Ep.25 贖罪の時間

 頭に血が上って顔面を紅潮させつつ逆上する一方で、邪魔者である俺たちの存在を抹消するため無慈悲に拳銃を発砲して機先を制する敵の謀略により、俺たちの命は風前の灯火と化す。それでも俺は精神を極限まで研ぎ澄ませ、この絶体絶命の状況を打開するために最善の方策を導き出し、即座に実行に移した。


「うおぉらぁ!」


 遂に本性を現した衆議院議員・足立とその秘書・天道から、俺と心美に向けてそれぞれ放たれた凶弾を咄嗟に防ぐため、俺は座っていたソファの前に鎮座する巨大な大理石のテーブルを持ち上げて盾代わりにすることで、何とか被弾を免れた。


「ぐぁあっ……!」


 どうやら、足立は自ら引き金を引いた拳銃から放たれた弾丸が大理石のテーブルに至近距離で防がれたため、衝突によって砕けた跳弾を喰らったようで、拳銃を手放して倒れ込む。


「心美!」


「分かってる!」


 極限状態により集中力が最大まで高まっている俺と心美は、その好機を見逃すまいと阿吽の呼吸で対応する。足立の手から銃が零れ落ちたと見るや、俺はテーブルを持ち上げたまま心美に発破を掛け、それを受けた彼女はテーブルの下から高速で下段回し蹴りを繰り出して、片方の銃を部屋の隅まで吹き飛ばす。俺はそのままテーブルを盾にタックルして、天道を壁際まで後退させて挟み込む。だが、天道は素早い身のこなしで床に伏せ、俺の攻撃を回避した。


「まずはお前からだ……!」


 天道は寝転がったままの姿勢で、強引にその銃口を心美に向け照準を合わせる。だが、それは俺の狙い通りである。


「ふざけやがって! 潰れてろ!」


 俺は両手に持っていた成人男性の体重ほどはありそうな重量のテーブルを手放し、拳銃を構える天道の腕に自由落下させる。テーブルと床の間に挟み込まれた天道の右腕は、突然の衝撃に耐え切れずに脱力し、拳銃はそのまま床に落ちる。


「がぁあっ……!」


「こっちも預かっとくわよ。」


 見るからに壮絶な痛みに悶えて右腕を抑えながら転げ回る天道を尻目に、心美は透かさず拳銃を拾い上げて弾倉を引き抜いてから部屋の隅へと投げ捨てる。床一面には、足立の腹部に命中した跳弾による血痕が点々と撒き散らされていた。


「年貢の納め時ってやつなんじゃないか。俺も心美も、お前らみたいな手合いには慣れっこなんだよ。つい昨日は菊水親子の命が危なかったから、仕方なく見逃してやっただけだ。思い上がるんじゃねぇ。」


「堅慎の言う通りよ。貴方たちは昨日、以前私たちに接触した暴漢をと呼んで、手榴弾を使うといった似たような手口で菊水家を強襲したわね。現職の国会議員が何故中国スパイの言いなりになんてなったのかしら?」


 中国スパイの協力者であることが心美によって看破され、自身の置かれた絶体絶命の惨状を悟ったのか、足立はぽつりぽつりと心情を吐露し始める。


「この党は、この国はな、腐ってるんだよ!」


「なに……?」


「実際にスパイによる被害が発覚しなければ『スパイ防止法』制定の気運が高まることもない、後手に回るばかりの無能集団のくせに、自らの保身と権力の拡大に資する努力は惜しまない。菊水から話は聞いたろう……? 奴は表沙汰になっていない政治家のスキャンダルを幾つも隠している。そんなこの国の隠蔽体質に嫌気が差したことはないか?」


 足立の言うことは極端だが、俺たちにとって全く理解できないものではなかった。


「だからって、無関係の菊水親子を手に掛ける必要はなかったはずだわ! ましてや貴方たちは、堅慎や私のことまで殺そうとした!」


「俺たちはこの国を浄化するための必要悪だ! 君たち子供には理解できないだろうがな、俺たちは中国スパイからの賄賂を受けたからでも、将来の地位を約束されたからでもなく、この国の未来を憂いて行動したんだ! 破壊なくしては創造もない……! 腐った政治家共を国会から追い出して、政界を浄化するための手段として、俺たちは中国スパイを利用したに過ぎない!」


