Ep.37 救出劇

 心美を乗せた誘拐犯が運転する黒のワンボックスカーの右側両輪をアイーシャの拳銃が撃ち抜いたことで、パンクした車のタイヤは火花を散らしながら徐々にそのスピードを緩めていくものの、最終的に路上で横転してしまった。幸いにも、明け方の開けた海沿いの道路は交通量が少なく、後続車による事故の心配はなさそうだった。時折通り過ぎる対向車の運転手が、俺たちによって引き起こされた惨状を目撃して怪訝そうな表情で走り去っていくが、そんなことを気にしている場合ではない。


「ケンシン、ヤバい……!」


 アイーシャが指差した方向を見れば、横転した誘拐犯の車からガソリンと思しき液体が漏れ出ている。このままでは、いつ心美の乗った車が爆発炎上するか分からない。それ以前に、まずは心美の安否を確認しなければならない。


「心美! 無事か……!?」


 相棒の名前を叫びながらトラックの運転席から飛び出た俺は、爆発に巻き込まれるリスクなど歯牙にも掛けずに、漏れ出たガソリンの跡を辿るように誘拐犯の車へと駆け寄る。だが次の瞬間、俺が目にしたのは信じられない光景だった。


「面倒なことをしてくれたな……。」


 濁り切った野太い声で恨み節を口にしながら横転した車両の陰から姿を現したのは、頭から血を流してふらついた様子の主犯格の男と、首元にナイフを突き付けられた状態の心美だった。アイーシャは男の声に反応して持っていた拳銃を構えるが、誘拐犯は卑怯にも心美を盾にしているため、撃つことができない。


「けん、しん……。」


 乱暴に首根っこを腕で絞めつけるように抱えられている心美は、誘拐犯の身体にぐったりと寄り掛かるようにして立つのが精一杯で、足に力が入っていない。車両の横転によるダメージもあるだろうが、苦悶の表情を浮かべながら助けを求めるように俺の名前を呼ぶ心美の様子から推察するに、もう既に太陽から少しずつ紫外線が降り注いで、彼女の白雪の如き柔肌を溶かすように焼き始めているのだろう。今となっては、一刻の猶予もない。


「待て! 殺すなら代わりに俺を殺せば良い! 心美のことはもう解放してやってくれ!」


「ほざけ! 俺の仲間を散々な目に遭わせておいて今更何を言うか!」


 どくどくと血を流しながらいきり立つ誘拐犯の瞳の奥に宿るどす黒い憎悪の炎を見れば、もはや交渉の余地など残されていないことが分かる。


「おい女、銃を捨てろ! さもなくば、こいつの喉笛をさばくぞ!」


「くっ……!」


 すると、アイーシャは誘拐犯の要求に応じるように、ゆっくりと両手を上げながら拳銃を地面に置く。およそ4年前に出会った警察官としてのアイーシャであれば、下種な犯罪者の命令に素直に従うこともなかっただろう。だが、ぜえぜえと辛そうな息遣いで、苦痛に耐えるように紅い目を細めて涙している弱々しい心美の姿を見て、反抗する気力が削がれたようだ。


「そのままこっちに蹴り飛ばせ! 早くしろ!」


 誘拐犯に命令されるがまま、アイーシャは地面に置いた拳銃を男の方へと蹴る。心美を腕に抱えたまま拳銃を拾い上げた男はナイフを捨て、銃口を心美に向けたまま次なる要求を声高に叫ぶ。


「ほら、そしたらまずお前から近づいて来い! 本当だったら自ら死を懇願するほどの壮絶な責め苦を与えてやりたいところだが、時間が惜しいからな。1発でぶっ殺してやる!」


 顎で俺を差す誘拐犯の指示に従って、俺は男のもとへ半歩ずつ接近する。


「もっとだ! 女はそこを動くんじゃねえぞ! さっさとしろ!」


 確実に俺の命を奪おうと万全を期するためか、誘拐犯は銃の有効射程範囲内に入った俺に対して、さらに近づくように命じた。


「だ、め……。堅慎、私のことはもう良いから、逃げ、て……!」


 掠れた声で絞り出すように言う心美の痛々しい姿に、胸がずきずきと痛む。俺の宝物をここまで傷つけた眼前の性根が腐った卑劣漢を絶対に許すまいと、恨みを込めた視線を向ける。


「天才探偵様の腰巾着の分際で調子に乗りやがって! 最期の最期まで憎たらしい顔だ! 簡単にのが残念で仕方ないが、もういい──脳みそぶちまけて死にさらせ!」


「いやぁ……!」


 心美の悲痛な声と共に、狂気を孕んだ眼光鋭く、男は銃の引き金に指を掛けた。俺の眉間に照準を合わせて、憎しみの籠った雄叫びと同時に撃鉄が弾丸を押し出そうとする。


 ──カチッ……。


 だが、引き金が引かれた拳銃から弾丸が発射されることは無かった。



 §



 心美を乗せた誘拐犯の車が横転した直後、俺は彼女の身を案じ、急いでトラックを降りようと運転席のドアに手を掛けた。


「ケンシン、待って!」


 すると、助手席のアイーシャが俺の服の袖を引っ張って制止する。


「誘拐犯が無事だったら、きっとココミを人質にとって私たち全員を殺そうとする。彼女の身柄を抑えられれば、私たちは犯人の言いなりになるしかないから、拳銃も奪われてしまうだろう。」


 早口で捲し立てるアイーシャの言葉を、俺は一言一句聞き漏らさないように集中する。


「だから、敢えて拳銃の弾は全て抜いてから行く。私とケンシンは、あくまで拳銃に弾丸が込められている前提で演技するんだ。奴が拳銃を奪い取った場合、おそらくそれを使ってココミを人質にしながら私たちを1人ずつ殺すはずだ。その最中で、必ずどこかに隙が生まれる。ココミを救うには、奴の油断を誘って肉弾戦に持ち込むことが最善策だ!」


