Ep.34 ヘンゼルとグレーテル
誘拐された心美がGBS本社ビル付近にある
「くそっ、まだ見つからないのか!」
「ケンシン、落ち着いて! 今本社に居ない社員にもココミの捜索のために出動するように呼び掛けているわ。これだけの人数なら、
「これが落ち着いて居られるか! 今この瞬間にも心美が誘拐犯に
心美を助けたいのに何もできないこの時間が歯痒くて、彼女が今も何処かで恐怖に怯え、苛烈な暴力を受けているかもしれないという絶望感による吐き気に耐えるため、力の限り掴んでいた腕に爪が食い込んで血が噴き出している。そうして、憤怒の炎によって焼き切れそうな意識を痛みによって何とか繋ぎ止めていると、アイーシャのスマホが着信音を鳴らす。
「っ……!」
目配せしてから電話に出るアイーシャを黙って見守ること約1分、彼女の表情は俺が期待していたようなものではなく、眉間に
「どうしたんですか……!?」
「結論から言うと、部下がGBS本社ビルの南方に車で30分ほど進んだ位置にある山奥に木造の小屋があって、車が停められているのを発見したらしいわ。」
「よし! だったら、今すぐ向かいましょう!」
勢い良く立ち上がって現場に急行しようと息巻く俺に、アイーシャは手の平を向けて首を横に振って、至って冷静に制止する。
「どういう訳か、犯人は複数人で心美を車に押し込めて何処かへと走り去って行ったらしいのよ……。」
なんだって。心美に危害を加えるつもりなら、どれだけ騒いでも人目につかない山奥の小屋など
「まさか、追手の存在に気が付いたんじゃ──」
「そんな様子は微塵も感じられなかったと、私の部下は言っていたわ。警備会社の社員として、犯罪者に自身の存在が認識されたかどうかくらい判別できるはずだから、信用に値するわ。」
しかし、誘拐犯が敢えて場所を変えるということは、それ相応の理由があるはずだ。その理由としては、俺たちが犯人の所在を突き止めたことを勘付かれたこと以外に考えられない。
「もう、じっと部屋で待機しているだけなのは耐えられない! 誘拐犯が拠点として利用していた山小屋なら、心美の行方を追うための手掛かりが残されているかもしれない……! アイーシャさん、いずれにせよ犯人が滞在していた山小屋まで行ってみましょう!」
「破れかぶれだと言いたいところだけど、確かにここに留まっていても、これ以上の進展は望めないわね。一縷の望みに賭けて、行ってみましょう。」
アイーシャの同意を得て、俺たちはエレベーターに乗って、急いで地下駐車場に停めてある彼女の社用車である赤いピックアップトラックに乗り込んだ。南方の山へと向かうまでの30分間は、俺の20年間の生涯において最も永く感じられた時間だった。
§
その後間もなく、アイーシャの車は狭い山道へと突入した。土煙が舞い上がる様子が夜道を走る車のライトによって照らされ、細かい石がタイヤに食い込んで車内は激しい縦揺れに襲われる。アイーシャの運転する車は法定速度を無視して、安全性度外視で山道を飛ばしたため、予定よりも早く誘拐犯が心美を拉致・監禁するのに利用したと思われる木造の小さな建物が見えてきた。
車を降りて、スマホの懐中電灯機能を活用して地面を照らせば、俺たちが乗っていたトラックのタイヤ痕とは別に、犯人の車のものと思われる痕が残っていた。おおよそ向かっていったであろう方向は分かったが、その目的地までは到底知る由もない。目的の小屋を調べようとドアに手を掛ければ、どうやら施錠はされていないようで、すんなりと侵入することができた。
小屋の内部には、中央に心美が縛り付けられていたと思われる木製の椅子があるのみで、その他には家具ひとつない殺風景だ。そんな無味乾燥な空間で異様な雰囲気を放つのは、床に点々と滴り落ちていた血痕だった。
「あ、あぁ……。」
心美が居たと思われる場所で血を見た俺は、絶望のあまり言葉を失って足に力が入らなくなってその場にへたり込む。茫然自失とする俺に対して、アイーシャが活を入れる。
「ケンシン、気をしっかり持って! この出血量、きっと大したことはされていないはずよ!」
大した事かどうかは問題ではない。誘拐犯が心美に出血させるほどの暴力を加え、俺はそれを防げなかった。そんな自分への情けなさと心美の計り知れない恐怖心を思えば、俺は気が狂いそうだ。だが、底知れない不安感に晒され続けているはずの心美を差し置いて、俺が
「くそっ! 何もない……!」
