利敵行為の代償

Ep.22 行方不明の売国奴

 菊水次郎との間に探偵専属契約を結んだ俺たちは、病室で次郎本人から10万円を手渡された後、タクシーで自宅兼事務所まで帰還した。一先ず、現況を整理した上で、今後の方針を立て直さなければならない。


「厄介なことになったわね。犯人の2人組を追うに当たって、めぼしい手掛かりが何もないわ。」


 いくら越境的な機密書類の受け渡しに時間が掛かるとはいえ、残された猶予は限られている。情報通信技術の発展によってインターネット社会の形成が促進された現代においては、オンライン上のやり取りだけでも目的物の取引は可能だ。


「とはいえ『スパイ防止法』の制定を阻止するほどの重大スキャンダルをぶちまけるとなったら、相応の信憑性が保障された証拠が必要だ。犯人たちが手に入れた書類を自ら公開したとしても、何者かも分からない一般人からの出所不明の情報に世間は惑わされないだろう。」


「えぇ。だからと言って、スパイ組織に情報を横流ししてから中国政府によって日本の機密情報が公開されると想定して、画像・映像データによる転送や暗号化を駆使してオンライン上で書類を送信しても、近年は簡単に情報が捏造ねつぞうできる時代だからやはり信用度は低い。よって、実物の受け渡しは必須でしょうね。」


 となると、犯人が国外逃亡の一環として中国に渡って対面でスパイへと実物を受け渡すことが考えられるが、これは心美の言った通り出入国規制が厳格化された今の日本で取るべき手段としてはリスクが高すぎる。


「なら消去法で、フリーマーケットアプリとかを通じた個人間取引で、ある程度は時間を掛けてでも安全に書類を国外へ輸送するってのが、考え得る中で最も可能性が高いんじゃないか……?」


「うーん。でも、それが分かったところで何だって話よね。犯人を追跡するためには何の役にも立たない情報だわ……。」


 そうなのだ。今議論すべきは犯人の今後の動向などではなく、どのようにして犯人が身を潜めている根城を特定するかということだ。


「そもそも、奴等はどうやって俺たちより早くミーシャちゃんを見つけることが出来たんだろう……?」


「それは私も気になってたわ。私たちだって幸運に恵まれたとはいえ、猫捜しの依頼を受けた翌日にはミーシャちゃんを発見したのに、犯人はそれよりも早く猫に接触していた。その一方で、菊水さんの自宅の場所すら知らなかった口振りなのに、首輪に隠されたパスワードや機密書類の保管場所については熟知していた。」


「矛盾してるな……。」


 そうなのだ。ざっと振り返ってみても、犯人の言動には不可解な点が多かった。だが、どれだけ思考を巡らせたところで心美ですら苦戦するような難問だ。俺如きの頭脳では、その違和感の正体に近づくことすらできなかった。



 §



「まあとにかく、まだ時間はあるから、詳しいことは明日改めて考えましょう。堅慎、偶には先にお風呂入っていいわよ。」


「あー、いや。今日はいいかな……。」


「なんでよ。かなり汗かいたでしょ? 汗臭い人と一緒に寝るのは流石に嫌だわ。」


 実を言うと、俺は今日、凶漢共によって投げ込まれた手榴弾から心美を庇い回避行動を取った際に、一月前の事件で負った銃創が開いてしまった。先程から服の下で自分の汗に混じって血の滲む感覚がしているのだが、今のところはシャツの上に羽織っているジャケットがうまいこと隠してくれている。俺はそれを良いことに、彼女に要らぬ心配を掛けたくないのでずっと黙っていたものの、期せずして心美に不審がられてしまう。類まれなる洞察力に長けた相棒の目は、こうなったらもう誤魔化せない。


