Ep.38 相棒の献身

 誘拐犯の男は殺意を乗せた咆哮と共に、俺の上半身を下から逆袈裟ぎゃくげさに斬りつけようと凶刃を振るう。間一髪のところで身を翻すと、空を切ったナイフは、地面に突き刺さっている道路標識の金属製の柱にぶつかって火花を散らした。


 すると、運の悪いことに、地面へと落下した火花は漏出していたガソリンの水溜まりに引火して、導火線のように続いていた透明な液体の跡を辿って燃え広がり、間もなく男が乗っていた黒のワンボックスカーが炎上する。


「余所見してる余裕なんてあるのか……!?」


「くっ……!」


 だが、車が爆発する可能性に気を取られている暇もなく、追撃の手を緩めようとしない凶漢が放った横薙よこなぎの斬撃を寸前で回避する。一寸の躊躇もなく、的確に急所を狙って放たれる男のナイフは俺の頬をかすめ、傷口から鮮血が飛び散った。ぱちぱちと燃え盛る炎と燦々と降り注ぐ直射日光に焼かれ、止めどなく汗が噴き出してくるのを腕で拭って、俺は出血によってぼやける意識を何とか繋ぎ止める。


「満身創痍じゃねぇか! さっさと楽になれよ……!」


「はっ、どうした? 一般人相手に国家直属のスパイが歯が立たないってもんで、苛立ってるんだろ……?」


「この、貴様……! この期に及んでまだ愚弄するか!」


 俺は全身に走る激痛を噛み殺しながら、虚勢を張って凶漢を挑発する。誠遺憾ながら、万全の状態ならいざ知らず、ぼろぼろになった今の俺ではまともにやり合ったところで勝算はないだろう。ならば、激情的になっている男の心理状態を利用して油断を誘い、起死回生の奇策を講じるしかない。


「遊びは終いだ! 死ね!」


 呪詛を唱えながら凶漢はナイフを持つ手に力を籠めて、呼吸を整えるために距離を取っていた俺のもとまで全力疾走してくる。次第に動きが鈍ってナイフを躱し続けることはできないと踏んだ俺は、男の刺突をナイフの柄を持って両手で受け止め、そのまま奪い取るために力比べに移行する。だが、思うように力が入らない俺とは対照的に、筋骨隆々の男はみるみるうちにその切っ先を俺の喉元へと近づける。


「非力なもんだ! 潔く死ねよ!」


「言ったろ。てめぇに俺は殺させねえ!」


 力比べは分が悪い──そう考えた俺は、凶漢の方へとナイフを押し返そうとするのではなく、横方向へと力を加え、一先ず相手の間合いから脱出する。勢い余ってよろける男はすぐさま体勢を立て直し、俺の喉元目掛けて突進してくる。そこで俺は、男に背を向けて力の限り走り出した。


「威勢の良いことを言って、結局は敵前逃亡か!」


「……。」


 俺が走って向かったのは、炎上中の犯人の車だ。もはや利用できるものといったら、こいつくらいしかない。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」だ。


 俺は炎の裏に回り込むようにして、凶漢と燃える車を隔てて睨み合う形となった。


「今度は鬼ごっこか。つまらん時間稼ぎはやめろ!」


 俺は時計回りに追いかけようとしてくる凶漢を、じっくりと引き付けるようにして逃げる。怒りに任せ躍起になって後を追う男とは違って、死を目前にした土壇場で冷静さを取り戻すことができた俺──そんな両者の命運を分けたのは、まさにこの時だった。


 ──ガタン……!


「ぐぁ……! なんだ!?」


 次の瞬間、凶漢は突然つまづいて持っていたナイフを手放した。俺は炎で男からは死角となっていた場所に、犯人の車の開いたトランクルームから飛び出るように落ちていたフロアジャッキを拾って設置しておいた。燃え盛る炎柱によって視界が遮られていたため、男は俺の仕掛けに気が付かず、盛大に転倒した。その隙を見逃さず、俺は素早くナイフを拾い上げ、倒れ込んだ男に命令する。


「車はいつ爆発してもおかしくない。大人しくその場を離れろ。」


「黙れ。貴様の言いなりになるくらいなら、道連れにしてやる……!」


 凶漢は自暴自棄になって、起き上がるや否やナイフを恐れずに突進してくる。すると驚くべきことに、事故現場の道路を走っていた車が不用意に飛び出して来た男の存在に気が付かず、ブレーキを踏むのが遅れて跳ね飛ばしてしまう。屈強な男の身体は車との衝突により数メートルもの距離を転がって、ぱたりと動かなくなってしまった。


 ──Shit! What the fuck is this guy!?