必死の捜査も虚しく、小屋の中で視界に入るのは未だ心美の座っていたであろう温もりが残った木製の椅子のみで、その他に目ぼしいものは何ひとつ存在しない。極度の緊張と焦燥に全身の筋肉が収縮して、息が荒くなる。
「ん……? これは──」
すると背後で、アイーシャが何かを発見したかのように小さな声を上げる。
「ケンシン! これを見てくれない!?」
促されるまま彼女のもとへと歩み寄ると、木製の椅子の影になって分かり辛くなっていた裏側の床に、見覚えのある乾燥した葉が規則的な模様を描くように散らばっていた。
「こ、これは……!」
その乾燥した葉は、俺が日本の自宅兼事務所から持参してきた、普段から心美が愛飲している高級なジャスミン茶葉だった。彼女のために毎日ジャスミン茶を淹れているのだから、見間違えるはずもない。その葉を指で掬い取るようにして匂いを確かめれば、
両親に見捨てられた子供が家に帰るため、パンくずを
「っ、これはココミからのヒントに違いない! アイーシャさん、心当たりはありませんか!?」
ジャスミン茶葉が描いていたのは、歪な形をした六角形の中に縦線が入っているような謎の模様だ。正直に言って、俺には心美が残したであろうこのメッセージが意味するところに、見当もつかない。俺はダメもとでアイーシャに尋ねると、彼女は何かを閃いたように目を見開いて、俺の方に顔を向ける。
「この六角形の中に書かれているのは数字の"1"だわ!」
俺はアイーシャが何故その結論に至ったのか、それが分かったところでメッセージの意味する内容は理解できるのか、様々な疑問が浮かぶ。そんな俺の不安そうな表情を察したのか、彼女は続けて解説する。
「六角形に"1"という数字──これはメトロードと呼ばれる、オーストラリアの大都市圏・シドニーとブリスベンに張り巡らされた幹線道路網を意味する標識なのよ。」
「ここはブリスベン地区だから、"1"という数字はバールドヒルズとローガンホームを結ぶメトロ―ド1号線を意味しているんだわ。犯人は車で1号線沿いの何処かに向かったということを、ココミは伝えたかったのかもしれない……!」
アイーシャはオーストラリア人ならではの知識を披露して、抽象的なメッセージから数多くの情報を読み取り、心美が連れ去られた行先だと思われる場所の地名まで割り出した。だが、依然として範囲が広すぎる。詳しい場所を特定するには至らない。
「だけど、それが分かったところで具体的に心美が囚われている場所は分からないんじゃ……?」
俺の疑問に対して、アイーシャは自信に満ちた態度を崩さない。
「いや、そうでもないわよ。私は仕事で何回かその辺りを車で移動したことがあるんだけど、人目を避けて、なおかつある程度騒いでも気付かれない場所は、1号線沿いにはほとんどない。」
「なるほど……。」
「かといって、1号線を出るならばブリスベンの都市部か、海沿いへと向かう方向のどちらかに限定される。オーストラリアの国土は広いわ。誘拐犯が今日中に心美を始末するつもりなら、深夜とはいえ都市部に行くのは
アイーシャの推理は的を射ている。的確に誘拐犯の行動心理を分析して、心美を拉致するために避けるべき場所を選択肢から除外しつつ、犯人の向かった先を限定していく。
「海沿いの埠頭にいくつか倉庫があるんだけど、犯人はきっとそのうちの何処かに心美を連れ去った可能性が高いわ。ブリスベンの海沿いは有名な観光スポットだから、夜のビーチには誰も居ないとはいえ、人が来ないとも限らない。だから、遊泳区域を離れた比較的人気の少ない埠頭の倉庫ならば、
心美が残したメッセージから分かるのは、アイーシャが説明したことが全てだろう。誘拐犯の車が1号線に向かったというのが事実ならば、後はアイーシャの推理が当たって、海沿いの埠頭に心美が居ることを願うしかない。
「とにかく、行ってみるしかないわ!」
「分かりました! 急ぎましょう!」
俺たちは心美の無事をただひたすらに願いながら、猛然と山小屋を飛び出して車に飛び乗った。アイーシャによって急発進したトラックは、誘拐犯が去って行ったと思われる方向へと、タイヤ痕をなぞるように走る。やはり、犯人がメトロ―ド1号線に出て心美を連れ去ったという彼女の推理は的中しているのだろう。重苦しい空気が張り詰めた車内で、俺たちは一言も交わすことなく、海沿いの埠頭を目指して深夜の車道をかっ飛ばした。
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