ハイリスクハイリターン

Ep.31 攫われ探偵マツリカ

 突如として脳を駆け巡った、身の毛もよだつような悪い予感に突き動かされるようにエレベーターホールへと全力疾走し、最上階へと向かうため狂ったようにボタンを連打する。血相を変えて走り出した俺の慌てっぷりを不審に思ったアイーシャは、エレベーターを今か今かと待つ俺に息を切らして追いついてきた。


「い、いきなり大慌てで走り出して。どうしたの、ケンシン……?」


 俺は全身がばらばらに引き裂けそうな緊張感と焦燥感に支配され、アイーシャの問いかけに返事をする余裕もない。永遠にも感じられるような時間を経て、漸くエレベーターは1階へと降りて来て、ゆっくりと扉が開かれた。そして俺はその扉が開き切らないうちに、滑り込むようにして中へと入る。


「待って! 私も行くわ!」


 アイーシャも俺に続いて、エレベーター内部へと転がり込む。俺は急いで"60"と書かれているボタンを押して、閉扉ボタンを叩き壊さんばかりに連打した。


「っ、まさか──」


 焦慮しょうりょに駆られて黙り込む俺の胸中を察したのか、アイーシャも信じられないといった形相で硬直する。高速で上昇するエレベーターは間もなく60階へ到着すると、俺はフロアに出るや否や、数時間前まで心美と一緒に居たゲストルームへと走って向かい、扉の取っ手に手を掛ける。だが、急いで開け放とうと引っ張った扉はびくとも動かない。


「くそっ、何でだよ──」


「どうしたの!? 鍵が掛かっているの!?」


 いや、違う。この感触は、部屋が施錠されている訳ではない。そう考えた俺は全身全霊で、扉を引く腕に体重を掛けて渾身の力を籠めた。


「おらぁ……!」


 刹那、僅かに開いた扉から部屋の内部に向かって空気が流れ込み、扉は先程までの抵抗力が嘘のように大人しく開け放たれる。どうやら、部屋と廊下の気圧差によって扉が重たくなっていたようだ。何故このような気圧差が生じていたのか、俺は辺りを見回すまでもなくその原因に気が付くことになった。


「窓が、壊されている……!?」


 吹き荒ぶ風の流れを辿れば、ゲストルームの窓に付属している鍵回りのガラスが丁寧にかれているのが見える。叩き壊されている訳ではなく、おそらくはガラスカッターのような代物で人為的に破壊されたものだ。それが果たして何のために成されたことなのか、俺もアイーシャも、理解するのに時間は必要なかった。


「心美……。ここみ……!」


 俺は迷子を捜す親のように姿の見えない愛しい彼女の名前を呼び続ける。──こんなの、嘘だ。一体全体、何の冗談なんだ。


「まさか、予告状に書かれていた最も価値あるものって──」


 そうだ。犯人の目的は価値あるではなく、だったのだ。気が付くのが遅過ぎた。俺は非情にも突き付けられた現実を受け入れることができず、憤怒や悲痛、そして犯人への憎悪が複雑に入り混じった咆哮ほうこうと共に、自らのスーツケースを蹴り上げる。俺の破壊衝動の犠牲となったスーツケースのプラスチック製の外殻は、いびつに凹んで吹き飛ばされた。