(くそ! 何なんだよこいつ!?)


 男を轢いてしまった車の運転手が降りてきて、頭を抱えながら英語で何かを叫んでいる。だが、これ以上この場に留まるのは危険だ。俺は身振り手振りで爆発寸前の車両の存在を伝えて運転手を車に戻そうとする。運転手は俺の血塗れの姿を見て怪訝そうな顔をしながら、急いで走り去って行った。


 手負いの身体を引き摺りながら、後を追うように俺もその場を離れる。次の瞬間、霞んだ視界の中で、道路の反対車線から見覚えのある1台の赤いピックアップトラックがこちらへと向かって来るのが見えた。


「ケンシン、無事かい!?」


 アイーシャが近くにトラックを停めると、俺のもとまで駆け寄って、肩を貸してくれる。


「心美は……?」


「最寄りの病院まで連れて行った。かなり衰弱していたみたいだったからね。彼女はもう安全だから、安心して。」


「良かった……。」


 その知らせを聞き、安堵故か俺の身体からは、また一段と力が抜けていく。


「そんなことよりも、ケンシンの方が酷い傷だよ!? 随分と長いこと血を流し続けているし……! 車まで歩けるかい?」


「問題ありませんよ……。」


「犯人はどうしたの?」


 心配そうに尋ねる彼女への返事に代えて、俺は通りすがりの車に跳ね飛ばされ、頭からの出血で血溜まりを作って倒れている犯人を指差した。息があるのかも分からないが、今はそんなことを気にしている場合ではない。アイーシャの車へと何とか辿り着いた頃には、現場を目撃した通行人が通報したためか、遠くから消防車やパトカーのけたたましいサイレンの音が近づいてくる。


「奴の身柄は警察に任せよう。まずはケンシンを病院まで連れて行くのが先決だわ。」


 アイーシャの車の助手席に座ると、漸く全てが終わったという実感によって緊張の糸が切れた俺は、少しばかり眠ることにした。不思議と痛みは感じない。今日は一睡もしていないのだから、睡魔に打ち勝つことができないのも仕方ないだろう。アイーシャが隣で車を運転しながら、目を閉じた俺に対して必死に呼び掛ける声が聞こえるものの、返事をするだけの気力は既に無かった。



 §



 次に目を覚ますと、見慣れない白塗りの壁に囲まれた個室のベッドだった。なるほど、以前も似たようなことがあったが、察するにアイーシャが病院まで俺を担ぎ込んでくれたのだろう。そう考えて横を見遣れば、椅子に座って横になっている俺を見下ろすアイーシャ本人と目が合った。


「あ、ケンシン。やっと目を覚ましたね。」


 彼女の声を聞いた瞬間、誘拐犯によって引き起こされた事件の記憶が喚起され、俺は大慌てで問い質す。


「アイーシャさん、心美は──」


 するとアイーシャは、呑気に欠伸をしながら部屋の奥を指差した。反射的に振り返ると、そこにはすっかり元気を取り戻した愛しい相棒の姿があった。


「堅慎……!」


「心美!」


 俺は痛みも忘れてベッドから飛び起き、彼女の存在を確かめるようにきつく抱擁ほうようを交わす。


「堅慎、大丈夫なの……?」


「あぁ、処置が遅れて血を流しすぎただけで、傷自体は浅いよ。」


 不安気に俺の背中を撫で回す心美を安心させるように、俺も彼女の背中をぽんぽんと叩く。


「誘拐犯はどうなった?」


「主犯格の男はしぶとく生きていたよ。その他の仲間は、車両の爆発に巻き込まれて命を落としたそうだ。ただ、警察の知り合いに聞いたんだけど、犯人は病室での事情聴取に黙秘を続けていて、犯行予告状についても奴が常習的に送っていたという確たる証拠はなく、精々交通事故の過失が問われる程度で、近く釈放されるという見立てらしいよ。」


「何ですって!?」


 アイーシャの言い放った驚愕の事実に、俺と心美は開いた口が塞がらない。


「納得はいかないかもしれないけど、まさか奴が中国スパイで、貴方たちの命を狙っていましただなんて言い分は信じてもらえないだろうから、仕様がないね。いずれにしても、誘拐犯の計画が失敗に終わった以上、二度とGBSに犯行予告が送られてくることもないだろうし、犯人の身柄が拘束されているうちは貴方たちも安全よ。」


