Ch.4 茉莉花一家惨殺事件

望まぬ再会

Ep.40 自覚した変化

 旧友へ再び別れを告げた日の夕方、夜通し酒盛りをして疲労困憊だった俺と心美は帰りの飛行機内で爆睡したため、帰国して自宅兼事務所に到着する頃にはすっかり元気を取り戻していた。俺は事務所のテーブル上に、グレートバリアリーフの美しいサンゴ礁を背景に海中で撮影してもらった心美とのツーショットを、帰り掛けに立ち寄った百円ショップで買った小さな写真立てに入れて飾り付けた。


 警備依頼を受けた施設へと立て続けに送り付けられた犯行予告状によって信用を失い、甚大なる経済的損失を被ったGBSだが、グレートバリアリーフの名前を冠する警備会社を設立して急成長させたアイーシャのことだ。きっとこの写真のサンゴのように、どれだけ過酷な環境に置かれようとも、しぶとく鮮やかな輝きを放ち続けることだろう。


「心美。」


「なに堅慎……?」


「何だかんだ色々あったけど、楽しかったな。」


「ふふっ。えぇ、そうね!」


 俺たちは紆余曲折を経て日常に回帰した実感が湧かないまま、清々しい気持ちでアイーシャとの思い出に浸っていた。だが、そんな俺たちにも残された問題があった。


「そういえば、すっかり忘れてたけど、年明けまで残り1週間しかないのね……。」


 オーストラリアで夏の時間を過ごしていたため失念していたが、真冬の日本の家で暖房を入れることすら忘れたまま衣類を片付けていく中で、身体が冷えてゆくにつれて徐々に現実へと引き戻されていく。壁に掛かったカレンダーを見れば、もう既に年の瀬も押し詰まった時期である。


「そうだな。今年は収入もあったから、事業所得の確定申告の準備もしないと。心美、やり方覚えてるか……?」


「あんまり自信ないわね……。」


 心美が16歳の時に探偵として世間の注目を集めて以来、犯罪率の低下と各所からの逆恨みによって俺たちは事実上業界を一時退いていた状態だったため、暫くは収入が途絶えていた。だが、今年は中国スパイ絡みの案件が立て続けに舞い込んできたため、報酬の受け取りをほぼほぼ拒否していたとはいえ、栄泉リゾーツから受領した100万円に加え、菊水次郎から契約外の金銭譲渡を受けた。果たしてその全てを事業所得として確定申告して良いものか分からない俺たちにとって、手続は煩雑はんざつなものになりそうだ。


 厳密にいえば、俺は一応、茉莉花探偵事務所の従業員という扱いなのだが、裏方の事務作業は全て俺の担当であるため、なんとか独力で頑張るしかないだろう。


「この半年間、色々なところから雇用契約のような形で依頼が来てたから忘れてたけど、私ってそう言えば個人事業主のはずなのよね……。」


「専属契約みたいなのは碌なことにならないから、今後暫くは裏の無い純粋な小口案件で地道に稼いでいく方が良さそうだ。この半年間はスパイ組織絡みの案件で本当に疲れたからな。」


 ここ数か月の間で立て続けに発生した中国直属のスパイ組織による日本を狙った犯罪の数々に巻き込まれてきた俺たちは、歴戦のベテラン探偵を自称しているとはいえ、疲労感を滲ませていた。


「そうね。年明けから『スパイ防止法』も発効して日本の水際対策もますます本格的なものになるから、国内に留まっている限りは私たちも当面の間は安全でしょう。余計な事に首を突っ込まないように気を付けていれば、今までのような危険は回避できるはずよ。」


「もう二度と変な責任感をひとりで背負しょい込んで、勝手な行動をするのはやめてくれよ……? 何かやむなく危険な行動を起こす時は、せめて相棒の俺には相談してくれ。」


 日本侵攻に向けて最大の障壁となっている茉莉花心美の存在を疎み、多岐にわたる日本の内情に精通している心美から情報を引き出した上で抹殺しようとしたスパイの一味を特定・確保するため、無断で単独行動した心美に俺は改めて忠告する。どんな理由があるとはいえ、俺は二度と彼女に傷ついてほしくない。