 俺はアイーシャの提案を了解したことを示すため、彼女の目を真っ直ぐ見つめて首を縦に振る。それを合図に、俺は再び運転席のドアに手を掛け、トラックから転がり落ちるように飛び出した。



 §



 結果的に、誘拐犯は心美を人質に取って俺たちを1人ずつ始末しようとしたため、アイーシャの予想は的中する形となった。幸運なのは、誘拐犯グループのうち車両から脱出して俺たちと対峙したのが、眼前の主犯格の男ただ1人だったということだ。


 弾丸が射出されず、拳銃に実弾が入っていないことに気が付いた男は激しく狼狽して大きな隙が生じる。俺はその間隙を縫うようにして、男との距離を一気に詰めた。左腕で心美の首に腕を回して、右腕に拳銃を携えていた男は、驚異的な瞬発力で懐に飛び込んだ俺の影を目で追うことすらできない。


「この時をどれほど待ち望んでいたことか……!」


 涙を流しながら今にも卒倒してしまいそうな心美をこんな目に遭わせた史上最悪の屑野郎を苦労の末に漸く間合いに捉えた俺は、全身全霊を込めた握り拳を顔面に叩き込んだ。誘拐犯の拘束から解放された心美は支えを失い、そのまま地面に倒れ込むようにして脱力するので、俺は咄嗟に彼女を抱き留める。およそ半日ぶりに感じた心美の温もりに、得も言われぬ高揚感と共に心底安心した俺は、彼女をきつく抱擁する。すると心美も弱々しく俺の背中に腕を回して、蚊の鳴くような声で涙を流し続ける。


「もう大丈夫だ。時間が掛かってすまなかったな……。」


 だが、肝心の誘拐犯は依然として交戦の意思を失くしてはいないようで、心美の頭に手を回して安心させるように撫でながら前方を見遣れば、よろよろとナイフを拾い上げて立ち上がる男の姿があった。そうこうしているうちに、オーストラリアの夏空は徐々に明るくなって、地平線から灼熱の太陽がり上がってくるのが見える。このままでは、心美の露出した肌や髪が紫外線に曝されてしまう。


「アイーシャさん! 心美を急いでトラックまで運んで日陰へと向かってください! ついでに何処かで氷を買って身体を満遍なく冷やしてやって、水分補給させるように!」


「あ、あぁ! だけど、ケンシンは!?」


「俺はこのクソ野郎と決着をつけます。探偵として、一度受けた依頼は必ず完遂しなければ気が済まない。それに、俺は心美を散々な目に遭わせたこいつを許すことは絶対にできない!」


 GBSに警備業務を依頼していた施設に対して、常習的に犯行予告状を送り付けていた犯人の特定・確保というのが今回アイーシャから受けた依頼の内容だ。すなわち、目標まであと一歩のところまで迫っているのだ。俺も心美も、ここまで来て易々と諦めるほど、伊達に場数を踏んでいる訳ではない。


「分かったけど……! 無茶はしないでよ!?」


 アイーシャが心美を背負ってトラックの後部座席に寝かせ、走り去って行くのを見届けてから俺は憎き凶漢と再び対峙する。負傷していた頭部に拳骨げんこつを叩き込んだため、二度と起き上がってくることは無いと思っていたが、やはり鍛えられ方が違うのか、存外に執念深い。


「謀ったな……! ターゲットも取り逃がして仲間も失った! 全て貴様のせいでな!」


「笑わせるな。全部てめぇの自業自得じゃねえか。」


 男はナイフを利き手に持ち替えて重心を低く取り、じりじりと間合いを詰めてくる。薄々勘付いてはいたが、主犯格の男は他の奴等よりも戦闘力が高いらしい。GBS本社ビルの60階まで外壁を登攀とうはんするだけの筋力と持久力に加え、ナイフの扱いにも長けているとなれば、素人の俺にはどうしても分が悪いだろう。


 無論、負ける気など一切ない。だが、頭部からの出血は止まった様子の男とは対照的に、左脇腹と右肩に受けた傷の止血が済んでいない俺は、心美とアイーシャに心配を掛けないために痩せ我慢をしていたものの、出血多量により視界が霞み始めていた。


「随分と辛そうだな! 貴様はなぶり殺しにしてやらないと、もう気が済まない。楽に逝けると思うなよ……?」


「それはこっちの台詞だ……! 心美が受けた痛みと恐怖を何倍にもして味わわせてやる!」


 空元気を振り絞るようにして大見得を切ってみせるも、やはり傷だらけの身体は思うように動く気配もなく、いよいよ相討ちをも覚悟し始めていた。だが、そんな絶体絶命の状況で俺が思い出すのは、いつも心美のことばかりだ。俺は栄泉リゾーツで中国スパイに瀕死の重傷を負わされた時に、心美から掛けられた言葉を思い出す。


 ──堅慎、死ぬな!! 貴方が死んだら私も必ず後を追うわ! 私のことを死なせたくないなら貴方も絶対に死なないで! お願いだから!!


 心美があの時から心変わりしていなければ、俺が死ねば彼女も自死を選んでしまうということだろうか。そんなことは認められない。だが、死人に口なしというように、俺が死んでしまえばその後の彼女の行動にとやかく言うことはできなくなる。俺は思い出の中の心美が放った言葉に奮起して、覚悟を決める。


「てめぇに俺は殺せない……! 掛かって来いよ!」


「舐めるんじゃねぇ! 手負いのクソガキに後れを取るほど落ちぶれちゃいないんだよ……!」

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