Ep.32 暗号解読
深夜0時の到来を知らせる振子時計の鐘の音など微塵も気にならないほどの集中力で、俺は心美が置いて行ったスマホの画面に表示されたメモ書きを穴が開くほどに見つめていた。
>cyp tp1c haM
「心美……。俺なら分かるはずだと信じてくれてるんだよな……。」
きっと心美は相棒として、この程度の暗号であれば俺にも解読できるだろうと踏んでメッセージを残したに違いない。俺が自らを奮い立たせるように自己暗示していると、部屋を隈なく調べていたアイーシャが何か違和感を察知したようで、うんうんと唸っている。
「何か分かりましたか……?」
「いや、何故か部屋の中に土砂が入ってきているようでね……。」
粉末状となって床に散らばった土や砂の跡を指で
「GBS本社は都市部から離れた郊外に位置しているでしょ。周辺を川や森といった自然に囲まれた高層ビルで、人通りもあまり多くない1本の幹線道路に隣接しているだけだわ。それなのにもかかわらず、土砂が運ばれてくるなど、まるで犯人は畑弄りでもしてからうちまでやってきたみたいじゃない……?」
言われてみれば確かに不自然だ。何故、車以外に主要な交通手段の無いGBS本社までやってきた人攫いが土砂を残していくのだ。
「くそっ、こんな時に心美が居てくれれば……!」
心美の存在が恋しい。俺は今まで、目を離した瞬間に消え去ってしまいそうなほど儚く不安定な心美を命を賭して護り、支えてあげることこそが己の役割だと思っていた。だが、逆だったのだ。失ってから初めて気付いた。俺の不安定な精神は彼女が傍に居ることによって保たれ、温かく包み込まれていたのだということに。
今にも狂ってしまいそうだ。今にも自我を失ってしまいそうだ。だが、そんな俺の意識を繋ぎ止めているのは、心美を救出しなければならないという使命感と、彼女に会いたいと突き動かされる形容し難い感情の激流だ。
「大丈夫だ……。心美が残したメッセージなら、俺が誰よりも理解できるはずなんだ……。」
すると、心美のスマホを掴む手に力が入り過ぎてしまったのか、無意識のうちにメモ書きが残された画面に指が触れてしまい、文字入力用のキーボードが表示されてしまう。俺は暗号解読に集中するため、余白をもう一度タップしてキーボードを非表示にしようと親指を動かそうとする。だが次の瞬間、ほんの微かな違和感を覚えた俺は、咄嗟にその指を止めた。
「アルファベット……?」
そう、表示されたキーボードは、アルファベット入力用のものだったのだ。無論、暗号がアルファベットで表示されている以上、心美が直近に文字入力したのはアルファベットであるということだから、それに使用されたキーボードが再び表示されるのは、謂わば当然である。では何故、彼女は平仮名ではなく、アルファベットで文字を入力したのだろうか。そもそも、いくら頭脳明晰な心美であろうと、今にも誘拐されそうだという危機に瀕して、咄嗟に難解な暗号を思い付いてメモ書きに残すという芸当は非現実的ではないだろうか。
「キーボードは所謂テンキー状のフリック入力しやすい配列だ。心美もスマホでメッセージを書くときは、フリック入力で文字を打ってる……。」
刹那、俺の脳裏には1つの仮説が浮かんだ。俺はその仮説を
「アイーシャさん! スマホ見せてください!」
「あ、うん。良いけど……。」
俺はアイーシャのスマホに平仮名のテンキーを、心美のスマホにアルファベットのテンキーを表示したまま見比べる。
「アイーシャさん! フリック入力できますよね!?」
「え、えぇ。できるけど……?」
「平仮名のテンキーで、心美の残した暗号のアルファベットをフリック入力した場合と同じ方向にフリックして文字を打ってみてください!」
アイーシャは焦燥感によって語彙力が低下した俺の拙い説明を一発で理解してくれたようで、心美のスマホに表示されたキーボードの配列を見ながら両手の親指を器用にも素早く滑らせる。例えば、アルファベットのテンキーで"c"と打つ場合、上段中列のマスを上方向にフリックすることで表示させることが出来る。これを平仮名のテンキーに置き換えた場合、上段中列はか行のマスなので、上方向にフリックした場合は「く」が表示される。同様に、数字の1はあ行下方向のフリックで「お」に置き換わり、大文字の"M"は中段右列のは行を1回タップした上で濁点を付けるためのキーを押して「ば」となる訳だ。
>くるま やまおく ちかば
アイーシャの助力によって解読された暗号から浮かび上がったのは、3つの単語だった。それぞれ「車」「山奥」「近場」を意味していると推察できる。
「犯人はやはり車でGBS本社まで訪れた上で、ココミを近場の山奥に連れ去ったということかしら……!?」
俺はアイーシャの導出した結論に同意する。誘拐犯が残していった土砂の謎も、犯人が山奥に心美を拉致・監禁するための拠点を有していることを意味しているはずだ。おそらく心美は、部屋へ侵入した誘拐犯から言葉巧みに情報を引き出して、それを悟られないように書き留めておくのが精一杯で、意図的に暗号化したという訳ではないのだろう。それでも、心美の救出と犯人の特定に向けて大きく前進したことに俺は希望を見出す。
「この周辺に山といったらどこですか!?」
噛み付かんばかりの勢いでアイーシャに問い
「お、落ち着いて! 生憎だけど、ブリスベンは都市域や市街地をも巻き込んだ
「そんな……。」
俺は再び絶望の淵へと沈み込んでいき、目の前から光が失われていく。
「だけど、
すると、アイーシャは何処かに向かって電話を架け始めた。早口の英語で捲し立てる彼女の鬼気迫る様相に気圧されたのも束の間、電話を終えたアイーシャが俺に向き直る。
「念のためと思ってビル内に待機させていた社員全員に号令を掛けたわ。ココミは暗号通り近場の山奥に連れ去られたと想定して、付近の山や丘を徹底的に捜索させる。こっからは、人海戦術よ!」
「それは拙くないですか……!? 追手の存在に気付いた誘拐犯が逆上して心美に危害が及ぶかもしれない!」
「その点も抜かりないわ。捜索対象は誘拐犯のものと思われる車だと言っておいた。不自然にも山奥で停車している車を見つけた時点で接近を諦めて、私たちに連絡するように指示したから。」
であれば、ある程度は信頼できるか。アイーシャの警備会社の社員ならば、不審人物への対応や犯罪者の行動心理に一定の理解があるだろうということも期待できる。完全に素人という訳ではないだろう。そして何より、現状は人数の利で
「俺たちはどうすれば……!?」
「残念だけれど、今の私たちに出来ることは全てやり尽くしたわ。後は社員の報告を待って、いつでも出動できる準備を整えておくくらいかしら……。」
「くそっ……。」
──俺はなんて愚かで非力な人間なのか。大切な人ひとり護ることができず、誘拐犯に恐怖を植え付けられ、今この瞬間も何処か薄暗い山奥で心細い思いをしているに違いない心美を助けに行くこともできない。誘拐犯の手によって心美が何か危害を加えられているかもしれないと、最悪の場合を想像するだけで全身の血液が逆流するような怖気が駆け巡り、吐き気を催す。
「おのれ、外道め……。必ず俺の手で始末をつけてやるからな……!」
無力な自分への怒りと犯人への恨みの炎に身を焦がしながら、俺は耐え難い不安感を誤魔化すように歯を食い縛って肌に爪を食い込ませ、心美を攫った憎むべき犯罪者への復讐を固く誓った。
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