何物にも代え難い報酬
Ch.3 ED 仕事納めのサマーバケーション
事件収束から1日後──オーストラリアを訪れてから3日目の早朝の天気は、絶好の外出日和と言わんばかりの快晴だった。陽炎が立ち昇るほどに厳しい日射とは裏腹に、適度に吹いているそよ風が熱を帯びた身体を冷ましてくれる。あの後、すぐに退院を許可された俺たちは、一先ずアイーシャの車でGBS本社ビルのゲストルームへと帰還して、一晩を過ごした。疲弊した身体はすんなりと夢の世界へと誘われ、気が付けば翌日の朝を迎えていたという訳だ。
「うぅ……。腕がヒリヒリするわ……。」
起き抜けにそうつぶやく心美は、どうやら誘拐犯によって人質に取られていた際に半袖で朝日から降り注ぐ紫外線を浴びたため、日焼けのような軽度の火傷を負ってしまったようで、患部を労るように
「大丈夫なのか!? 傷跡は残るのか? 後遺症は? まさか死んだりしないよな!?」
「堅慎、いつかの私みたいで恥ずかしいからやめて頂戴……。病院でもらった軟膏を塗っておけばすぐに治るわよ。大袈裟なんだから……。」
俺の心配を余所に、別に大したことはないと冷静に言う心美に胸を撫で下ろす。俺は心美のようなアルビノではないため、彼女の症状や日常生活における辛さを理解するためにアルビノという存在について今まで徹底的に調べてきた。だが、インターネット上には、やれアルビノは短命だの、少しでも日に当たると死んでしまうだのといい加減な誤情報が氾濫している。だから俺は、苦しんでいる心美の姿を見ると、どうしても不安な気持ちを払拭することができないのだ。
「頬の傷は痛まないか……?」
誘拐犯の大男に殴られたという心美の頬は、ほんのり赤みを帯びて腫れている。口の中を切って出血していたため、俺は彼女の柔らかな頬を慰めるように手を添えた。
「ちょ、ちょっと堅慎! 近いわよ……。」
傷の具合を確かめようと顔を近づけると、心美は顔を隠すように俯いてやんわりと俺を遠ざけるように手の平で肩を押す。ここ最近、どうも心美は時々挙動不審になってしまう節がある。そのことを不思議に思って首を傾げていると、1人分の足音が近づいてくることに気付く。
「おふたりさん! そろそろ準備できたー!?」
すると、部屋の外からは元気一杯の声が聞こえてくる。今日はいよいよ、アイーシャのガイドによるオーストラリア観光の日だ。折角なので1日中遊んでいたいと、早朝からの出発を提案したのは他でもないアイーシャだった。何故か俺や心美よりも、彼女が一番外出を楽しみにしている様子だ。
「アイーシャ、先に車で待っていてくれない? もう少し時間が欲しいわ!」
「ダメよ! 今すぐ出発しないと飛行機の時間に遅れてしまうもの!」
「「飛行機!?」」
俺たちはてっきり、アイーシャの車に乗ってブリスベン周辺の観光スポットを案内してもらうつもりでいたため、彼女の唐突な発言に驚きを隠せない。心美は最低限日焼け止めを塗った身体に長袖を着て、俺は彼女の分まで荷物を運びながら慌ただしく部屋を飛び出した。
§
アイーシャの部下が運転する車に乗せられて向かったのは、俺たちがオーストラリアを訪れた時に利用したブリスベン国際空港だ。フライトまで時間が無いと言うアイーシャに急かされるようにして車を降りた俺たちは運転手に礼を言って、茹だるような暑さに耐えながら小走りで空港内部へと向かう。
「ハミルトン島行き……?」
アイーシャから航空券を受け取った心美は、そこに書かれている行先をみて怪訝そうな表情をしている。
「その、なんとかって島を心美は知ってるのか?」
「え、えぇ。かなり有名だからね。でも、ここって──」
「まあまあ、ふたりとも! 後のことは着いてからのお楽しみということで!」
どうにも煮え切らない態度で冴えない表情をしている心美に対して、心配御無用と言いたげな様子のアイーシャを交互に見遣る。考えても仕方がないので、取り敢えず俺は心美の手を引いて快適な空の旅を楽しむことにした。
§
そう思っていたのも束の間、目的地の場所を知らなかった俺は飛行機での移動ということで移動時間は相当に掛かるものだという先入観を抱いていたのだが、離陸からおよそ1時間半もしないうちに到着を知らせる機内アナウンスが流れ始めた。暇潰しに心美と見ていた恋愛映画は、間もなくクライマックスを迎えようかといった中途半端なところで途切れてしまう。
「おおい! あの2人最後はどうなっちゃうんだよ!? 心美も気になるよなぁ……!?」