「利用しただと……?」


「そうだ。政治家共の弱みである重要書類をスパイに受け渡せば、中国政府は我が国の『スパイ防止法』制定阻止に向けてすかさずその書類を公開するだろう。そうなれば、我が国の政界は国内外から抜本的な大改編を求められることになろう!」


「だったらスパイ組織なんかと結託しなくても、自分でその証拠を発表すれば良いじゃないか!」


「流石の俺だろうと、一議員による発言など簡単に揉み消される。それがこの国の穢れたところなのだ! 外国の政府を通じて大々的に公表させることで、より強大な圧力を掛けなくてはならない。それ程にこの国の政界は汚染され切っているのだよ!」


 足立の主張が完全に間違っているとは思わない。だが「スパイ防止法」の法制化は急務である上、現在の戦後最悪とまで称される日中関係を考えれば、これ以上国家間の争いの火種を生み出すことはできない。


「日本の政治の在り方を正したいんだったら、あくまで合法的に努力してくれとしか言いようがない。今は日中関係の危機なんだ。これ以上両国政府の間でいざこざが増えれば、どんな外交問題へと波及するか知れたもんじゃない。『スパイ防止法』制定が頓挫すれば、また新たな中国スパイが日本に流れ込んでくるんだぞ。少しは優先順位を考えろ!」


 足立と言い争ううちに、何やら部屋の外でどたどたと複数人の足音が聞こえてくる。


「堅慎、セキュリティが来たみたいだわ。」


 議員会館の一室で起きた発砲騒動は瞬く間に警備員の耳に入り、ものの数分で現場に駆けつけてきたようだ。


「ねぇ。ところで、貴方たちが盗み出した書類は何処へやったのかしら?」


 そうだった。俺は心美と共に命の危険に晒されたために脳が沸騰したように熱を帯び、すっかり忘れていたものの、心美はいち早く平静を取り戻して目的の書類の在処を尋ねる。すると、足立と天道は心美の質問に対して、くつくつと笑いを噛み殺しながら答える。


「もう遅い。既に中国に向けて発送中だ!」


「なんですって……!?」


「何はともあれ、俺たちの目的は達成された……! 君たちは差し詰め『試合に勝って勝負に負けた』ということだ! あぁ、明日の朝刊が待ち遠しいなぁ──」


 一頻り勝利宣言を終えると、足立と天道は部屋に押し入ったセキュリティたちに連行される。両腕を拘束され、血を流しつつも高笑いしながら事務室を去っていく2人を、俺たちは黙って見送ることしかできなかった。



 §



 駆けつけた警備員や警察によって事情聴取を求められる前に議員会館を飛び出した俺と心美は、傘を差すことも忘れて土砂降りの雨に打たれながら、足立議員によって残された最後の置き土産に大慌てしていた。


「くっ、拙いことになった! どうする心美!?」


「お、落ち着いて堅慎! えーと、まずは足立が書類の発送を依頼した運送会社が分からないことには……。後は発送の際に振り分けられる伝票番号と、配達先の住所も!」


「それって、つまり──」


「足立が拘束されてしまった以上は、分かりようがないわね……。」


 重要書類が中国スパイのもとへと既に発送されてしまい、それを阻止する方法すら分からず悲嘆に暮れていた、まさにその時だった。俺たちの背後から、聞き覚えのある声が雨音に紛れて耳に届いた。


「それならば、分かるかもしれんぞ。」


 その声に驚いて振り返ると、何処からやってきたのか、俺たちの目の前には事の次第を把握している口振りの菊水次郎が、傘を差しながら突っ立っていた。


「貴方は──菊水議員……!? どうしてここに!?」


「娘の陽菜から、貴方たちが足立のもとへと向かったかもしれないと聞いてな。」


「そ、それよりも! って何が……?」


「我々国会議員が関係各所に荷物の配送を依頼するときは、決まってひとつの運送会社を利用している。足立の奴が議員会館から書類を発送したというなら、運送会社に連絡すれば伝票番号や配達先の住所が分からずとも、配送を中止させることができるやもしれん……。」


