Ep.36 血濡れのカーチェイス

 ──ザクッ。


 俺は四方から腰だめにナイフを構えて突っ込んでくる暴漢共を限界まで引き付けてから、その場で思い切り跳躍して両足を回転させ、空中で2人の顔面に殺意を込めた蹴りを見舞う。だが、ナイフを持った男全員に対処することはできず、着地際に肩口と脇腹を切り裂かれる感触を覚える。何やら焼け付くような痛みを感じるが、それをまるで他人事のように達観している自分が居た。


「いてぇな、この野郎。」


 痛みに怯むこともなく、間髪入れずにナイフを俺の身体に突き立てた2人の顔面に渾身の力を籠めた拳を叩き込んで鼻っ柱を折る。これで、誘拐の主犯格を除いた暴漢全員を倒し切った。


「か、怪物め……!」


 ──か。そう言えば昔、心美と出会う前に親父に殴られていた頃、青痣だらけの身体を見た幼稚園の同級生にそんな呼ばれ方をしていたっけな。全く、懐かしいことを思い出させてくれる。こうして暴力に頼るしか能のない俺も、かつて軽蔑けいべつしていたはずの親父と同類の人間に成り下がってしまったのだろうかと、一抹の悲愴感を覚える。


「違う! 堅慎は怪物なんかじゃないわ! 優しくて、勇敢で、強くて、頼もしい私にとって最高の相棒を、そんな風に呼ぶな……!」


 パイプ椅子に縛り付けられながらも銀糸の束を振り乱し、俺の名誉を守るために涙を流しながら叫ぶように弁護してくれる相棒の姿に心が締め付けられる。俺は、自分で自分が受け入れられなくとも、心美にさえ認めてもらえればそれで良いんだと改めて実感したことで、邪念を振り解くことができた。


「黙ってろ、クソが! こうなったら地獄の果てまで付き合ってもらうからな……!」


 すると、主犯格の男が身動きのとれない心美の背後に回り込んで縄を解いたかと思いきや、ナイフを首元に突き付けてゆっくりと倉庫の裏口のドアまで後退る。


「てめぇ……。まだ懲りないのか!」


「おい! お前らもさっさと来い!」


 男の声に呼応して、床に伸びていた暴漢共がよろよろとゾンビのように立ち上がって後に続く。


「いや、離して……! 堅慎、アイーシャ、助けて!」


 何とか抵抗しようとする心美だが、流石の彼女でも屈強な男の筋力には敵わず、ナイフを突き付けられている以上はどうしようもない。


「ケンシン、車に戻って後を追うわよ!」


「あ、ああ!」


 暴漢共との戦闘の一部始終を唖然とした様子で傍観していたアイーシャは、ふと我に返ったように心美を救出するための行動を開始する。俺はアイーシャに促されるまま、倉庫からは少し離れた道路の路肩に停車してあるトラックに向かって走り出す。誘拐犯の一味は倉庫のすぐ傍に停車していた黒のワンボックスカーの後部座席に心美を押し込め、急発進させる。そのまま俺たちが車に乗る前に逃走を開始して距離を離すつもりかと考えて、その行方を目に焼き付けようと視線を逸らさずにいると、逆に犯人の車は何故かこちらへと向かって来た。


「アイーシャさん! 危ない!」


 俺は誘拐犯が運転する車と衝突する寸前でアイーシャを捕まえて、自分の身体を下敷きにするようにアスファルトへと飛び込んだ。


「ちっ、大人しく轢かれておけば楽に死ねたものを……!」


 すると、俺たちを車で跳ね飛ばすことに失敗した誘拐犯の車両が、今度こそ反対方向へとUターンして走り去って行く。


「狂ってる……。奴等、俺たちを車で轢き殺すつもりだった……!」


「ケンシン、助かったわ……。それよりも君、酷い出血だけど大丈夫なの!?」


 傷はそこまで深くなかったとはいえ、肩口と脇腹をナイフで引き裂かれてアスファルトに身体を叩きつけた衝撃によって状態は悪化したようで、俺の傷口からはどくどくと血が流れて見るも無惨な姿となっているらしい。


「すみません。アイーシャさんの社用車を汚してしまうかもしれません……。」


「そんなことを言ってる訳じゃないよ……! 君が死んだら心美が泣くから、これ以上無茶はしてくれるな! いいね!?」


 今となっては、不思議と痛覚は感じない。あるのは誘拐犯への強い怒りと、心美をこの手で抱き締めて、彼女の口から事情を説明してもらいたいと思う気持ちだけだ。俺とアイーシャは、ここまで乗ってきた赤いピックアップトラックまで全力で走って、やっとの思いで辿り着いた。


「時にケンシン──君は免許持ってるの?」


「はい……!?」


 こんな時に一体何の質問だろうか。まあ、俺は探偵としての仕事上、車が必要になることも往々にしてあるため、一応ながら日本で言うところの「普通自動車第一種運転免許」であれば取得しているが。