「ちょっと堅慎、服脱いで。」


「え、ちょっと待て!」


 有無を言わさぬ冷たい物言いで俺の着ているジャケットに手を掛ける心美に、俺はされるがまま服を脱がされる。


「っ、血が出てる……!」


 先日撃たれた左肩の傷が開いて血がどくどくと流れ出た跡が残っているも、既に血は止まっている。


「もうとっくに止まってる。大丈夫だこのくらい──」


「この馬鹿!」


 心美は俺をソファに座らせてシャツを剥ぎ取り、ウェットティッシュで乾いて肌にこびりついた血を拭いながら怒気を孕んだ声で言う。


「堅慎、この前言ってたわよね。仕事としてではなく、大切な幼馴染として私を護ってくれてるって……!」


「あ、あぁ……。」


「そんなの、貴方だけじゃないのよ! 私だって、堅慎はたった1人の家族だから、大切な人だから、貴方が傷付いてる姿なんて見たくない! けど──」


「っ……。」


「私のために傷付いて、それを隠されるのは、もっと嫌……!」


 心美の語気は次第に弱まって、代わりに彼女の紅い双眸から涙が零れ落ちる。


「わ、悪かったよ。分かったから、泣かないでくれ……。」


「泣かせたのは、堅慎なんだから……。」


 俺は彼女が泣き止むまで平謝りに謝り、左腕が上がらない俺の代わりに全身を濡れタオルで拭いてもらった。最初は自分でできるからと拒否しようとしたものの、問答無用と言わんばかりの冷徹な視線に貫かれた俺は首を縦に振って言う通りにする他なかった。湯浴みして汗を流した心美と床に就いた時、彼女との距離が何だかいつもより少しだけ近かったような気がした。



 §



 沛然はいぜんと窓を叩く、弱々しい水音に目が覚める。ベッドから這い出てカーテンを開けると、梅雨の時期はうに過ぎたというのに、篠突しのつく雨が家の外壁や屋根にぶつかって穏やかな音色を奏でている。俺はそっとカーテンを閉じて、未だ夢の世界を彷徨っている白髪の少女を揺すり起こす。


「所長様。仕事のお時間でございますよ。」


「……。」


 おや、全く反応がないとは珍しい。仕方がないので俺は先にリビングで温かいジャスミンを飲みながらゆっくりと心美が起きてくるのを待つことにする。ふと時計を見上げれば、時刻は6時30分にもなっていない。通りで熟睡している訳だ。


「犯人追跡の手掛かり、か……。」


 俺は昨日から残されたままの課題を、もう一度頭の中で反芻する。もたもたしていたら犯人たちによって強奪された機密情報が中国スパイの手に渡ってしまう。何とかして、出来れば今日中に犯人の居場所を特定しなければならないだろう。だが、そのようなことが果たして可能なのだろうか。


 不明点は大きく分けて2つだ。1つは、何故犯人がミーシャちゃんの首輪に隠された謎を知っていたのか。もう1つは、犯人は菊水家の場所は知らなかったのに、何故ミーシャちゃんの失踪に気付いて俺たちより早く発見に至ったのかということだ。


「どっちも分かりっこねぇ……。」


「分かるわよ?」


 すると、いつの間に起床したのか、心美が背後から声を掛けてくるので俺は驚いて飛び上がる。


「うぉお! 驚かすなよ……!」


「驚かしたつもりはないわよ……。」


 気怠そうに服の袖で寝惚け眼を擦りながら答える心美へ、俺は問いかける。


「分かるって、何がだよ。」


「その2つの謎の共通点は何?」


「共通点……?」


 俺は自身の問い掛けに対して質問で返されたことに困惑するも、彼女の真意を推し量ろうと寝起きでまともに働かない脳細胞を総動員して思案する。


「分からない。」


「えぇ……?」


「違う、ことが共通点だ。」


「ほー。その心は?」


「犯人には到底知り得ないはずの情報──つまり『分からない』はずの情報が筒抜けだったことが共通点だ。」


 そうだ。犯人はミーシャちゃんの首輪の謎など知る由もなかったはずだ。あまつさえミーシャちゃんが失踪したことだって、関知しようがない。本来あの2人組にははずの情報だった。


「それでは、答えをどうぞ?」


 俺は意を決して、たった今行き着いた結論を述べる。


「もしかしたらこの事件、菊水家を強襲した犯人に情報を提供した、まだ見ぬ黒幕が存在している可能性がある。」


「お見事!」


 心美はご満悦といった表情でぱちぱちと拍手をして、俺の見解に同意を示す。


「なんだよ。そんなことまで分かってたなら、昨日のうちに教えてくれれば良かったのに……。」


「私も起きたら思い付いたのよ。寝ながらでも推理ができる、次世代の天才探偵とは私のことよ!」


 空は雨模様で心美にとって今日は絶好の外出日和で、犯人追跡の目処も立った。朝っぱらから珍しくテンション高めな心美の姿を見て、俺も元気を貰ったような気がする。


「よし。そうと決まれば、まずはもう一度菊水さんのところに行って、黒幕に心当たりがないか聞いてみよう!」

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