「あ、うん。そうね……。」
何故か俺と心美との間にはテンションの温度差があるのだが、特段気にすることもなく飛行機を降り、荷物を抱えて空港を出ると、涼し気な潮の香りを纏った優しい風が俺たちの頬を撫でる。
「ここは……?」
「驚いた? ここハミルトン島はグレート・バリア・リーフの中心部に位置する一大観光名所よ! 見てごらんよ、この透き通る海に美しいビーチに、多種多様な動植物の宝庫を!」
なるほど。心美はハミルトン島が海に囲まれた観光スポットだということを知っていたために、あまり乗り気にはなれなかったのだろう。
「アイーシャ、折角連れてきてもらったのに申し訳ないけど──」
「はいはい、どうせココミはアルビノだから海では遊べないって言いたいんでしょ?」
今まで心美と行動を共にしてきたアイーシャがそのことを失念する訳もなく、得意げな表情で胸を張ってこれからの計画を発表する。
「まずはダイビングに行きましょう! 全身が覆えるウェットスーツを着てマスクとシュノーケルで顔を隠して海の底まで潜ってしまえば、紫外線なんて一切気にせず遊べるわよ!」
「ほんと!?」
アイーシャの言葉に心美はぱあっと表情を一変させて、ワントーン声を明るくさせる。漸くいつもの調子を取り戻した彼女と共に、俺たちは意気揚々とアイーシャの後を付いていく。
「アイーシャさんは、ダイビング経験はあるんですか?」
「当然でしょ。じゃないと貴方たちに教えてあげることもできないもの。装備品は全てレンタルできるから大丈夫よ。ここからフェリーに乗って綺麗なサンゴ礁が見える海域まで移動するから、案内は任せて!」
俺たちはアイーシャが予約しておいてくれたという初心者向けのダイビングツアーに参加してフェリーに乗り込む。水底まで見渡せるような透き通った美しい海原と気持ちの良い潮風に吹かれながら、船内でアイーシャの通訳による簡易的な講習を受け、潜水方法や簡単なハンドシグナルを教わってから、ダイビングポイントに到着するなり装備一式を身に着けた俺たちは早速、異国の世界遺産へと足を踏み入れようとする。
当然俺たちはダイビングなど経験したことがないので、期待と不安が半分ずつといった感じだったのだが、アイーシャが懇切丁寧に説明してくれたおかげで、意外にもすんなりと潜ることができた。日本の海とは比べ物にならないほど透明度の高い海中の景色はとても美しく、見渡す限りの色鮮やかなサンゴと共存共栄している大小取り混ぜた魚群が青の世界に美しく映えている。
「……!」
アイーシャが水中で手を振って俺たちに何かを合図している。心美と一緒に彼女の方を振り返ると、瞬く間に白い閃光が走る。どうやら、アイーシャは水中カメラを持参していたようで、俺と心美の不意を突くように写真を撮ると、悪戯な笑みを浮かべる。そのまま彼女が手招きするので、俺たちは目を見合わせて、慣れないダイビングフィンを必死に動かしてたどたどしく後を追うと、サンゴ礁を抜けた先の開けた場所で、クジラやイルカといった珍しい海洋生物たちを初めて目の当たりにする。俺はあまりの感動で言葉を失った。──尤も、海中では始めから話すことはできないのだが。
§
「どうよ? 楽しめたでしょ!」
一頻りダイビングを楽しんだ俺たちは船へと戻り、誇らしげに胸を張るアイーシャに感謝を伝えた。正直に言って、いくら絶景スポットとは
「それにしても、ダイビングって意外と疲れるのね……。」
「そろそろ昼食も兼ねて、休憩にしよっか!」
その後、案内されるまま向かったのは海沿いのコテージだった。オーシャンビューのテラスでは美しい景色と耳心地良い潮騒を感じながら、のんびりとバーベキューができるのだという。だが、心美のためを思ってアイーシャは屋内の席を貸し切りにしておいてくれたのだという。
「貴方たちが報酬は要らないだなんて言うから、せめてこっちも気合入れておもてなししないとと思ってね。オーストラリア人としての誇りに掛けて!」
「アイーシャ、本当にありがとうね。最悪の体験が素敵な思い出に上書きされたわ。」
「折角オーストラリアに来て、旧友にトラウマ抱えさせたまま帰らせる訳にはいかないからね。帰りは部下に迎えを頼んでいるから、お酒もじゃんじゃん飲んで良いわよ!」
昼間から酒を嗜むことに若干の背徳感を覚えるも、大仕事を成し遂げた後なのだから偶には良いだろう。そう自分を納得させて、3人でグリルを囲んで和気藹々とバーベキューを楽しみながら、時間を忘れて浴びるように酒を飲んだ。気が付いた頃には、夕闇に染まった水平線にオレンジ色の太陽が少しずつ沈み始めていた。