 アイーシャは心美から聞き及んでいたという事件の全貌についても、事細やかに説明してくれた。GBSに犯行予告状が送られてきた理由や心美が残したメッセージの謎など、俺たちが心美を追って動いていた半日間の裏側を詳細に知ることとなった俺は、改めて心美の深紅の双眸を覗き込むように話す。


「なあ心美──お前はGBS本社に予告状が届いていた時点で、犯人は俺たちの命を狙いに来た中国スパイだって気付いてたんだろ。だからこそ、手掛かりが何もない状況下で自らを囮役として敢えてスパイに捕まって、俺たちにヒントを残して直接犯人を特定・確保できるように仕組んだ。心美の考えそうなことだ。」


 事件の真相から逆算するように考えた俺の推理は図星だったようで、心美は黙り込んだまま、こくんとひとつ頷いた。


「だけどな、もうそんなこと、二度とやらないって約束してくれ。犯人共はスパイの水際対策を強化した日本への侵攻を諦めずに、突破口を探るため心美から情報を引き出そうとしてたようだけど、もし初めから殺すつもりだったらどうするんだ。」


「ごめんなさい……。」


 しおらしく素直に謝意を述べる心美に毒気を抜かれた俺は、これ以上彼女を責めることができなかった。


「全く。犯人が中国スパイの一味だって知ってたなら、俺にも教えてくれれば、奴等がGBSに訪れた時に一緒に戦ったら取り押さえられたんじゃないか?」


「まさかビルの外壁から侵入してくるとは思わなかったもの。それに、堅慎と2人で警戒心を剥き出しにしていては、犯人が計画の実行を諦めてしまうかもしれないでしょう……?」


「っ、とにかく! 相棒として俺のことをもっと信用してくれ! 心美が誘拐されてた半日間、俺は全く生きた心地がしなかったぞ……。」


「うん……。約束する。」


 紆余曲折あったものの心美を取り戻すことができ、金輪際GBSが中国スパイによる理不尽な被害に悩まされることも無いだろう。何はともあれ、一件落着だ。俺はもう一度心美を強く抱き締めて、再会の喜びを爆発させる。先程まで冷静に会話していたはずの心美からは、どくどくと激しく脈打つ心臓の鼓動を感じられるが、彼女の身を案じるあまり凄い剣幕で声を荒らげたために怖がらせてしまったのだろうか。もう怒っていないことを伝えるために、心美の頭をぽんぽんと撫でると、何故か彼女の心音は一層強くなっていった。


「イチャイチャしてるところ申し訳ないけど、そろそろ報酬の話をしても良いかい……?」


 茶化すようにして俺たちに依頼の報酬の件を切り出すアイーシャの方を振り向く。さて、俺はもう心美の考えていることが分かるつもりだ。彼女が口を開くより先に、堂々と言い放つ。


「依頼内容である犯行予告状を送ってくる犯人の特定・確保については、アイーシャさんのお力添えが無ければ到底完遂することができませんでした。契約内容に忠実に従うならば、報酬は受け取れません。」


 俺の言葉に心美は驚いた様子もなく、同意を表すように頷く。やはり、彼女も俺と同じように考えていたのだろう。


「い、いやいや! 確かにそうかもしれないけど、逆に言ったら君たちが助けてくれなかったらGBSの未来もなかったんだよ!?」


「そもそも、本を正せばアイーシャさんの警備会社が受けた被害は、俺と心美が巻き込まれている中国スパイとの揉め事のとばっちりですから。報酬を受け取るどころか、むしろ俺たちはアイーシャさんに謝らなくちゃいけません……。」


「はぁー、君たち……。どこまでお人好しなのよ。そんなんじゃこれからの人生、苦労するわよ……?」


「良いんですよ。俺には心美が生きて傍に居てくれるだけで、満足なんです。」


 心美は俺の言葉を聞いて、照れ臭そうにはにかんで、思い出したかのように口を開く。


「そうだ……! 契約上の報酬は要らないけれど、アイーシャ、私と約束したについては忘れてないでしょうね!?」


「えっと……。なんだっけ?」


 とぼけるように頭を掻くアイーシャに対して、心美は呆れたように溜息をつく。


「もう! 依頼を達成した暁には、私でも楽しめる観光スポットを案内してって言ったでしょ!」


 心美の発言に拍子抜けした様子のアイーシャは、ふっと微笑んで元気良く答える。


「あぁ勿論! 最高のサマーバケーションにしてあげるよ!」


 色々と想定外のアクシデントに見舞われたが、俺たちの海外旅行はここから、漸く始まる。俺は心美と笑い合って、期待と興奮の眼差しでアイーシャに行先を尋ねるのだった。

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