「分かってる。私のせいで堅慎とアイーシャには散々迷惑を掛けたから、反省してるわ……。」


 心美は申し訳なさそうに項垂れて、スパイ集団から彼女を救出する際に負わされた俺の脇腹の刺傷を確かめるように優しく触れる。


「まだ痛むかしら……。」


「ほんのちょっとだけな。でも、俺は心美が無事で居てくれただけで良いんだよ。」


「私、またみたいに堅慎の手を汚させてしまった……。」


 心美の言うあの時とは、彼女がまだ1人暮らしをしていた頃、児童養護施設の職員を騙って自宅に押し入ってきた複数人の男に襲われた時のことだろう。中学校に通っていた俺は放課後に心美の家に立ち寄った際、偶然その現場に鉢合わせ、彼女を助けるために怒りに任せて犯罪者共を力の限り殴打した。血は争えないと言うべきか、かつて家庭内暴力によって弱者を虐げていた父親のように、暴力に訴えて犯罪者に成り下がった俺を心美は拒絶すると思っていた。だが、むしろ彼女は、自分のために手を汚した俺に対して、今でも負い目を感じ続けている。


「心美のせいじゃない。それに、あの時とは違って今回は正当防衛だ。」


「それを言うなら、堅慎はあの時だって私を護るために──」


「だったら尚更気に病むことなんてない。心美は何をそんなに後悔してるんだ?」


「だって、堅慎はきっと私が居なくても真っ当な生き方が出来たはずなのに、私のせいで貴方の運命を変えてしまったから……。私はきっと、心のどこかで堅慎に恨まれてるんじゃないかって……。」


 そんな訳はない。あのような事件が起きなかったとして、俺は今も必ず、心美の傍に居たはずだ。もしそうでないなら、彼女には申し訳ないが、あの事件が起きたことに感謝したいくらいだ。


「ばーか。俺は昔から心美のことが好きだから一緒に居るんだよ。」


「っ……!?」


 すると、俺の服の裾を掴みながら泣き声を押し殺して俯いていた心美はばっと顔を上げて、泣き腫らした目を見開いて顔を真っ赤にしていた。──あれ。俺は今、何を口走ったんだろうか。何ひとつとして嘘偽りのない本心を述べただけなのだが、妙な胸騒ぎに襲われた。


「と、とにかく。そんな昔のこと、俺はとっくに忘れた! 折角の年末なんだから、心美もこれを機に嫌なことは全部忘れて、良い思い出だけを大切にするんだぞ!」


「……。」


「全く、お前の泣き顔は心臓に悪いんだよ……。いつもみたいに、憎たらしいくらい自信満々な笑顔の方がかわ──いや、似合ってると思うぞ……。」


 何故か途端に恥ずかしくなってきた俺は、沈黙に耐え切れなくなって誤魔化すように慌てて口を動かしながら、少し粗雑に心美の涙を服の袖で拭ってやる。しかし、反射的に口を衝いて出る言葉全てが心の底から湧き上がる本音であるにもかかわらず、どういう訳か無性に羞恥心を掻き立てる。喋れば喋るほどに襤褸ぼろが出るこの状況に限界を迎えたため、俺は一方的に捨て台詞を吐き、慌ただしくその場を逃れる。


「あ、そうだ。今年は栄泉リゾーツの武田さんとか菊水さんの家に年賀状を送ってみるか! あと、色々と世話になったアイーシャさんに礼を兼ねて、日本のお歳暮を贈ってあげるってのはどうだ!? てか、その前に洗濯とか掃除とか食事の支度とか色々しなくちゃなんないし、あー忙しいなぁー!」


 俺は最後まで心美の顔を直視することができないまま、すたすたとリビングを後にして、玄関に放置したままだったスーツケースの中身を片付け始める。俺は生涯で一度も感じたことのない感情を抱いていることを自覚したものの、その正体が分からないまま、頭の中を埋め尽くす原因不明のもやを振り払うように、多忙極める年末の用事に没頭し始めた。