 なんと、この土壇場に来て次郎が殊勝なる活躍を見せる。もはや俺と心美は、一縷いちるの望みに賭けて彼の提案に縋り付くしかなかった。


「お願いします! 現状は、もうそれしか取り得る手段がありません!」


「分かった……。本を辿れば全て私の責任だ。四方手を尽くしてみよう。」


 俺たちは小走りで立ち去っていく次郎の背中に、祈りを込めて手を合わせることしかできなかった。



 §



「結論から言って、機密書類は無事に私の手元へと戻ってきたよ。」


 翌日の昼下がり、止めどなく降り注いでいた豪雨は嘘だったかのように、夏らしい陽気と共に事務所を訪問してきた次郎から報告を受ける。


「これにて、一件落着ですね。」


「あぁ。『スパイ防止法』も無事に委員会審議を通過した。後は本会議における採決を残すのみだ。」


 内閣提出法案が与党の事前審査を通過している時点で、各議院の過半数を占める与党議員は法案に賛成票を投じるように党議拘束が掛けられている。法案の可決は既定路線と言えるだろう。


「さて、そろそろ本題に入ろうかね……。」


 次郎はテーブルに並べられた茶菓子を退けて、ソファの脇に置いていたジュラルミンケースをテーブルの上へと置いて、俺たちに見せつけるように蓋を開ける。中身は全て、大量の1万円札の束だ。


「貴方たちとの間に口頭で結んだの内容はこうだったね。」


 次郎は律儀にも俺たちとの契約内容を遵守して、犯人確保と重要書類の回収に係る成功報酬に、前金として受領していた金額の倍──追加で1,000万円を持って来ていた。だが、俺は心美の相棒として、彼女が今から言わんとしていることに何となく察しがついていた。


「菊水議員。約束を覚えていてくださり、本当に感謝しております。ですが、この報酬は受け取れません。」


「なに……?」


 心美の放った、俺にとっては予想通りの言葉に、次郎は拍子抜けしたように目を丸くして驚いていた。


「確かに、報酬の支払いは犯人確保と重要書類の回収が条件でした。ですが今回は、我々の独力では後者の条件を達成することができませんでした。」


 ジャスミン茶を啜りながら冷静に答える心美の言うことには、俺も同意せざるを得ない。次郎による助け舟がなければ、俺たちは犯人は確保できても、重要書類の発送阻止には至らなかっただろう。


「ならば、半額の500万でも受け取る気はないか?」


「いえ、契約は契約ですので、折角のご厚意ですが、辞退させていただきます。」


 あれで意外と義理堅い一面のある心美のことだ。一度口に出したことは、例え金銭に関することでも決して曲げることはない。


「その代わり、と言ってはなんですが──」


 心美は報酬を辞退する代わりに、ある条件を提示する。


「『スパイ防止法』の制定後、貴方が隠し立てしているスキャンダルは全て白日の下に晒してください。」


「なんだと……?」


 次の瞬間、穏やかだった事務所内に緊迫感が漂う。


「今回の事件の首謀者である足立議員は、貴方のような汚職政治家の存在を動機としていました。第2第3の事件を未然に防ぐためにも、これ以上の隠蔽はお止めになるべきでは?」


 次郎のような汚職議員の隠蔽体質が改善されない限りは、同様の犯罪が再発しても何ら不思議ではない。そのことを危惧した心美は、意を決して自身の要求を言い放つ。


「一介の探偵に過ぎない貴方が、私にそんなことを指図する権利があるとでも……?」


 互いに一歩も譲らないと言わんばかりの気迫のぶつかり合いに、俺は緊張感に耐え切れずに思わず溜息が漏れる。事が大きくならないうちに心美を制止しようかと考え始めていると、次郎がその重い口を開いた。


「はぁ……。確かに、ここらが潮時かもな。」


「え?」


「いいだろう。貴方の言う通り、法整備が滞りなく終わったあかつきには、政治家たちのスキャンダルを暴露して薄汚れた政界の浄化に尽力した後、私も現在の地位を退くと約束しよう。」


「本当ですか……?」


「私も今回の一件を通じて、目が覚めたよ。私が今まで積み重ねてきた悪行のせいで、妻や娘の命が危険に晒されてしまった。こんなことを続けていれば、いずれ私も足立のように破滅を味わうことになるだろう。家族が巻き添えになるのは、もう二度と御免だからな……。」


 次郎は意外にも心美の提案をあっさりと受け入れ、近日中に議員を辞職することまでを宣言した。


「私の言えた義理ではないが──」


「はい……?」


 すると今度は、雨上がりの空模様にも似た明るい面持ちで次郎は、心美の瞳を覗き込みながらぽつりと呟く。


「こちらからも、ひとつだけお願いがあるんだ。探偵・茉莉花さんへの依頼ではなく、清らかな心を持った御方である、心美さんへのお願いだ。」


 次郎が去り際に告げたのは、俺や心美が予想だにしていなかった一言だった。

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