§
「いやー、漸く肩の荷が下りたことだし、旧友と昔話に花を咲かせることができて楽しかったよ! つい年甲斐もなく
「アイーシャ、貴方呑み過ぎなのよ……。」
「そういう心美も、歯止めが利かないくらいに呑みまくってただろ……。」
俺たちは三者三様に、すっかり酔っ払ってしまった。酔いが回って口が滑らかになっていたというのもあるだろうが、最近心美と友人関係になった菊水陽菜をおいて、気兼ねなく会話できるような知り合いが、ここオーストラリアで生まれるとは考えもしなかった。今まで孤独に人生を歩んできた心美に次々と友人が増えていくことを感慨深く思う一方で、俺はちくちくと胸に何かが突き刺さるような痛みを感じていた。
「ねぇ、本当に明日中には日本に帰っちゃうの?」
哀愁を帯びた声で名残惜しそうに尋ねるアイーシャに、俺たちは頷く。そう、俺たちの命を狙う犯人が近く自由の身となる状況で、これ以上異国の地に留まり続ければ、日本侵攻を目論むスパイがまたしても俺たちを殺すために事件を起こす可能性がある。アイーシャのような無関係の一般市民を巻き込まないためにも、可及的速やかに帰国しなければならないと考えた俺たちは、明日早朝の航空券を既に予約してある。
「1日だけだったけど、一生忘れない良い思い出になったわ。仕組まれた出来事だったとはいえ、まさかアイーシャから仕事の依頼が来るとは思いもしなかったしね……!」
「言っておくけど、私は別にココミのせいで事件に巻き込まれたとは微塵も思ってないからね。予告状に対処できなかったのは、単に私がまだまだ未熟だっただけだし。」
「そう言ってくれると助かるわ……。」
「心美だって、これからも国際スパイ組織と戦っていかなくちゃいけないんでしょ。離れていても応援してるよ。私にも何かできることがあったら、いつでも頼ってほしい。」
「ふふっ、ありがとう。持つべきものは、最高の友達だね!」
「あっ! やっとココミが私のこと友達って呼んでくれた!」
すっかり仲良しとなった2人はコテージを出て、宵闇が迫る夏空の下でもガールズトークに花を咲かせていた。俺たちはアイーシャが押さえておいてくれた高級ホテルに向かい、海水によって汚れた身体を清めた後はマッサージを受け、酒を酌み交わしながら朝まで語らい合ったのだった。
§
「それじゃあ、いよいよお別れだね。」
翌日の明け方、アイーシャの部下が運転する車によって迎えに来てもらった俺たちは、そのままブリスベン国際空港まで送り届けてもらった。昨晩の深酒が抜けきっていない重たい身体を引き摺ってラウンジまで辿り着くと、アイーシャが別れの言葉を口にする。
「本当に、何から何までお世話になったわ。」
「こちらこそ。久しぶりに会えて、嬉しかった。」
心美は自らアイーシャのもとまで歩み寄って、別れを惜しむようにハグをした。
「ケンシン、ちょっと良い?」
アイーシャは次に俺の方へと向き直ったかと思えば、俺の肩を組んで心美に背を向けて距離を取る。何か内緒話でもあるのだろうか。
「ケンシン。私との約束、覚えてる……?」
俺は、心美が誘拐される前にGBS本社ビルのエレベーターで彼女と交わした会話を回想する。
──私はこの命に代えてもGBSをもう一度再生させたいと思っている。だから、ケンシンも必ずココミを幸せにしてあげるんだよ?
「覚えてますよ。言われなくとも、約束は必ず守ります。」
「なら良いんだ。私の親友を頼んだよ。あーでも、あんまり待たせ続けるのも可哀想だよ?」
「……?」
俺はアイーシャが最後に放った言葉の意味が分からないまま、どういうことかと問い返そうとするも、既に彼女は心美のもとへと戻ってしまった。
「ちょっと、何をこそこそ堅慎と話してたのよ……?」
「いやぁ別に? 寂しくなったらお姉さんにいつでも連絡してねって!」
「やっぱり貴方は友達から知人に格下げだわ! 人の相棒を勝手に
「そんなぁ! 冗談だから、機嫌直してよココミー!」
こうして、俺たちがオーストラリアで過ごした狂乱の3日間は幕を閉じた。俺たちはそれぞれが色々な傷を負ってしまったが、その分だけ得るものも多かった。瞳に涙を湛えて手を振るアイーシャへと、再開を誓うように手を振り返して、俺たちは心機一転、夏の呼び声から逃れるように帰るべき家へと飛び立つのだった。
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