「そりゃあ良い。さあ、乗って! 運転はケンシンに任せた!」


「はあ!?」


 1分1秒すら惜しまれるほどに時間がないため、俺はとにかく指示されるまま運転席に乗り込んでエンジンを掛けるが、アイーシャの言っている意味が分からず困惑する。


「俺は日本の免許は持ってますけど、海外で車を運転する場合は国際運転免許証が必要になりますよね……!?」


 アイーシャによる突然の奇行に抗議しながらも、その言葉とは矛盾するように、誘拐犯の黒塗りの車を追跡するため、アクセルを思い切り踏み込んでキックダウンさせる。急加速したトラックは、夜のとばりに身を隠しながら既に小さくなっている誘拐犯の車を追って人気のない夜道を爆走する。


「細かいことは気にしない。もし警察にパクられたらOGの私が庇ってあげるわよ。このままだと、奴等に追いついたところで停車させる方法がないでしょ……? だから、私がその役割を担うのよ!」


 元警察官の人間とは到底思えない空言を、高速で走るトラックの窓から吹き荒ぶ風の音に負けじと叫ぶように言い放つアイーシャは、助手席のダッシュボードの下にあるグローブボックスから1丁の拳銃を取り出した。


「こいつで奴等の車をパンクさせて停めてやるわ。元敏腕刑事の腕の見せ所ってところね……!」


 運転に集中しながらも、脇目に本物の拳銃を見た俺は驚愕する。


「アイーシャさん! 一介の警備会社が銃器の所持なんて認められてるんですか!?」


「ここオーストラリアでは、よっぽどのことが無い限り認可は下りないわ。でも、うちの警備会社はそのよっぽどのことを専門にしてるからね! 大丈夫、政府の認可は取ってあるわよ!」


 それは警備業務における認可であって、アイーシャにとって、この事件は個人的な探偵依頼によるもの──すなわち、プライベートという扱いになるのではないかといった反論の言葉は飲み込むことにした。彼女の言う通り、ただ闇雲に誘拐犯の車を追跡しても足止めする手段が無ければ、肝心の心美を救出することができないまま堂々巡りとなってしまう。ここは、彼女の射撃技術のお手並み拝見と行こう。


 数分間ひたすらにフルスロットルでトラックを走らせていると、豆粒のように見えていた誘拐犯の車両に少しずつ追いついて、その姿がはっきりと視認できるようになる。


「行けそうですか!? アイーシャさん!」


「下手すれば誤射してココミを危険に巻き込むことになりかねない……! もう少し近づいてからの方が良いわね!」


 アイーシャの主張は十分に理解できるものの、ワンボックスカーを運転している誘拐犯もこちらの追跡に気が付いているようで、次第に速度を上げてきた。2つの車両の距離感は付かず離れずの均衡を保ったまま、刻一刻と時間だけが過ぎていく。地平線からは真夏のオーストラリアをじりじりと暖めるように朝日が徐々に顔を出し、心美を救出するための時間がほんの僅かしか残されていないということを雄弁に物語っている。


「拙いな……。そろそろ紫外線が降り注いでくる時間だ。ココミは薄着のままだったし、きっと耐えられないぞ……!」


「分かってます! 頼む、もっと速く走ってくれ……!」


 すると、暫く一直線だった道路の先に緩やかなカーブが見えてくる。──もはや、この手しかないだろう。


「アイーシャさん! 次のカーブ、最高速度のまま突っ込みます! きっと誘拐犯は安全を取って減速するだろうから、その隙に反対車線に入って奴等の車両に横付けするので、その一瞬でタイヤに風穴を……!」


 俺の言い放った苦し紛れの作戦に、アイーシャは仕方がないと言いたげに首肯する。


「分かった……! くれぐれも、しくじるんじゃないよ!」


 そのままトラックはトップスピードを維持したままカーブへと突入する。ブレーキを踏めと警告し続ける己の恐怖心を完全に無視して、感触を確かめるように少しづつハンドルを傾けていく。凄まじい遠心力によって身体が進行方向とは逆に引っ張られていくが、何とか前を向いてカーブを曲がり切った。予想通り、誘拐犯はカーブの手前で減速していたようで、再び直線に差し掛かった頃にはすぐ傍に黒のワンボックスカーが見える。ふと横を見遣れば、後部座席の窓から涙をたたえた瞳で俺たちを見つめている心美の姿があった。


「アイーシャさん! やってくれ!」


「ケンシン、良くやった! 後はお姉さんに任せな!」


 俺が反対車線にはみ出して誘拐犯の運転する車の右隣に横付けすると、アイーシャはすかさず2発の弾丸を的確に右側の前後輪に命中させる。犯人の車は火花を散らしながら、みるみるうちに減速して最後にはゆっくりと横転した。


「しまった、ココミ……!」


「っ、嘘だろ……!?」


 急いで減速してトラックを路肩に停車させ、心美の安否を確かめるために誘拐犯の車両に駆け寄る俺たちだが、そこで目にしたのは信じ難い光景だった。

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