別の血痕が残されていた。平野はスマホの画面に指を滑らせて、俺たちに2枚目の写真を見せる。それは紫音の妻と思しき女性が無残に殺害された模様を収めたものだった。


「紫音氏の奥様は、心臓をひと突きにされたことによる即死でした。おそらく、犯人に抵抗する夫を置いて逃げることはできなかったのでしょう。紫音氏が殺害された後、間を置かずにリビングの片隅で怯えて碌な抵抗もできなかった奥様を、無情にも殺害しています。」


 リビングで一通り状況説明を終えた後、橘と平野は俺たちを2階へと連れて行く。すると、木造の廊下にはこれまた大量の血痕が残っている。


「紫音氏の息子と娘は、間もなく高校へと通学するところでした。事件当時は制服を着て、階下での騒ぎを聞きつけたため部屋から廊下に出て、これから階段を下りてリビングから聞こえてくる騒ぎの様子を確認しようとしていたところ、階段を登ってきた犯人と鉢合わせたものと思われます。」


 平野は、それぞれ個別に撮影した息子と娘の死体が収められた写真を2枚、俺たちに見せる。先に説明を受けていた通り、子供たちは刺殺された紫音夫婦とは異なり、鈍器による撲殺だったようで、見るも無惨むざんに頭部が異様な形に凹んでいた。


「なんてこった……。」


 俺は深夜に発生した襲撃事件において、金属バットを振り回して俺と心美に襲い掛かってきた犯人のことを思い出して戦慄する。この子たちは戸籍上、心美の従兄妹いとこだということになる。もし心美までこのような被害に遭っていたらと思うと、心臓を鷲掴みにされたような気分だ。


「そして、家族全員を殺害した犯人は指紋や足跡痕といった、主だった痕跡を全て抹消してから現場を立ち去ったものと考えられます。以上が、事件のあらましです。」


「なるほどね……。」


 すると心美は、何かをじっくりと熟考するかのように目を閉じ、腕を組みながら集中力を高める。数秒の間をおいて、かっと目を見開いた彼女は、現場検証によって得た情報を基に導き出した推理を、捜査官たちに披露する。


「まず、結論から言って、犯人の目的は私の叔父である紫音氏ではなかったようね。」


「そうなのか……?」


 隣で自信に満ちた表情を浮かべる相棒の言葉に、俺は耳を疑う。


「正確に言えば、犯人は叔父だけではなく、家族全員を手に掛けるつもりで計画的に動いていたということよ。」


「どういうことか、ご説明願えますかな?」


 橘は冷静な態度を崩さないが、不思議そうな声色で心美に続きを促す。橘の隣で心美に期待の眼差しを向けている平野も、彼女の推理に興味津々といった様子だ。


「逆に質問するけれど、何故犯人は選りによって家族が通勤・通学する前の早朝を狙い、自宅で一家を襲ったのかしら。誰か特定の個人を殺害することが目的ならば、その人物が家の外に出て孤立した瞬間──例えば、帰宅途中の夜道を歩いているところを襲い掛かるとかでも良いわよね。けれども、犯人は敢えて家族全員が一所に集まっている時間帯に、わざわざ自宅まで出向いた。」


「つまり、犯人は初めから紫音氏を含む家族全員の殺害を目論み、敢えて早朝の時間帯を選んで自宅に押し入ったということか。」


 代わりに俺が結論を述べると、心美は俺の目を見て首肯する。


「家族全員を殺害するため……。だったら、わざわざ早朝でなくとも、家族が帰宅するであろう夕方から深夜の方が、人目を避けることができて好都合ではないでしょうか……?」


 ここで平野が疑問を呈する。


「確かにそういう見方もできるけど、ここは住宅街よ。近所に住んでいる住民はそれぞれ色々な職業に就いていて、皆帰宅する時間も一様ではないでしょう。夕方から夜にかけての時間帯に不審人物が他人の家屋に侵入するなんて、目撃者が生まれるリスクが高過ぎるわ。まして、家から大きな物音が立とうものなら、近隣住民は流石に怪しむ。深夜帯に侵入することも、騒音によって近隣住民からの通報のリスクが高まるから選択肢から除外されるわ。」


「なるほど……。」


「その一方で、早朝ならば近隣住民も皆、朝の身支度で忙しい時間帯よ。ちょっとやそっとの騒音ならば、わざわざ通報しようとは考えにくい。通勤・通学の時間帯もピークが予測しやすいから、目撃されるリスクも比較的少ない。当初より一家殺害が目的だったとするなら、最も適した時間帯と言えるわ。」


 心美の理路整然とした説明を聞いて、平野は納得した様子を見せるが、橘は表情を変えずに言う。


「お見事です。ですが、犯人が最初から一家全員の殺害を目的として計画的犯行に及んだことなら、私でも推論できていました。」


「だったら、これはどうかしら。現在の事実関係を総合的に勘案すれば、犯人は単独犯ではない可能性が高いということ。」


「ほう……?」


 橘は再び心美の推理に耳を傾ける。俺と平野も彼にならって心美に視線を向ける。


「一挙に4人も殺害するという大犯罪を実行する際に、冷静さを保つことができる人間など居ないわ。それなのに、犯人は懇切丁寧に指紋や足跡痕を綺麗さっぱり拭き取っている。そんなこと、果たして単独犯にできる芸当なのかしら。」


「確かにそうですが、それだけで犯人は複数犯だと断言するには根拠薄弱では?」


 橘の指摘に対して、心美は得意げな表情のまま自身の推理を補強する。


「勿論それだけではない。他にも、殺害に使用された凶器が複数あったという点も気になるわね。叔父夫婦が刃物によって刺殺されたのに対して、従兄妹は鈍器によって撲殺されていた。そもそも、叔父は刃物を持った犯人に激しく抵抗していたのだから、かなり時間を稼いだはずよ。その騒ぎの間、違和感に気付いた子供たちが殺害現場であるリビングの様子を見に来なかったのは、明らかにおかしいわ。」


「つまり、刃物を持ってリビングで夫婦を襲った殺人犯の他に最低でももう1人、鈍器を持って2階へと上がり、同時進行で子供たちを手に掛けた実行犯が居るはずだと……?」


 心美の推理を要約する平野の言葉に、彼女は大きく首を縦に振る。


「こうなってくると、いよいよ深夜に私たちを襲ってきた集団の存在が怪しくなってきたわね。一体何が目的だったのかしら……。」


「名探偵である心美の存在を知って、お前が事件へと介入するのを未然に防ぐために殺そうとしたんじゃないか?」


「あり得ないわ。犯人は私が両親の家に居たことを知る由もなかったはず。それに、他人の家の車庫で車に乗った3人をうまく殺害できたとして、その隠蔽は困難を極めるでしょうから、痕跡を残さないように用心深く犯行に及んだ殺害犯の行動心理とは一致しない……。」


 これまでの経験則から導出した俺の推測は、心美によって一蹴される。だが、少なくとも犯人の動機は怨恨や快楽などではなく、あくまで計画的な一家全員の殺害を目的としていたということ。また、実行犯は複数人である可能性が極めて高いということが分かったため、少なからず収穫はあった。俺たちは事件解決の糸口を見つけ、真相究明に向けて確かな手応えを感じ始めていた。

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