「くそっ、俺が付いていながら何て様だ! 心美……! 一体誰が!?」


「落ち着くのよケンシン! ココミは無事だわ! 犯人の狙いが彼女の命なら、わざわざ連れ去る理由がない!」


 アイーシャは激しく狼狽する俺を励ますように、希望的観測を述べる。


「そんなの分からない! 心美に恨みを抱いている勢力の仕業なら、彼女を痛めつけてから殺すつもりで誘拐したのかもしれない! すぐにでも犯人を追跡しないと──」


 一向に平静を取り戻すことができない俺の頬を、アイーシャは突然平手打ちする。驚いて目を見開いた俺の瞳を覗き込みながら、彼女は諭すように告げた。


「いい加減にしなさい! ココミを助けたいんだったら優先すべきは何なの! 衝動的に動いたって事態は好転しない! まずはしっかりと落ち着いて現況を分析するのよ!」


 その言葉と頬の痛みに漸く呼吸が整ってきた俺の脳に、夏夜のオーストラリアの生温い酸素が供給され、思考が明瞭になっていく。


「取り乱してしまってすみません……。」


「いや、良いの。そもそも、厳戒態勢を敷いておきながら警備会社の最も安全な場所から賓客を連れ去られたという時点で、私の面目は丸潰れよ。責めるなら、私を責めて。」


「それを言うなら、俺も一緒です。そもそも犯人は、どうやって警備を潜り抜けて最上階まで──」


「まず観察すべきは、この破壊された窓でしょうね……。」


 室内外の気圧差によってゲストルームの扉が開きづらくなっていた原因の窓を確認する。信じ難い話だが、これを見る限りは、犯人はビル外部から何らかの道具を使って外壁伝いに60階まで上がって、窓を壊して侵入してきたということだろう。


「ガラスカッターで窓の鍵付近を最低限の範囲だけ破壊して外側から鍵を開けて侵入後、心美を誘拐したんだ。でも何故だ……。心美だってのこのこ1人で現れるような犯人に、あっさりと連れ去られるほどやわじゃない。」


「犯人は複数か。いや、あり得ない。60階までビルの外壁を伝って複数人で侵入した上で何の痕跡も残さないなど、そんな芸当は不可能よ。外は既に暗闇だとはいえ、目立つだろうしね。」


 ──考えろ。部屋が荒らされた形跡もほとんどない。すなわち、心美は単独犯相手に碌な抵抗もすることなく、素直に連行されていったということだ。その原因と犯人の目的が分かれば、おのずと心美の行先も見えてくるはずだ。


「そうだ、心美のスマホは……!」


 俺は心美の護衛として平時から、彼女がスマホを携帯している限りGPS機能を使って現在位置を追跡できるように備えていた。俺は急いで自分のスマホを開いてアプリを立ち上げるも、彼女のスマホの位置はGBS本社ビルで停止している。まさかと思い、がさごそと部屋を捜索すると、心美の透き通るような肌の色と同じ純白のベッドシーツに擬態するように、白いスマホが枕元にが置かれていた。だが、俺はそのことに絶望することはなかった。


「心美が土壇場でスマホを置き忘れるなんてあり得ない。何か意味があるはずだ……。」


 俺は心美を救うための手掛かりを入手するためとはいえ、彼女のプライバシーを侵害することに心の中で謝罪をしてからスマホを起動すると、4桁のパスワードによるロックが掛かっていることに気が付く。


「心美が設定しそうなパスワードか……。」


 俺はわらにもすがる思いで、おもむろに心美と同じ日である誕生日を入力する。すると驚くべきことに、スマホの画面はあっさりと切り替わって、俺を持ち主だと錯覚したようだ。あの用心深い心美が、俺たちの誕生日を大切に想ってスマホのパスワードに短絡的な4つのナンバーを設定しているところを思い浮かべて、目頭が熱くなり涙が込み上げてくる。一刻も早く、彼女を助け出してやらなくては。


 スマホのロックが解除された途端に表示されたのは、書きかけのメモアプリの画面だった。表示されているメモの内容は、誰の目に見ても支離滅裂だった。


 >cyp tp1c haM


「何だこれ……。」


「私も見ても良いかしら?」


 俺はその意味不明な文字列をアイーシャにも共有する。彼女の反応は予想通りだった。


「確かに謎深いけれど、ココミが意味もなくこんなメモを残す訳がない。これはケンシン、君に宛てた、彼女からのSOSに違いないわ。」


 アイーシャの示した見解に俺は同意する。何としても、迅速に心美の救出に向かわなければならない。


「心美はアルビノで紫外線に弱い。仮に無事だったとしても、拉致された場所によっては明日の日の出まで持つかは分からない。一刻の猶予もない状態だ……。」


 着の身着のまま、薄着で誘拐されてしまった彼女が明日の朝日に焼かれてしまわぬうちに、絶対に連れ戻してやらねばならない。タイムリミットは限られているのだ。

 

「心美、頼む……! 無事で居てくれ……。」


 俺は無力だ。異国の地でこうして存在するかも分からない神に縋って、心美が生きていてくれることを願うことしかできない無能だ。そんな己の情けなさを呪いながら、必死に思考を巡らせているうちに、部屋に備え付けられた振子時計が日付の変わり目を知らせる鐘を鳴らし始めた。

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