一輪の枯れぬ茉莉花
Ep.35 怪物と呼ばれた男
法定速度を時速数十キロもオーバーして、真夜中の月明かりが差し込む無人の車道をひた走る車内から東の空を眺めれば、地平線は既に白み始めている。心美の失踪に気付いてから何時間が経過しているだろうか。それは換言すれば、心美の命を何時間も危険に晒し続けている俺の過失ということだ。そんな自分に対する止めどない怒りの濁流に飲まれて自責の念に駆られていると、突如としてアイーシャの運転するトラックが一気に減速して、脇道へと逸れていく。
「ここから海沿いの埠頭の倉庫へと向かう。怪しい車が停まっているかもしれないから、ケンシンも車窓から探してみてくれるかしら。」
俺は言われた通り、アイーシャの部下が証言した犯人の車の特徴を基に血眼になって外の景色を舐るように見渡して探す。GBS本社ビル周辺の山々を隈なく捜索していたアイーシャの部下によれば、心美を乗せた誘拐犯の車は黒のワンボックスカーだったという。最大限の速度で運転に集中しているアイーシャからは、闇夜に紛れた黒色の車は見つけづらいだろう。ここは、犯人が埠頭の倉庫に心美を連れ込んだと仮定して、俺が付近を見渡して車を探さなくてはならない。
「必ず見つけ出して、心美を誘拐した大罪を
煮え
「アイーシャさん、犯人の車を見つけた! ここで停めてくれ!」
「なんですって!? 分かったわ!」
アイーシャは俺の大声に反応して急ブレーキを掛けて、トラックを路肩に停車させる。流石に埠頭まで車で移動したらエンジン音で誘拐犯を警戒させてしまう。俺は一刻も早く心美のもとへと走り出したい衝動をなんとか抑え付け、アイーシャと共に車を降りると慎重に倉庫へと忍び足で駆け寄る。
「……。」
「……? ……。」
「……。」
「……! ……!」
倉庫群に接近すると、何やら男声と女声による応酬が聞こえてくる。その声のする方へと向かって行き、中の様子を窺い見ようと窓を探すも、倉庫の窓は日の光が差し込むように到底届かない高所と天井に備え付けられているのみである。仕方なく、俺とアイーシャは倉庫の入口まで忍び足で回り込んで、物陰から口論の現場を目撃する。
「っ……!」
俺の視線の先には、倉庫の奥でパイプ椅子に両腕を縛り付けられ、頬を殴られたためか口から出血している様子の心美が複数人の男に取り囲まれていた。その光景を目の当たりにした俺は、心美が生きていてくれた安心感よりも、心美の痛々しい傷の状態と、彼女を怯えさせている暴漢共に対する殺意が破裂寸前の風船のように膨らんでいき、視界が真っ赤に染まっていく。
「待って。ケンシン──いくら貴方でも屈強な男を何人も相手にしていたら、無事じゃ済まないでしょ!」
アイーシャは小声で俺の瞳を覗き込むように諭そうとするが、憎悪に支配された脳によって全身の血液が沸騰するように怒り狂っている今の俺には、どんな説得も通用しない。
「アイーシャさん。俺は自分の身の安全なんて、命なんてどうでも良いんですよ。どの道心美が居なければ俺なんてこれまで生きて来れなかったし、生きる意味もない。あいつを一刻も早く絶望の淵から救い出してやるためなら、俺如きの命なんて、いくらでもくれてやる……!」
「冷静になれ! 折角あと1歩のところまで来てるんだ! ここでしくじったら全てが水の泡なんだよ!?」
「だったら何か妙案でもあるんですか!? 俺はもう、心美の怯えた顔を1秒たりとも見ていたくないんだ!」
そんな押し問答を繰り返しているうちに、倉庫内で心美を取り囲んでいた暴漢共のうち、主犯格と思しき心美と会話している男が、突如として彼女に握り拳を振り上げる。それを見た俺の頭の中で最後まで繋がっていた理性の糸は、憤怒の業火によって遂に音もなく焼き切れた。
§
「やめろ!!」
「……!?」
アイーシャの身体を張った制止をも振り切って腹の底から雄叫びを上げると、その場に居た人間全員の視線を一身に集める。
「けん、しん……? 堅慎なのね……!?」
相棒の到着による安心感からか、ぼろぼろと涙を流す心美を見て、目の前で拳を固めている誘拐犯に対する復讐心が加速度的に高まっていく。
「な、何故ここが分かった……!?」
「てめぇらのような屑共に、それを教えてやる義理などない。」
「ふざけやがって……! おい、全員で袋叩きにしちまえ!」
心美誘拐の実行犯と思われる男の号令によって、刃渡り15センチ以上はありそうなコンバットナイフや鉄パイプなどの鈍器を持った手下の暴漢共が
「俺の相棒が随分と世話になったみたいだ。礼は弾むぞ。」
「抜かせ! どの道最初からお前も殺すつもりだった! 飛んで火にいる夏の虫ってやつだな!」
鉄パイプを持った暴漢の1人が先陣を切って、俺の頭部目掛けて鈍器を振り下ろす。それを紙一重で躱した俺は、身体を捻った回転を利用して
「がっ……!」
殺意を持って放った俺の蹴りは、狙い通り男の後頭部に突き刺さって意識を刈り取る。だが、心美の見ている手前、無意識に手加減してしまっているのか、命を奪い取るまでには至らない。
「な、なんだと……。」
一瞬にも満たないやり取りであっさりと撃沈した男の姿を見て、暴漢共は動揺を隠せない。きっとこいつも栄泉リゾーツのホテルで出会ったジミーのように、中国の組織で血反吐を吐くほどの訓練と十分な日本語教育を受け、日本侵攻のために養成されたスパイの1人だったのだろう。
「終わりか? どの道、俺はてめぇらのような外道を生きて返すつもりはないから心配するな。」
俺は最も近くで狼狽して動きが鈍っていたナイフを持った男の右腕を引っ掴んで、飛び膝蹴りを入れる。何やら骨の砕けるような感触がしたが、そんなことはどうでも良い。地獄の底から鳴り響くような叫び声を倉庫内に反響させながら、手放させたナイフを足でどけて、倒れ込んだ男の腹部にサッカーボールキックを見舞う。血の混じった吐瀉物をぶちまける男を無視して、残りの人畜共に立ち向かう。
「おい、なんなんだよ、こいつ……!」
「ば、化け物だ……!」
「なあ、こいつは組織のトップターゲットじゃなかったはずだ! 女だけ連れて逃げよう!」
先程まで威勢よく吠えていた暴漢共が、たかだか2人やられただけで情けなくも口々に泣き言を垂れる。本当に耳障りだ。
「何やってる! 多対一なら数の利を生かせ! 囲い込んで腰だめにナイフを構えて突撃すれば、どんな人間だろうが躱し切れんからな!」
心美の傍で主犯格の男が取り巻きに指示を出すと、それに呼応するように暴漢共が俺の周りを取り囲む。
「堅慎、逃げて……! そいつらはナイフでの戦闘を訓練されてるはずだから、複数人を一気に相手取るのはいくら貴方でも分が悪いわ!」
今にも俺に襲い掛かってこようとする暴漢共の殺意を孕んだ視線を見て、心美は叫ぶように警告する。だが、俺は心美を傷つけた奴等に復讐するまで、一歩も後退するつもりはない。
「いけ! やっちまえ!」
──ザクッ。
刹那、俺の身体を暴漢のナイフが切り裂いた。
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