「馬鹿は貴方の方なんだから。堅慎……。」



 §



 昨夜、ぎこちなく普段よりも口数の少ない食卓を囲んで、それぞれのタイミングで入浴して後片付けを全て終えた頃、少し早めの時間に床に就いた。心美はいつもなら俺を抱き枕代わりにしてくっ付いてきたり、寝相悪く足を伸ばしてきたりしてベッドの半分以上を占拠するように寝るのだが、昨晩はずっと俺に背を向けて、寝返りを打つ気配もないまま縮こまっていた。普段であれば鬱陶しいくらいに思っていたそれが、今日は無性に寂しく感じた。


 だが、結局俺たちは、起床する頃にはすっかりいつもの調子を取り戻していた。


「心美、おはよ。」


「堅慎、寒い! 布団めくらないでよ!」


「俺も疲れてて寝過ごした手前、強くは言えないけど、何時だと思ってるんだ?」


「もう仕事納めなんだから良いじゃない……。もうちょっとだけ寝てましょう。」


 稼ぎ頭の天才探偵様は、すっかり今年の仕事は全て終わったとばかりに気持ち良さそうに微睡まどろんでいるが、俺にとってはまだまだやるべきことがある。せめて年始はゆっくり心美と過ごしたいので、そのためにも仕事を来年に持ち越すことはできない。


「昨日も言ったろ。俺は色々やることあるから先にリビングに居る。腹減ったら起きてこい。」


「んうー。お腹は減った!」


「じゃあ起きるか?」


「温かいジャスミン茶があれば起きる……。」


「よし、待ってろ。」


 菊水家のもとに猫を送り届けた日の朝のように、心美をくすぐり起こせばまた怒られそうな気がしたので、俺は彼女の要求に素直に従い、ジャスミン茶を淹れて寝室まで運んだ。


「ほら、持ってきたぞ。」


「良い香り……。ありがと、頂きます。」


 心美は布団から這い出て冬の外気に身震いしながら、温かいジャスミン茶が入ったカップを両手で持ってちびちびと飲む。そして半分ほど飲んだあたりで俺にカップを突き返し、彼女は勢い良く立ち上がった。


「寒い……! 堅慎ってば寝室のエアコン切ったでしょ!」


「だって心美が起きないから。電気代の節約だよ。」


「ううっ……。悪魔!」


「随分とセコい悪魔が居たもんだ……。ほら、朝飯作ってやるから、顔洗ってきな。」


 寝癖を付けたまま寝ぼけ眼を擦る心美を強引に洗面台まで連れてゆき、俺はキッチンの冷蔵庫からベーコンと卵を取り出してトースターに食パンを放り込む。こうして心美のためにお節介を焼いていると、彼女と過ごす何気ない日常のありがたみを改めて痛感する。


「堅慎、大変!」


 ぱちぱちと小気味良い音を楽しみながらベーコンと卵を焼いていると、どたどたと慌ただしく廊下を掛けてきた心美に驚いて飛び上がる。


「びっくりした……! 走ったら危ないだろ。何があったんだよ?」


「今日はクリスマスイブなのよ!? 折角だから、お出掛けしましょう!」


 先程まで旅行の疲れも取れていない様子で気怠そうにしていた心美は、急に活気を取り戻して外出に誘ってくる。


「いや良いけど、何しに行くんだよ……?」


「そりゃあ──別に何でも良いじゃない! ショッピングに行けば歳末セールで何でも安く手に入るでしょうし、アミューズメントパークに行けばクリスマスムード一色できっと楽しいわよ! 何処でもいいから、外に出ましょ!」


 クリスマスというイベントに、幼子のように上機嫌で跳ね回る心美は、もはや完全に聞き分けの無い状態だ。親からの無償の愛情というものを経験したことのない心美にとって、クリスマスは縁遠い行事だったのだろう。ここはひとつ、心美へのクリスマスプレゼントだと思って外に連れ出してやるのも悪くないだろう。


「旅行から帰ってきた昨日の今日で、良くもまあそんなに元気があるな。」


「ま、まあクリスマスイブだからね。私だって浮かれることもあるの。」


「今までは特別そういったイベントに興味なかっただろ。どういう風の吹き回しだよ?」


「っ、良いのよ! 野暮ったいこと聞かないの!」


 歯切れの悪い返答を不審に思いながらも、俺は心美と遅めの朝食を取ってゆっくりと身支度を済ませ、最低限の変装をしてから、しんしんと雪が降り積もり、冬帝の訪れを感じさせる賑やかな街へと繰り出した。

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